第66話「利根川の戦い(肆)」
北畠勢が下野国に侵攻してから数ヵ月が経った。
奥州から合流する者たちも増えてきて、徐々にその規模は拡大しつつある。
抵抗を続ける小山・宇都宮勢だったが、形勢は覆しがたいものになっていった。
北畠顕家が結城道忠を呼び出したのは、そんな折である。
「不完全な勝利でも良い。小山・宇都宮との戦いを早急に終わらせたい」
有利になりつつある現状とは裏腹に、顕家の表情は暗かった。
道忠も状況はきちんと把握している。即座にその理由を察した。
「兵粮が不足しつつあるのですな」
「いや、まだ当面はしのげる。下野国の田畑という田畑を刈りつくしたからな」
小山・宇都宮との戦いと並行して、北畠勢は兵粮徴収を続けていた。
従う者・従わぬ者問わず、徹底して取りつくしたと言って良い。それだけ、北畠勢の懐事情は深刻だった。
「ただ、今後上洛することを踏まえるとそろそろ危険だと南部師行が報告してきた。徹底した収奪をしたことで、足利方も我らが兵粮に不安を抱えていると気づくやもしれぬ。そうなれば、道中の国々で収奪するのが難しくなるかもしれない」
「我らの徴収を阻むため、足利方が持っていく可能性もありますな。最悪、田畑を焼くことも考えられます」
「敵に収奪されるくらいなら、と考えるのは自然なことだ」
顕家は収奪という言葉を意図的に使っていた。
これが正当な行いとは言い難いと、そう感じているからだ。
それでもやらねばならない。ただ、正当化はしたくなかった。
「予め伊達行朝に調べさせて、上野・武蔵で兵粮が集められた場所は掴んでいる。稲刈りも終えてまとめられているのだ。今、敵の不意を衝けばこれらを奪取することができる。上洛までのことを考えると、是が非でも手に入れたい」
「そのため、この下野での戦を早く終わらせたいということですな」
「敵の軍勢は思ったほど集まっていないという。もしかすると、我らが下野で冬を越すと思い込んでいるかもしれぬ。その油断をつくのだ。ここからは速さが大事になる」
「委細承知しました。では、小山・宇都宮との戦はそろそろ終わらせましょう」
顕家の思っていた通り、道忠には両者を降すためのプランがあったらしい。
本当はもっと別の形での勝利を望んでいたのかもしれないが、そういう感情をこの老将は一切表に出さなかった。
十二月。
坂東もすっかり冷え込んできた頃、重茂は武蔵の軍勢を引き連れて、上杉憲顕らが陣を構える上野国の利根川までやって来ていた。渡河して少し北上すれば、渦中の小山城に辿り着く。そこにはもう北畠勢がいるはずだった。
河越氏を筆頭とする武蔵武士の士気は、やはり高いものではない。
寒さの中、川沿いでいつ来るかも分からない敵を待ち続けなければならないのは、心身への負荷がかかる。
「霜満ちて吾妻彩る白き川」
「この身冷えれど、心沸き立つ」
川を眺めながら、重茂と憲顕は即興の連歌を詠み上げた。
白銀に彩られつつある坂東の風景は、目を奪われるほど美しい。
しかし、心身は冷え込んでしまう。憲顕が「心沸き立つ」で締めたのは、自らの鼓舞するためなのかもしれない。
「さすがに多少の人数は集まったが、いつまでこうしてここで待っていれば良いのだろうな、憲顕殿」
「家長殿も無為に待っているわけではない様子。内々で動いているのだろう。動くべきときは、鎌倉から追って連絡が来るはずだ」
「宗継も下野の動静を探っているそうだが、多くの手の者が帰らないそうだ。どうなっているのだろうな、下野は」
いっそ渡河して小山城に進軍してはどうだろう。
そんな思いが脳裏をよぎるが、眼前の川の流れを見ると、とてもそんな気にはなれない。
極寒の季節の大河である。近頃は増水もしているため、ここを渡河するのは相当な危険行為だった。
「……なにか、聞こえないか」
そのとき、二人と並んで本陣にいた桃井直常が緊張した面持ちで腰を上げた。
対岸の様子は、薄っすらと霧に覆われていて見えにくい。ただ、耳をすますと遠くからなにか異様な音が聞こえてくる。
「おい。これは北畠勢が動いているんじゃないのか」
直常が言うように、これは多くの人間が動くときの――軍勢の唸り声のように聞こえる。
対岸をじっと睨んでいた憲顕は、思案しながら口を開いた。
「今、この辺りは水が増していて渡河が難しい。もしかすると、敵はここではなく西から渡河しようと移動しているのかもしれない。いくつか渡河に適している場所がある」
「そこに人は?」
「主だった場所には配置しているが、敵が戦力を集中させてきた場合は突破される可能性が高い。早急に陣を固める必要がある」
憲顕は周囲の地図を取り出して、現在の配置状況をまとめはじめた。
この辺りは上野守護である憲顕が一番詳しい。名目上の総大将である千寿王、その補佐をする家長は鎌倉である。この場においては憲顕が事実上の大将として差配しなければならない。
「思ったより早かったな。もう小山や宇都宮は落ちていたのか」
「最後に状況を確認できたのは半月程前だった。まだまだ持ちこたえられそうだと聞いていたのだが」
「とすると、落ちたのはせいぜいここ何日かの間かもしれんな。であれば、今動いている敵の軍勢は本軍ではないのかもしれん」
直常の見解に重茂も頷く。
数ヵ月に渡る小山・宇都宮との戦いで、さすがの北畠勢も疲弊しているはずだった。
小山らを降したとしても、そこからすぐに全軍あげて仕掛けてくるということは考えにくい。休息を入れてくるはずだ。
「……この動きは、こちらの動揺を誘う陽動という可能性もあるか」
重茂と直常のやり取りを聞いていた憲顕は、小山・宇都宮・現在いる本陣を睨みながら熟考する。
やがて、彼は意を決して口を開いた。
「重茂殿と直常殿はそれぞれ手勢を引き連れて西へ向かって欲しい。今はこの本陣を特に厚くしているが、どこを攻められてもある程度対応できるようならしておきたい」
「戦力分散ということになるが、大丈夫か」
「無理に自分の手勢だけで戦おうとしないよう注意するしかない。敵への警戒を怠らず、なにかあればすぐに報せを出すよう徹底する。その方針でいこう」
敵の動きが読めないので不安はぬぐい切れなかったが、憲顕の方針に問題があるとも思えなかった。
かすかに嫌な予感を覚えつつ、重茂は急ぎ武蔵武士を引き連れて西へと移動を始める。
「急な移動ですが、やはり敵が動いたのですか」
側を駆けながら治兵衛が重茂に問いかける。
どうやら本陣の外にいた者たちにも、先程の音は聞こえていたらしい。
やや弛緩していた兵たちも、今は緊張が見て取れるようになっていた。
「対岸の様子がまだはっきりと見えないが、おそらくそんなところだろう。まだ敵の本軍が攻め寄せてくるとは考えにくいが、守りに隙があればそこを衝かれるかもしれぬ。渡河される可能性のある場所は、しっかりと押さえておかねばならん」
「いよいよ奥州の連中と戦か――腕が鳴りますな」
初めて会ったときと同様、派手な鎧を身にまとった河越直重が不敵な笑みを浮かべる。
隣にいる高坂氏重は普段と変わらぬ様子だった。直重のようにやる気を見せているわけではないが、怯えている風にも見えない。
彼ら有力氏族の子弟は、重茂の側につけられている。いざというときの連絡役というのが主な役目だった。
「ようやく我が所領も落ち着きつつある。今、荒らされるわけにはいきません」
別の意味で燃えているのは、貧しさに悩まされていた山内経之である。
彼は新たに得た所領の経営に苦労していたが、最近はようやく安定化の兆しが見えてきたらしい。奥州勢に手を出されたくないというのは、切実な願いと言えるだろう。
経之の言葉に、安保泰規等同じような境遇の武士たちが頷く。彼らは、守護である重茂の親衛隊として集められていた。
こんなことで大丈夫かと何度も思わされた武蔵武士の面々だったが、いざ戦というときに怯える者は一人もいない。
勇猛果敢な坂東武者の一角が、今重茂の周囲に集っているのだ。敵は強大だが、むざむざと負けるつもりはない。
「行くぞ、奥州の連中に坂東の維持を見せてやろう!」
重茂率いる坂東武者が、利根川沿いを疾走する。
武蔵守護としての初陣が、今まさに始まろうとしていた。





