第68話「利根川の戦い(陸)」
武者が幾人か、冬の利根川に消えた。
平家物語で知られる古の名将・斎藤実盛に連なる武士だったという。
下野での戦を強引に終わらせ、顕家たちは急ぎ南下した。
小山も宇都宮も完全に攻め落としたわけではない。半ば懐柔する形で戦を終わらせたのだ。
鎌倉を落とし、後顧の憂いを断ってから上京する。そのためには、利根川を越える必要があった。
しかし、足利方の手引きによるものか、戦を嫌ったか、川を渡すための渡し守がいない。どこから川を渡るべきか、判断がつかなかった。
土地勘のある武士に案内させて茂呂の地まで来たが、本当にここで良いのか決心がつかなかった。
そんな顕家に彼ら――川底へ消えた武士たちは告げた。
古来より、川における戦は先に渡った方が勝つ。
是非とも我らに先駆けをお許しいただきたい、と。
正直なところ、顕家にとってその言葉は腑に落ちなかった。
敵前で川を渡るのは危険だ。しばらくの間は、半ば一方的に攻撃される恐れがある。
先に渡った方が勝ったというのは、所詮結果論でしかないのではないか。
しかし、一方でそれを信じる武士の在り様を理解していた。
縁起と言ってしまえばそれまでである。だが、その縁起のために命を賭して事を為そうとする者がいる。
川を先に渡ることができれば、味方の士気は大いに上がるであろう。
仮に、失敗したとしても――。
「皆の者」
先行く武者が沈み、北畠勢に沈黙が広がったとき。
顕家は、全軍に届くよう若々しい声を張り上げた。
ここは切所。逆に言えば、ここを乗り越えればあとはどうにかなる――そんな予感があった。
「見たか、勇気ある武者が川を渡ろうとする様を。見たか、敵が一歩も動かぬ様を。彼らは示したのだ、敵は腑抜けであると。我らが続けばこの川を渡れると。さすがはかの斎藤実盛の流れを汲む武者である」
武士が奮い立ちそうな言葉を選び、力強く刻み付けていく。
彼らを動かすのだ。前へと向かわせるのだ。そのためならば、どんな欺瞞であろうと厭ってはならない。
「彼らのような忠義に報いよう。私は武士にあらず。されど武士の心意気を知る者である」
静けさの中から、少しずつざわめきが広がっていく。
困惑ではない。熱気を帯びたざわめきである。北畠勢の意識が対岸に向きつつあった。
「ここから戻れば極寒の奥州。されど、ここから進めば坂東平野が我らの望むものを与えてくれるであろう。皆の者、ここから先は死地ではない。我らの糧となる地だ。恐れるな。進むのだ。往けば得られる」
そこで顕家は大きく息を吸い込み、これまで以上の大音声で告げた。
「迷わず進め――!」
「進め――!」
顕家に呼応して、傍にいた南部師行・伊達行朝・宇都宮公綱が咆哮する。
歴戦の将たちの声は、瞬く間に熱気――否、進むための狂気を全軍に広げていった。
「お見事でございます」
結城道忠が労うように顕家へと声をかけてくる。
そこで、顕家は初めて自分が想像以上に疲弊していることに気づいた。
数多の人間を死地に向かわせるための欺瞞。それを自らの言葉として発することが、どれだけ大変なことか。
こういうことは初めてではない。だが、未だに慣れるものではなかった。
「道忠」
「はい」
「私は、大嘘つきだな」
「兵は詭道なり、と申します」
「私は嘘があまり好きではない」
「それでも必要であればやってのける。だから、我々は貴方を大将として仰いでいるのです」
その言葉は、顕家にとって嬉しくもあり、重くもある。
「世から戦がなくなれば、詭道も不要になるかな」
「それは」
「戯言だ。戦場でなくとも嘘偽りは人の生活の中にある。不要になることなど、ないのだろう」
顕家は前を見据えた。
北畠勢の将たちが、郎党たちを引き連れて川へと突き進んでいく。
自分だけ安全なところで見ているわけにもいくまい。
「行くぞ、道忠。今は往かねばならぬ」
「承知」
復路はない。今の顕家たちにできるのは、ただ進むことだけだった。
動いた。
動いてしまった。
武者が数人、渡河に失敗した。そこで意気消沈してくれれば良かったが、そんなにうまい話はなかった。
北畠勢の武者が、次々と利根川に飛び込んでくる。中には沈む者もいるが、もはやそこで歩みを止める者はいなかった。
個の損失を恐れぬ群体として、こちらを呑み込まんと攻め寄せてくる。敵の士気は、最高潮に達していた。
「重茂殿よ、ことここに至ってはもはや迎え撃つより他にないぞ」
桃井直常の言葉に重茂も頷く。
戦力差は大きく、士気すらもこちらは劣っている。
それでも、ここで退けば上野・武蔵が蹂躙される。味方が集まるまでは、耐え抜くしかない。
「迎撃だ。矢は無駄に射かけるな。騎馬の者は馬同士をつなぎ、流されぬよう注意しながら壁となって敵を払え。徒歩の者は石を集めて敵に投げ続けよ!」
ただでさえ劣る戦力を更に失うわけにはいかない。
無理に渡河するよりも、防衛に徹する方が良い。そう判断した重茂は、突破されにくい構えを築くことを第一とした。
急ごしらえの陣に北畠勢の先頭が迫る。
あっという間に、あちこちで衝突が始まった。
渡河で疲労している敵を馬上から長物で打ち倒す。後方からは、石礫が絶え間なく浴びせられる。
個々の戦いにおいては、重茂側が有利な状況である。しかし、数の差が大きい。
敵はどんどん横に広がっていく。そのすべてを防ぎきるだけの人数はいなかった。
このまま放置しておけば、やがて囲まれてしまう。
「治兵衛、河越・高坂の衆はまだ来ないのか」
「はっ。まだ姿が確認できませぬ」
「上杉の手勢は?」
「近くにいた者たちは少しずつ集まっていますが、とても戦況を変えられるほどではありませぬ」
「さりとて憲顕がこちらに来るにはまだ時間がかかる、か」
憲顕の本隊が駆け付ければ戦況を変えられる可能性はある。
しかし、いかんせんここからは遠い。状況を知らせる使者は出しているが、到底間に合わないだろう。
そのとき、重茂は視線の先に一人の若武者を捉えた。
家長とさほど違わない年の頃。しかし、どこぞの武家の若武者というには、周囲の警戒が厳重すぎる。
その近くに高々と掲げられた旗には、笹竜胆の紋が描かれている。それを見た瞬間、重茂は若武者の正体を察した。
「直常殿、しばし士気をお預けしても良いか」
「何をするつもりだ、重茂殿」
「北畠顕家らしき者を見かけた。今なら討てるかもしれぬ」
「おい、それなら俺が――」
止める直常の声を振り切って、重茂は自らの馬を走らせた。
慌てて追ってきた治兵衛が悪態をつく。
「将自らが軽々しく前に出るものではありませぬぞ」
「あれこれ説明している間に機を逃してはどうにもならぬ。自分で動くのが一番早い」
「それで返り討ちにあえば皆が動揺します!」
「俺の代わりは直常殿がいる。軍の指揮は、あちらの方が上手いであろうよ。なら問題あるまい」
やや自嘲するように言うと、重茂は近場の高所――少しだけ隆起している川沿いの地に辿り着いた。
移動しながらも、重茂は常に顕家らしき若者から目を離さなかった。今も視線の先に捉えている。
「ここからなら、やれる」
狙うなら一度で決めなければならない。
失敗すれば、警戒して周囲で顕家をより厳重に囲みこむだろう。
震える腕をもう片方の手で叩き、鎧を少し外して弓矢を構えた。
これまで戦功には恵まれなかったが、弓馬の鍛錬は十分に積んできた。
仕損じることはない。ここで、必ず決めてみせる。
「御覚悟を、北畠殿――!」
気づかれぬよう小声で言葉を紡ぎ、重茂は矢を放った。
狙いは正確。
川の途上にあって不安定な標的ではあるが、その矢は確かに顕家に当たらんとしていた。
不意の寒気が、顕家の身体を襲った。
冬の川の寒さによるものではない。もっと別種の、致命的なものを感じさせる寒さである。
気づいたときには、大きく身体が傾いていた。
側に控えていた伊達行朝が、顕家の方に倒れ込んできたのである。
見ると、行朝の鎧には矢が一つ突き刺さっていた。
「周囲を囲め! 北畠殿をお守りしろ!」
即座に南部師行が顕家の周囲を固める。
そのとき、ようやく顕家は行朝が自分をかばったのだということに気づいた。
「伊達殿、しっかりなされよ!」
「……ご無礼を。私は大事ございませぬ。少々、肝は冷えましたが」
矢は行朝の鎧を貫通したが、致命傷には至らなかったらしい。
行朝が倒れ込んできたのは、顕家を庇おうとしたからだったようだ。
顕家はすぐに周囲へと視線を走らせた。
対岸の高所。そこに、鎧を一部外した武士が一人いる。
一瞬、視線が合う。
そのとき、その武士は咄嗟に傍の郎党らしき者から旗を取り、堂々と掲げてみせた。
花七宝の御紋。
それは、足利に仕えし高一族の家紋。
「あれは足利尊氏の執事・高師直が実弟、高重茂ですな。見覚えがあります」
道忠が断ずる。建武の新政の折、どこかで見かけたのだろう。
重茂はほんの束の間、顕家たちの方をじっと見ていた。
やがて、己の失敗を確信したのだろう。不服そうな表情を浮かべながらも、防いだ顕家たちに対する敬意のつもりなのか、一礼してからその場を去っていく。
重茂の姿が完全に消えると、ようやく行朝が息を吐いた。
「敵の将自らが出てきた。それだけ向こうは余裕がなかったのでしょう」
「起死回生の一手として、北畠殿を直接狙おうとしたのでしょうな」
伊達行朝や南部師行が言葉を交わす中、顕家はなおも重茂がいた方を見つめている。
「あの男が、いかがされましたか?」
「何も感じなかったのだ。あの男からは」
「何も?」
「これまで、幾人かの名将と顔を合わす機会があった。皆、一廉の人物だと思わされるものを感じた。だが、あの男からはそういうものを感じなかった」
「それは、高重茂という男がその程度の男だということなのでしょう」
「そうかもしれぬ。ただ――」
顕家の眼差しに、軽蔑の色はない。
「ただ、私ならあのように振る舞えていたかと、そう思っただけだ」
嘘偽りなど申さず、自らの矢をもって戦場に臨む。
それは大将の在り方ではない。名将たる者の行動ではない。
それでも顕家には、そんな在り様が少しだけ羨ましかった。





