第78話「追う者と追われる者(伍)」
葵が軟禁されている屋敷に結城道忠が顔を出したのは、日も暮れようかという頃だった。
簡単に名乗りを済ませると、道忠は夕闇に表情を浸しながら用件を切り出す。
「東勝寺にいるあの小僧――新熊野といったか。あれの素性について、そなたの知っていることを話してもらいたい」
北畠勢の参謀が一介の小僧を気に掛ける必要などない。
道忠は既に、新熊野の素性について何かを掴んでいるのだろう。
ただ、決定的な証言を得るには至っていない。だからこそ、こうして葵の前に姿を見せたのだ。
「新熊野の素性と申されましても、私は何も知りませぬ。あの子にはときどき武芸を伝えているのみです」
「なるほど」
道忠はしばし思案した後、葵の前に包みを差し出した。
「開けてみよ」
嫌な予感を覚えたが、葵は覚悟を決めて包みを開いた。
中に入っていたのは、人の指だった。全部で十本。まだ斬られて間もないのか、かすかに臭いが漂っている。
「足利方の間者と思しき者を幾人か捕らえておる。男女合わせて五名。二本ずつ頂戴した」
「……」
「さすがに、一国の守護の奥方にこのようなことはできぬ。顕家殿からも、そなたには手をあげるなときつく言われておる。――が、今は時間が惜しい。必要であればこの道忠、手段を選ばぬつもりだ」
この老人はやると言ったらやるだろう。それは、部屋に入ってきたときの眼差しからも察することができた。
双眸に、殺気が宿っている。目的を達成するためにはあらゆる手段を取る。そういう覚悟がなければ出せない気配だ。
「あの小僧が足利に連なる者であることは調べがついている。だが、それだけでは足りぬのだ。細川や桃井辺りの子では意味がない。その程度の子どもを、守護の奥方が気に掛けるとも思えぬ。尾張、吉良――あるいは足利宗家。先代の子か、あるいは尊氏殿の子と見ている」
「……なにを企んでおられるのですか」
「薄々察しているのではないか」
それ以上道忠は言葉を漏らさなかった。
重い沈黙が二人の間に漂う。
一向に口を開かない相手に痺れを切らしたのは、道忠の方だった。
「重ねて問う。新熊野という小僧の素性について、そなたの知っていることを話してもらいたい」
指だけでは済まないかもしれない。
だが、道忠が何をしようとしているかを考えると、素直に吐くわけにもいかなかった。
一瞬、脳裏に重茂の顔が浮かんだ。
鎌倉に残ると言ったとき、彼は困ったような表情を浮かべていた。
葵が一度言い出したら引かない性格だと知っているからだ。
渋々納得していたが、くどいくらいに「危ないと思ったら逃げろ」と念押しされた。
彼は、怒るかもしれない。あるいは、呆れるかもしれない。
「――重ねて答えます。あの子は私の武芸の弟子。それ以外のことは何も存じ上げませぬ」
葵と道忠の視線がぶつかり合う。
相手の眼に恐怖を上回る強さを見たのか、道忠は顔をしかめて頭を振った。
「愚かな判断をしたな」
「知らぬものは知らぬとしか言えませぬゆえ」
「分かった。……おい」
道忠に呼ばれて、部屋に二人の男が入ってくる。
彼らが聞き取り役なのだろう。どちらも何の感情も読み取れない。仕事に徹する者の顔をしている。
「人払いは済ませてある。時間はない。なんとしても吐かせろ」
「承知しました」
男たちがゆっくりと葵の元に近寄ってくる。
この先なにが起きるのか、葵は一瞬だけ想像して思考を打ち切った。
ここからは、ひたすら耐え忍ぶしかない。
そのとき、すぐ側で物音がした。皆の視線がそちらに――部屋の外へと向けられる。
「何者だ。ここには近寄るなと命じておいたはずだが」
道忠の鋭い問いかけに応じるかのように、部屋の戸が勢いよく開け放たれた。
「……わ、私です。道忠殿」
震える声を精一杯絞り出しながら現れたのは、話題に挙がっていた新熊野だった。
彼は道忠たちに怯みながらも視線をそらさず、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「私の素性など、葵殿に聞くまでもない。私が知っています。そう、私は知っているのです。回りくどいことをせず、直接お尋ねになれば良い」
「新熊野殿、なにを――」
口を挟みかけた葵に、新熊野は泣きそうな顔を向けた。
「そなたは、自分が何者かを知っているのか」
「知っています。葵殿に、聞きました」
葵は新熊野に対して出自の話などしたことはない。
新熊野はおそらく、葵を心配して様子を窺っていたのだろう。
そして異変を察して――破れかぶれで姿を見せたに違いなかった。
「私は、足利尊氏の子。――足利、尊氏の子ですッ」
新熊野の言葉は、絶叫と言っても差し支えなかった。
憧れだった大塔宮を討ち滅ぼした足利の子と名乗る。それは、かなりの苦痛を伴うはずだった。
ましてや、ここは足利を敵とする者たちの制する地である。
新熊野は葵と道忠たちの間に割って入り、仁王立ちして正面の男たちを睨み据えた。
「斬るなら斬られるが良い。覚悟はできております」
言葉とは裏腹に、新熊野の足は恐怖で震えている。
いくら武芸の鍛錬を積んでいるとは言え、まだ子どもである。
戦の経験がある武士を前にしたら、恐れが生じるのは当然のことだった。
道忠は、注意深く葵と新熊野の様子を窺っていた。
新熊野の発言を鵜呑みにしたわけではないだろう。ただ、その発言をどのように利用しようか考える冷徹さがある。
「新熊野。そなた、己の申したことの意味が分かっておるのか」
「分かっています」
分かってなどいない。
葵はそう言いたかったが、道忠の側にいる男二人の殺気によって、言葉が封じられてしまった。
自分が斬られるならばまだ良い。だが、場合によっては新熊野が斬られる恐れもある。
「……斬りはせぬ」
しばし思案に耽った末に、道忠は頭を振った。側にいた男たちの殺気も薄らぐ。ただ、まだ完全に消えたわけではない。
「足利は我らの敵だ。今は、な。だが、そなたが尊氏殿の子で――我らに味方すれば、話は変わってくる。そうは思わぬか」
「私が、北畠殿の……?」
新熊野に向かって、道忠は大きく頷いてみせた。
「手足となって働く者は我らが用意しよう。そなたは将の一人として旗頭になれば良い。大塔宮のようにとまではいかぬが、将軍になるべく第一歩を踏み出す良い機会になる」
葵からは、新熊野の表情は見えない。
これは惨い仕打ちだった。自分の氏素性も知らなかった子どもに、多くのものを押し付けすぎている。
憧れの対象たる大塔宮、その仇である足利。両者の存在が、彼の中で重しとなって圧し掛かっている。
新熊野の心は、大嵐の只中にあるに違いなかった。
「新熊野殿、意識を乱してはなりませぬ。腹に力を込めて、目の前の相手をしっかりと見るのです」
葵の叱責に、新熊野から漂っていた戸惑いの気配が淡いものとなった。
心の整理は簡単にはつかないだろう。そういうときは、身体の方から落ち着けていくしかない。
「……道忠殿。私にそのような大任は無理です」
「当面、そなたはいるだけで良い。難しいことはすべてこちらで行う」
「ですが」
「――言っておくが、そなたに選ぶ権利はない。我らに味方せぬということであれば、葵殿もろとも死んでもらうだけだ」
道忠は本気だった。彼が葵や新熊野に向ける眼差しには、情というものが一切こもっていない。
北畠顕家の参謀としてすべてを賭す。今の道忠にあるのは、それだけなのだろう。
「そなたが我らに味方し続ける限り、両人には手を出さぬと約束しよう。なに、悪い話でもあるまい」
新熊野は答えない。
引き返せなくなった状況に直面して、ようやく自分の言葉の重さが分かってきたのかもしれない。
「先ほどの軍議で決まったことだが、我らは明日ここを出立する」
「明日――」
「左様。新熊野、そなたにはここに残って新たな鎌倉の主となってもらう。葵殿は我らと共に上洛してもらおうか」
葵を新熊野に対する人質として使う。道忠は言外にそう告げていた。
明日の支度があると言って、道忠は男たちを連れてその場を去る。
残された新熊野は、辛さを堪えるかのような表情を葵に向けてきた。
「新熊野殿、なぜあのようなことを」
「……葵殿。俺は、まことに足利の子なのですか」
新熊野はすがるように問う。葵の言葉に応える余裕などなさそうだった。
「聞いてしまったのです。道忠殿と葵殿のやり取りを。だから、出まかせを言った。取り返しのつかないことをしたかもしれない。しかし、道忠殿の言葉には妙な説得力もあったのです。考えてみれば、葵殿のような方が一介の小僧をそこまで気に掛けるはずもない。俺が足利の……相応の立場にいる者の子なら、納得できてしまう」
葵は逡巡した。
事実をこの場で告げて良いのかどうか。
新熊野のことを第一に考えて言葉を選ぶべきか、足利家への忠義を優先して選ぶべきか。
そんな葵の迷いは、新熊野にも伝わった。
否定の言葉がない。それが答えなのだと、新熊野は受け取った。
「俺には、親がいません。いないものだと思い定めて生きてきました。ですが、葵殿が稽古をつけてくれるようになってから、考えるようになってしまったのです。親がいたら、このように向き合ってくれるのだろうかと」
「新熊野殿」
「……申し訳ありませぬ。埒もないことを、つまらぬことを口にしました」
そう言い残すと、新熊野は逃げるように部屋から去っていく。
引き留める言葉は出てこない。今の新熊野に何を言ってあげられるのか、葵には分からなくなっていた。





