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花七宝の影法師~天下ノ執事の弟、南北朝の世で奮闘す~  作者: 夕月日暮
第3章「新星の秋」
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第67話「利根川の戦い(伍)」

 下野しもつけの動静に気を揉みながらも、家長いえなが千寿王せんじゅおう登子なりこに現状を報告した。

 千寿王はまだ少年の身ではあるが、既に戦というものを知っている。

 今の状況が抜き差しならぬものだということは、十分に理解していた。


「家長よ、援軍は来てくれそうか」

駿河するが伊豆いず越後えちご信濃しなのからは承ったとの返書が届いております。準備ができ次第、ただちに馳せ参じるとのこと」

甲斐かいは?」

「返書はありませぬな。武田たけだ政義まさよしは先帝からの信任も厚かった男です。再びあちらに寝返ったということも考えられます」


 家長が抱いている構想は、利根川で敵を押さえている間に援軍を集め、北畠きたばたけ勢を広域的に包囲してしまうというものだった。

 奥州に残っている足利あしかが方にも連絡を取ろうとしているが、そちらに関しては使者がまだ戻ってきていない。

 北畠勢は情報というものを重視しているようで、密かに奥州や下野に送った人間が戻らないことが多い。連携を分断しようと、向こうも必死なのだろう。


「敵は強大な北畠の軍。家長殿、忌憚なき意見を聞きたい。勝てる見込みはあるのですか」


 登子の問いかけは、臆病風から生じたものではない。

 名門・北条ほうじょう氏の一門に生まれ、足利宗家の元に嫁いだだけあって、彼女の肝の据わり方は並の男の比ではなかった。

 彼女の問いかけの真意は、負ける可能性が高いなら千寿王をどう逃がすか、という点にある。


「かつて殿は、北畠勢に追われて鎮西へと落ち延びました。その矢先、菊池きくちをはじめとする大軍に襲われました。しかし、そのとき殿は鎮西各地の武士を味方につけていました。これを凌げば勝てる、そういう希望が見えていたのです。そして勝ちました。此度の戦もそれと同じことです」


 鶴岡つるがおか八幡はちまん宮寺をはじめとする坂東の寺社に戦勝祈願を頼んでいる。

 味方につく見込みのある武士には一通り声をかけた。情報収集は現在進行形で進めている。

 やれることはすべてやっている。家長としては、負けるつもりなど微塵もなかった。


「下野が粘り、利根川で食い止める。万一そこが破られても、この鎌倉にこもればしばらくは凌げましょう。その間に援軍が北畠を包囲する。それでこの戦は勝てます」


 そこで家長は言葉を一旦切った。

 負けるつもりでする戦ではない。

 しかし、どんな戦であろうと負けるときは負ける。


「――が、確実に勝てる戦というものはございませぬ。将というものは負け方も考えておく必要があります」


 半ば自分に、もう半ばは千寿王に言い聞かせるように言葉を吐く。


「万一鎌倉が攻め落とされるようであれば、千寿王様・御方様は上総かずさに向かっていただきます。守護代である薬師寺やくしじ殿がお迎えの準備を整えておられますゆえ、御心配なさることはありません」

「家長はどうする?」


 千寿王の問いに、家長は微笑みを浮かべた。

 それは、答えることのできない答えを言外に伝える笑みである。

 幼いながらも千寿王はそれを察して、「よい」と頭を振った。




 憲顕のりあきは手堅い男だった。利根川沿いと言っても範囲は非常に広く、すべての位置に軍を置いておくのは非現実的である。

 しかし、彼は敵の侵入を見逃すまいと、一定の距離ごとに兵を一定数必ず配置していた。いざというときすぐに連携が取れるようにとの考えからである。

 西側に駆ける重茂しげもちたちは、手短にそういった兵たちと情報交換をしていった。しかし、誰も北畠勢の正確な情報を持っていない。

 渡河して情報を集めようとした者たちもいたらしいが、一人として戻っていなかった。情報が封じられている。


 対岸の霧は少しずつ晴れてきた。徐々に敵の姿が露わになっていく。

 思った以上の規模だった。先遣隊にしては多過ぎる。


大和やまと権守ごんのかみ殿、あれは敵の本隊では?」


 険しい表情を浮かべて、高坂たかさか氏重うじしげが注進してくる。

 重茂もその可能性を考えるようになっていた。小山おやま城攻めから十分な休息を得たとは考えにくいが、疲労を承知の上で、余勢を駆って一気に南下するつもりなのかもしれない。


「どうします大将、いっちょ渡河して一発ぶちかましてきましょうか」


 息巻く河越かわごえ直重ただしげに、重茂は「よせ」と制止の言葉をかけた。

 敵軍はまだ動き続けている。渡河するポイントを見極めようとしているのだろう。

 こちらが動くのは、相手がどこから渡河するか決めてからである。


「分かってますよ、さすがに本気でやるつもりはない」

「止めなければ小手調べくらいは――とか考えていなかったか?」

「そいつはご想像にお任せします」


 ただでさえこの寒さの中の渡河は危険なのだ。貴重な戦力を失う愚は避けたい。


 霧が少し晴れていく度に、新たな敵の姿が目に入ってくる。

 そろそろ勘弁して欲しいと思い始めた頃、ようやく敵軍が動きを止めた。

 元々憲顕たちといた場所からはかなり西に移動している。茂呂もろ、と呼ばれる地域だった。


「重茂殿よ、こいつは――」


 桃井もものい直常ただつねが両の眼を見開いて、対岸の北畠勢に視線を向けていた。

 当初想定していた先遣隊というような規模ではない。敵の本隊としか見えなかった。

 思った以上に戦力を集中させているのも見て取れる。

 戦力を分散させたこの状態で迎え撃つのは、かなり分が悪そうだった。


「河越殿、高坂殿。すまぬが別途軍勢を率いている御父君の元に向かい、今すぐ茂呂へ集結するよう伝えてはもらえぬか」

「ここが決戦の地というわけですかな」

「おそらくそうなる。もしこのまま敵が渡河に成功すれば、こちらは蹴散らされるかもしれん」


 弱気なことを言ったと受け取ったのか、河越直重は不満そうに唇を尖らせた。


「悲観的ですな。戦というものは、やってみるまで分からぬものでしょう」

「やる前から見えるものというのはあるのだ、河越殿。この大和権守、武功こそ少ないがそれなりに場数は踏んでいる。その経験から言わせてもらうと、この状況は非常にまずい」


 この感覚は、あの多々良浜たたらはまのときにもなかったものだ。無論、他の戦でもほとんど感じたことはない。

 唯一、三井寺みいでらの戦で負けたあとの感覚に似ている。新田にった楠木くすのき・北畠によって足利が追い落とされ、幾人もの人間が尊氏たちを逃がすため犠牲になった、屈指の危機的状況である。


 重茂の様子を見て、河越直重・高坂氏重も表情を改めた。

 承知したと短く告げると、一目散に父親のいる軍勢へと馬を駆けさせていく。


 そうしている間にも、北畠勢は後続が追いつき、更に肥大化していく。

 冬の利根川を前に足踏みしている格好ではあるが、見る者を圧倒する威容が備わった陣容だった。


「旗を、高く掲げよ」


 味方の士気が落ちては話にならない。

 重茂は、花七宝の紋様が描かれた高一族の旗を高々と掲げさせた。


 そうこうしているうちに、山内やまのうち経之つねゆきがなにかを見つけたらしい。

 大和権守殿、と鋭い声を張り上げた。


 経之が指し示した先には、渡河を試みようとする数人も武士の姿があった。

 競い合うように、極寒の川を渡ろうと進んでくる。


「矢を射かけましょうか」

「駄目だ。もっとこちらに来てからでなければ届かない。矢の本数もそこまで余裕はない、無駄遣いをしてはならぬぞ」


 経之に限らず、武蔵むさしの中小武士は戦支度が十分とは言えないところもあった。

 鎧・兜は修繕が半端なものもあるし、弓も使い古したものばかり。矢もさほど本数はなく、中には何度か使って歪んでしまっているようなものを持っている者もいる。


「こちらも渡河を試みてはどうだ。相手が先に渡り切ってしまうと、敵に勢いを持っていかれるぞ」


 直常の意見に、重茂は唸った。

 渡河は敵に狙われやすく、渡るという行為そのものも危険を孕んでいる。非常にリスクの高い行動だった。

 それだけに成し遂げるのは大変な名誉とも言える。名誉ある行いは味方を鼓舞する。敵に先手を取られるのは、やはりまずい。


 重茂の脳裏に、様々な状況が浮かんでは消えた。

 短い時間の中で、あらゆる可能性を考えていく。

 しかしそれらの空想は、一つの経験によってたやすく塗り潰された。


 多々良浜の戦い。

 足利氏の窮地とも言える重要な戦において、重茂は勇猛果敢に多々良川へと突っ込み――そして沈んだ。

 あのときの悔しさと情けなさは、そうたやすく忘れられるものではない。むやみに渡河を試みれば、同じ失敗をする恐れがある。


「いや、ここは待とう。動くのは味方と合流してからだ」


 やがて、渡河を試みていた北畠勢の者たちは川の中へと沈んでいった。

 やはり冬の利根川を渡るのは危険である。自分にそう言い聞かせながら、重茂は胸をなでおろした。


 頼むから、もう動いてくれるな。

 祈るような心地で、重茂は対岸の北畠勢を睨み続けた。

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