第2話「重茂武功なし」
弥五郎様、と何度も呼びかけられる。
うるさい。そう口にしようとした途端、重茂はむせ返った。
口から水が零れ落ちる。次いで、陽の光を感じた。
寒気がする。かなり危ないところだったのかもしれない。
近くには誰かがいる。それが誰か、重茂はすぐに思い出した。
「弥五郎様!」
先程までの呼びかけにはなかった安堵の色が、その声には込められていた。
昔から、毎日のように聞いてきた声である。おかげで、ここがあの世ではないことが理解できた。
「者ども、弥五郎様が息を吹き返されたぞ!」
「……うるさいぞ、治兵衛。そんなこと、見れば分かるだろうが」
一通り詰まっていた水を出してから、重茂は側で大声を出し続ける家人をたしなめた。
細かいことに気が利く男だが、どうにも声が大きい。戦ではそれも長所となるが、今は静かにして欲しかった。
「――いや」
そんなことを言っている場合ではなかった。
今は、戦の真っ只中のはずである。
「治兵衛、戦は」
「戦は、終わりました」
治兵衛の言葉に、重茂は愕然と周囲を見渡した。
確かに、争っている武士たちの姿はない。
多々良浜に布陣していた敵の大軍は、もう見えなくなっていた。
「そうか、終わったか」
であれば、やることは一つしかない。
重茂は腰につけていた短刀をおもむろに抜き放った。
「弥五郎様、なにをされる」
「いちいち聞くな。腹を切るのよ」
「いやいや、お待ちくだされ!」
慌てて重茂の腕を取ろうとする治兵衛だったが、凄まじい怪力に振り切られてしまう。
そのまま短刀を腹に突き立てようとする重茂に対し、治兵衛は咄嗟に叫んだ。
「御味方の勝利!」
「――なに?」
「御味方の、勝利にございます!」
勝った。その言葉が、重茂の手を止めた。
負けたのであれば、おそらく総大将も無事ではあるまい。
そんなことになっていたとしたら、戦の最中に気を失っていた阿呆は、せめて腹を切らねばならぬ。
そう思って腹を切ることにしたのだが、勝ったとなれば、事情が変わってくる。
「治兵衛。俺の自害を止めようと偽りを申しているのではあるまいな」
「そんなことをして何になりましょうや。誠のことにございます」
「では、御大将は。殿は」
「使いの者の報せでは、御無事とのこと」
治兵衛のもたらした吉報に、重茂は正直なところ、少々戸惑いを覚えていた。
味方が勝ったことは喜ばしいが、どうにも現実のこととして受け取れない。
それくらい、彼我の戦力差は開いていたのだ。重茂は、半ば討ち死にするために出陣したのである。
「なぜ勝った?」
「はっ?」
「あれで勝てたというのも妙な話よ。なぜ勝てたのか、皆目分からぬ」
「……それは、仰る通りで」
治兵衛たち家人と共に戦場の跡を眺めてみるが、どうにも分からない。
ただ、思ったよりも死体の数は少ない気がした。
味方の死体もそうだが、敵の死体もあまり多くはない。
九州に落ち延びてくる前、鎌倉で北条時行の一軍と戦ったとき、あるいは京近くの三井寺で新田・北畠軍と争ったときに見た光景の方が、よほど地獄絵図と言えた。
そんな中、徒歩の集団が重茂たちの方に駆けてくる。
旗に描かれているのは、高氏の紋だ。
「ははあ、どうやら生きていたようだな」
太く逞しさを感じさせる声がした。
重茂にとっては聞き慣れた声である。
「父上」
集団の先頭にいた男は、重茂に呼びかけられて「災難だったな」と労わりの言葉を返した。どうやら重茂の状況は把握しているらしい。
高師重。重茂の父で、この戦いにも一軍の将として加わっていた。
既に老境に差し掛かっており、家督も子に譲り渡していたが、隠居を決め込むには元気が有り余っていて、今も戦場に白髪をたなびかせている。
「災難だったな、弥五郎よ。運がなかった」
「父上は、戦をされたのですか」
「ああ。無我夢中だった」
師重の身体には、おびただしい量の血がついていた。
自身の流した血もあれば、敵を斬ってついた血もあるのだろう。
「勝ったということが、どうにも信じられませぬ」
「どうも、寝返りが出たらしい。数多の敵と見えた者どもは、その実数多の味方だった、ということだ」
「ほう」
戦場に死体が少ないのはそういう事情によるものらしい、と重茂は得心した。
京を追われ、九州まで落ち延びてきた足利勢を討ち果たさんと、肥前肥後の菊池・阿蘇・松浦が大挙して攻め寄せてきた。それが今の戦である。
彼らは帝の側に立つ武家と見られていたが、実際はそうでない者もいた、ということなのだろう。
「寝返ったとなると、松浦ですか」
「ほう。川底で戦局が見えたか」
「菊池・阿蘇などと違い、松浦は明確な惣領がおらぬと聞きます。元弘の折も武家方・公家方に分かれて相争ったとか。なれば、松浦の一部が寝返ったのではないかと」
重茂の言葉を受けて、師重は「ほう」と面白そうに笑みを浮かべた。
「お前、そういうことはしっかりと覚えているのだな」
「当然でございましょう。此度は誰が味方、誰が敵か見極めなければなりません。九州において名の知れた武家のことは覚えております」
自慢する風でもなく、むしろ心外そうに重茂は鼻を鳴らした。
無様を晒したことで、少し気が立っている。
ただ、師重の話を聞いたことによって状況は見えてきた。
九州一帯を取り巻く情勢を脳裏に描きながら、今がどういう状態なのかを確認する。
考え込んだ重茂を見て不貞腐れたと受け取ったのか、師重は励ますようにその背中を叩いた。
「そう怒るでない。師泰などは覚えておらんだろうに、お前はしっかりしておると感心したのだ」
「兄上と比べられても、素直に喜べませぬな」
猛々しく戦場を疾走する兄・師泰の姿が脳裏に浮かび上がり、重茂は苦々しい顔つきになった。
足利氏が朝敵となって以来、戦が続いているが、師泰は戦働きで大層な活躍を見せている。
師泰だけではない。もう一人の兄・師直、弟の師久も既に武名をあげていた。
重茂は、これまで特に武功を立てていない。
兄弟の中で一人だけ出遅れてしまった。そういう焦りが、無茶な渡河を決行させたとも言える。
「なに、武功など生きていれば追々立てられよう。いつまでも腐っておらず、敵の追討に向かうぞ」
師重に促され、重茂は渋々頷き、治兵衛から差し出された武具を身に着けた。
戦はまだ終わっていない。自分のやるべきことはまだ残っている。
そう言い聞かせ、重たい身体で駆け出した。