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花七宝の影法師~天下ノ執事の弟、南北朝の世で奮闘す~  作者: 夕月日暮
第1章「再起の秋」
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第2話「重茂武功なし」

 弥五郎様、と何度も呼びかけられる。

 うるさい。そう口にしようとした途端、重茂はむせ返った。


 口から水が零れ落ちる。次いで、陽の光を感じた。

 寒気がする。かなり危ないところだったのかもしれない。


 近くには誰かがいる。それが誰か、重茂はすぐに思い出した。


「弥五郎様!」


 先程までの呼びかけにはなかった安堵の色が、その声には込められていた。

 昔から、毎日のように聞いてきた声である。おかげで、ここがあの世ではないことが理解できた。


「者ども、弥五郎様が息を吹き返されたぞ!」

「……うるさいぞ、治兵衛。そんなこと、見れば分かるだろうが」


 一通り詰まっていた水を出してから、重茂は側で大声を出し続ける家人をたしなめた。

 細かいことに気が利く男だが、どうにも声が大きい。戦ではそれも長所となるが、今は静かにして欲しかった。


「――いや」


 そんなことを言っている場合ではなかった。

 今は、戦の真っ只中のはずである。


「治兵衛、戦は」

「戦は、終わりました」


 治兵衛の言葉に、重茂は愕然と周囲を見渡した。

 確かに、争っている武士たちの姿はない。

 多々良浜に布陣していた敵の大軍は、もう見えなくなっていた。


「そうか、終わったか」


 であれば、やることは一つしかない。

 重茂は腰につけていた短刀をおもむろに抜き放った。


「弥五郎様、なにをされる」

「いちいち聞くな。腹を切るのよ」

「いやいや、お待ちくだされ!」


 慌てて重茂の腕を取ろうとする治兵衛だったが、凄まじい怪力に振り切られてしまう。

 そのまま短刀を腹に突き立てようとする重茂に対し、治兵衛は咄嗟に叫んだ。


「御味方の勝利!」

「――なに?」

「御味方の、勝利にございます!」


 勝った。その言葉が、重茂の手を止めた。


 負けたのであれば、おそらく総大将も無事ではあるまい。

 そんなことになっていたとしたら、戦の最中に気を失っていた阿呆は、せめて腹を切らねばならぬ。

 そう思って腹を切ることにしたのだが、勝ったとなれば、事情が変わってくる。


「治兵衛。俺の自害を止めようと偽りを申しているのではあるまいな」

「そんなことをして何になりましょうや。誠のことにございます」

「では、御大将は。殿は」

「使いの者の報せでは、御無事とのこと」


 治兵衛のもたらした吉報に、重茂は正直なところ、少々戸惑いを覚えていた。

 味方が勝ったことは喜ばしいが、どうにも現実のこととして受け取れない。

 それくらい、彼我の戦力差は開いていたのだ。重茂は、半ば討ち死にするために出陣したのである。


「なぜ勝った?」

「はっ?」

「あれで勝てたというのも妙な話よ。なぜ勝てたのか、皆目分からぬ」

「……それは、仰る通りで」


 治兵衛たち家人と共に戦場の跡を眺めてみるが、どうにも分からない。

 ただ、思ったよりも死体の数は少ない気がした。

 味方の死体もそうだが、敵の死体もあまり多くはない。

 九州に落ち延びてくる前、鎌倉で北条時行(ほうじょうときゆき)の一軍と戦ったとき、あるいは京近くの三井寺で新田・北畠軍と争ったときに見た光景の方が、よほど地獄絵図と言えた。


 そんな中、徒歩の集団が重茂たちの方に駆けてくる。

 旗に描かれているのは、高氏の紋だ。


「ははあ、どうやら生きていたようだな」


 太く逞しさを感じさせる声がした。

 重茂にとっては聞き慣れた声である。


「父上」


 集団の先頭にいた男は、重茂に呼びかけられて「災難だったな」と労わりの言葉を返した。どうやら重茂の状況は把握しているらしい。


 高師重(こうのもろしげ)。重茂の父で、この戦いにも一軍の将として加わっていた。


 既に老境に差し掛かっており、家督も子に譲り渡していたが、隠居を決め込むには元気が有り余っていて、今も戦場に白髪をたなびかせている。


「災難だったな、弥五郎よ。運がなかった」

「父上は、戦をされたのですか」

「ああ。無我夢中だった」


 師重の身体には、おびただしい量の血がついていた。

 自身の流した血もあれば、敵を斬ってついた血もあるのだろう。


「勝ったということが、どうにも信じられませぬ」

「どうも、寝返りが出たらしい。数多の敵と見えた者どもは、その実数多の味方だった、ということだ」

「ほう」


 戦場に死体が少ないのはそういう事情によるものらしい、と重茂は得心した。


 京を追われ、九州まで落ち延びてきた足利勢を討ち果たさんと、肥前(ひぜん)肥後(ひご)の菊池・阿蘇・松浦が大挙して攻め寄せてきた。それが今の戦である。

 彼らは帝の側に立つ武家と見られていたが、実際はそうでない者もいた、ということなのだろう。


「寝返ったとなると、松浦ですか」

「ほう。川底で戦局が見えたか」

「菊池・阿蘇などと違い、松浦は明確な惣領がおらぬと聞きます。元弘の折も武家方・公家方に分かれて相争ったとか。なれば、松浦の一部が寝返ったのではないかと」


 重茂の言葉を受けて、師重は「ほう」と面白そうに笑みを浮かべた。


「お前、そういうことはしっかりと覚えているのだな」

「当然でございましょう。此度は誰が味方、誰が敵か見極めなければなりません。九州において名の知れた武家のことは覚えております」


 自慢する風でもなく、むしろ心外そうに重茂は鼻を鳴らした。

 無様を晒したことで、少し気が立っている。


 ただ、師重の話を聞いたことによって状況は見えてきた。

 九州一帯を取り巻く情勢を脳裏に描きながら、今がどういう状態なのかを確認する。


 考え込んだ重茂を見て不貞腐れたと受け取ったのか、師重は励ますようにその背中を叩いた。


「そう怒るでない。師泰などは覚えておらんだろうに、お前はしっかりしておると感心したのだ」

「兄上と比べられても、素直に喜べませぬな」


 猛々しく戦場を疾走する兄・師泰の姿が脳裏に浮かび上がり、重茂は苦々しい顔つきになった。

 足利氏が朝敵となって以来、戦が続いているが、師泰は戦働きで大層な活躍を見せている。

 師泰だけではない。もう一人の兄・師直、弟の師久(もろひさ)も既に武名をあげていた。


 重茂は、これまで特に武功を立てていない。

 兄弟の中で一人だけ出遅れてしまった。そういう焦りが、無茶な渡河を決行させたとも言える。


「なに、武功など生きていれば追々立てられよう。いつまでも腐っておらず、敵の追討に向かうぞ」


 師重に促され、重茂は渋々頷き、治兵衛から差し出された武具を身に着けた。


 戦はまだ終わっていない。自分のやるべきことはまだ残っている。

 そう言い聞かせ、重たい身体で駆け出した。

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