第35話「重茂、南へ(伍)」
妙吉は、諸国を回っているのだと語った。
生まれは陸奥。鎌倉幕府の末期、同国の寺の住職に入門したは良いものの、戦乱に巻き込まれて寺社は荒廃。
そのままそこで暮らしていくのが難しいと悟り、せっかくの機会だからと、諸国を巡って学識を深めることにした。
「戦乱続きではあるが、なに、陣僧としてときどき勤めを果たせば食うものにもそこそこ困らぬ。たまに無法者が襲ってくることもあるが、拙僧これには自信があるのでな」
得意げに語りながら、妙吉は両足を叩いてみせた。
全体的にひょろりとしていて頼りなさそうな風体だが、よく見るとそれなりの筋肉はついている。
荒事向きには見えないが、旅を続けていたというのは本当のようだった。
「では、ずっと興福寺にいたわけではないのか」
「そうだな。少し前から逗留しているが、祈祷はおろか学問にもろくすっぽ参加させてはくれん。やらされるのは下働きばかりよ」
興福寺は皇族や藤原氏といった上流階級出身の者たちが支配している。
そこに連なる者たちでなければ、なかなか学僧としては扱ってもらえない。
領地経営に関する仕事――言ってしまえば武士と同じような仕事ばかりが回ってくる。
「とは言え、どこもそういうものではないのか」
「それは違うぞ弥五郎殿。こういう風になっているのは興福寺がそれだけ強大だからだ。強大で、なおかつ完成されておるからよ」
興福寺への愚痴を続けるのかと思いきや、妙吉は意外にも興福寺を褒めるようなことを言う。
遠子や治兵衛、成村たちも、皆この奇妙な乱入者の話に聞き入っていた。
妙吉が飛び込んできてから、既にかなり時間が経っている。
先程の僧兵たちを警戒しているのか、妙吉はなかなか外に出ようとしなかった。
そうこうしている間に日も暮れて、重茂たちは遠子たちに馳走されることになったのである。
「さすがに長い歴史と広大な所領を持ち合わせているだけのことはある。派閥ごとに領地を経営しているなら誰にでも門戸を開くわけにもいくまい。拙僧のようなよそ者が急に飛び込めるような場所ではなかったということだな」
変な男だが、ただ変なだけではないようだ。
重茂は妙吉に関する認識を少しばかり改めると、世間話をするように尋ねてみた。
「興福寺は、完成していると言われるか。御身内同士で競い合っているようにも見えるが」
「そこも含めて完成しておるのよ。興福寺とはすなわち京の政争の延長線上。第二の俗世。誰が興福寺の座主になるかという内々の変化はあるだろうが、興福寺そのものがここから更なる発展を遂げることはまずあるまい」
「発展しない――だから完成していると」
「所領が増える減るといった変化はあるかもしれん。だがそれは興福寺の変化ではない。興福寺の数多いる権力者の変化というだけだろう。興福寺の在り様に変革は起きんさ。それが良いことなのか悪いことなのかは、拙僧の口から語るべきではないと思うがね」
実際に中へ身を投じた者の言葉である。
そういう空気感はあるのだろう。すなわち、興福寺の僧たちは興福寺に属しているのではなく、それぞれの派閥に属しているという意識で動いているということだ。
それは、言ってしまえば足利とその旗下の武士の関係にも近い。足利という名の下に――正確には持明院統の光厳院の名の下に――集まっているが、武士たちはそれぞれの利害関係で動いている。
組織として一つにまとまりきっているわけではない。やはり、興福寺の情勢を把握するためにはそれぞれの派閥を見定めねばならないようである。
「近頃京が騒々しいことになっているようで、それに乗じてこの大和国が乱れないかが不安でな」
「ははあ。それであれこれと興福寺の様子を拙僧に聞いていたのだな。弥五郎殿は見かけによらず小心なようだ」
「放っておいてくれ」
ナチュラルに差し込まれる悪口にこめかみをひくつかせながら、重茂はぎこちない笑みを浮かべる。
妙吉には、河内から来た鍛冶師の集団と名乗っている。多少の無礼があったとしても、そう簡単に斬り捨てるわけにはいかない。
「今回は今のところ足利が優勢なようだが、以前も似たような感じで京に来て、それでいて北畠軍に追い落とされたからな。興福寺のお偉方は慎重よ。そうそう軽はずみにどちらかの御味方をするということはあるまい」
「動く気配はないと?」
「京の公家衆も去就に迷っている者が多かったり、同じ家でも意見が割れたりしていると聞く。摂関家の影響力の強い興福寺も同様のようだ。何か動きがあるとしても、大乗院が持明院統につくなら対抗する一乗院は大覚寺統につくといった具合になるだろう。結局内輪揉めに終始するだけで、河内に災禍が及ぶことはまずあるまい」
ちらりと遠子を見ると、彼女も妙吉の意見に同意するかのように頷いてみせた。
余計な介入を避けたい足利としては、興福寺のこういう状況はありがたいものと言える。
「――無論、第三者の積極的な介入があった場合は別の話です。そこはお気を付けいただくのがよろしいかと」
妙吉に聞こえないよう小声で耳打ちしてくる遠子に、重茂はぞくりとするものを感じた。
不思議な色香によるものもあるが、こちらがどういう意見を求めているかを的確に見抜くその力がなにより恐ろしい。
おそらく、同じような調子で越智・服部・楠木等にも情報を渡しているのだろう。
悪人ではないようだが、付き合い方には気をつける必要がありそうだった。
「そういう話を聞いていると、興福寺はなんか小さい天下って感じがするな」
妙吉の話を聞いていた成村がぽつりと呟くと、妙吉は「いかにも」と大仰に首肯する。
「僧だなんだとは言うが、結局のところ人は人。俗世にいるか世外に身を置くかの違いはあれど、本質的には変わらぬ。世外の者とて腹は空くし見栄は張りたいからな。興福寺の在り様が天下の縮図となるのも必定というもの」
「なら、なんで出家・遁世するんだ? 俗世と同じというなら、意味ないだろ」
成村の素朴な疑問に、妙吉は「ん、ん~」と唸った。
「理由は人それぞれであろうが――結局のところ、俗世と切り離された場所を必要とする人が多かった、ということなのだろう」
「大切な者を俗世にて喪い、そこから離れて菩提を弔いたい……そう願う方は多いと聞きます。例えば、三位中将殿の奥方様も」
「南都でその例えを持ち出すとは、いやはや遠子殿はなかなか肝が太いな」
三位中将というのは、今からおよそ百五十年程前、興福寺含む南都を焼亡させた平清盛が子・平重衡のことである。
後に重衡は一ノ谷の戦で頼朝の鎌倉軍に囚われ、紆余曲折を経て南都に引き渡され、処刑された。
重衡の奥方は処刑前の夫と別れの体面を果たし、後に夫の菩提を弔うため出家したとされる。
「しかし、三位中将殿の奥方のように自らの意志で出家する者ばかりではないのが難しいところでな」
「奥方様も望んで出家されたわけではないと思いますが」
「しかし、すると決めたのは自分だろう。……今、この南都・興福寺や北嶺・比叡山にいる大半の僧――特に僧兵どもはいささか違う事情の者も多い」
「親の――あるいは周りの意向か」
重茂の言葉に、妙吉は苦々しそうな顔つきで「左様」と頷いた。
「本人は俗世から離れることを望んでおらぬ。しかし周囲の方が望んでいる。いられては厄介な子ども。そういうのが寺社という地には多い。そこから学問に目覚める者もいるが、そうでない者は仏法を見ずに俗世を見る。憧憬・憎悪、そういった感情をもってな」
だから奴らは馬鹿で恐ろしいのだ、と妙吉は吐き捨てる。
「自らを排斥した俗世への負の想い。もう逃れる先がない故の『世外の世を守る』という強固な意志。そして俗世を震え上がらせる神罰・仏罰の類。それらをすべて併せ持ったのが、南都北嶺という存在だ」
故に、と妙吉は言葉を結ぶ。
「連中に手を出してはならぬ。手を出せば必ず犠牲が出る。……今頃、京の足利勢は再びそれを痛感している頃やもしれんな」
北。
思わず、その場にいる者たちはそちらを見た。
そこから比叡山は見えず。
ただ、漠然とした不安が胸に去来するのみだった。





