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花七宝の影法師~天下ノ執事の弟、南北朝の世で奮闘す~  作者: 夕月日暮
第2章「廻天の秋」
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第29話「湊川の戦い(結)」

 楠木くすのき党、壊滅――。

 その一報は、瞬く間に戦場で広がっていった。

 新田にった軍の士気を挫かんとする直義ただよしの策である。


 軍の中ほどにいた義貞よしさだの元にも、この凶報はすぐさまもたらされた。


「兵たちの間にも動揺が広がっております。新田は楠木を見捨てたなどという風説まで出回っている始末……!」


 口惜しそうに大井田おおいだ氏経うじつねが歯噛みする。

 新田軍は早々に退却した。そのせいで楠木党は孤立したというのである。


 義貞が軍を素早く撤退させたのは、体面のための戦で無益に兵を損じるは愚策、という楠木正成(まさしげ)の策を容れたからだ。

 正成も当然すぐに退くものだと思っていた。仔細は分からないが、どうも逃げ損ねたらしい。


「楠木殿が――」


 呆然と呟いたのは菊池きくち武重たけしげである。

 彼は実弟・武吉たけよしを正成救援に差し向けていた。

 しかし、届く報告を聞く限り、武吉の部隊が無事だとは到底思えない。


「御大将が楠木を見捨てたなどと、根も葉もないことを」

「良い。仕方がないのだ、氏経」


 義貞と正成の間にあったやり取りを兵たちは知らない。

 予め伝えておくことも難しい内容である。この戦に意味はない、と通達するようなものだったからだ。

 そんなことをしては、兵たちの士気は著しく落ちる。脱走する者も数多出たであろう。

 密議というものの恐ろしさを、義貞は今更ながら痛感していた。


「兄者、ここはもう退こう。これ以上いたずらに戦っても勝ち目はない」


 脇屋わきや義助よしすけが苦々しげに進言した。

 足利あしかが方は楠木党を討って勢いに乗っている。元々かなり戦力差がある戦でもあった。今から挽回するのは至難の業だろう。


「なるほど、確かに勝ち目は薄かろうな」


 ここが正念場だと義貞の直感が告げている。

 判断の誤り一つが致命傷になる。


 それを踏まえた上で、義貞は立ち上がった。

 既に身体の悪寒は消えている。もはやそれどころではない、と全身が訴えかけてくるかのようだった。


「――だが、今一度戦をする。味方を、それもあの楠木正成を見捨てたまま逃げたとあっては、今後新田に従う者はいなくなる。我らは官軍ぞ。錦の御旗を背負いし軍ぞ。体面は守らねばならぬ。義貞一個の矜持のためではない。今後の戦いにおいて、官軍の在り様をここで示さねばならぬ」


 反対されるかもしれない。

 そう思って口にした言葉だったが、義助も氏経も――他の居並ぶ諸将も、皆、反対の言葉は発さなかった。

 一同は少し意外そうに義貞を見ていたが、やがて弾かれたように笑い始める。


「そうか。忘れておった。兄者はそうだった。大人しくやられるような性質の御人ではない!」

「鎌倉に反旗を翻したときを思い出しますな」

「あの頃に比べれば、今の状況など屁でもない。そうでございますな、新田殿」


 あまりに無謀な下知をすんなりと受け入れる一行に、義貞の方が心配そうな顔を向ける。


「……良いのか、お主ら」

「良くなければ身支度して足利の陣に寝返るだけでございます」

「ここで負けて帰ったら、カカアと倅に顔向けできませんわな!」


 古参の臣たちから、少しずつ周囲に気勢が広がっていく。

 このまま無残にやられるだけ、ということにはならなさそうだった。


「だが兄者、おそらく一矢報いるというのが関の山だ。早々にこの状況は都へお伝えした方が良かろう」


 さすがに義助は冷静だった。

 義貞も頷くと、陣の片隅に控えていた若武者たちに声をかける。


義顕よしあき義治よしはる。二人は郎党と怪我人を連れて都に戻り、内裏へ状況を報告せよ」


 命を受けた新田義顕と脇屋義治は、素直に「承知しました」と駆け出していく。

 そんな息子と甥を見送ると、義貞は周囲に向かって高らかに告げた。


「さあ、これで憂いはなくなった。皆の者、ここからは手向けの戦じゃ」


 かつて河内で楠木正成が決起しなければ、今の新田はなかっただろう。

 そんな偉大な武者への、手向けの戦である。


南無八幡なむはちまん大菩薩だいぼさつ――我らの意地の戦、御照覧あれ!」




 足利と新田の激突は、繰り返し何度も行われた。

 数で大きく劣るものの新田方の奮闘は凄まじく、楠木党壊滅の勢いに乗っていた足利方は出鼻を挫かれた格好になる。

 それでも戦力差を覆すことは難しく、結局義貞たちは命からがら都の方へと撤退していった。


 重茂しげもちは、その渦中にはいない。

 自害した楠木党の始末をつけた後、直義の護衛として後方に留まっていた。


「お前の心意気そのものは嫌いではないし、騙られた師泰もろやすも不問にすると言っているが――」

「今後は、自重いたします」


 禁制偽作の一件は、それで済んだ。

 重茂としてはもう少し重い罰を受けることも覚悟していたので、いささか拍子抜けしたというのが本音である。


 陽も落ちて篝火が周囲を照らす刻限、二人の武者が連れ立って重茂たちのところへと顔を出した。


「おう、弥五郎。生きていたか」

「兄上!」


 大高だいこう重成しげなりと、高師久こうのもろひさである。

 二人は重茂の姿を認めると、嬉しそうに駆け寄って来た。


「次郎、お前こそよく無事だったな。弥四郎と一緒だったのか」

「ここに来る途中、倒れておられたのを見つけたのです。私は殿の護衛でこちらまで――」

「殿が来られているのか」

「はい。今は、その」


 と、師久は荷駄隊の方に視線を向けた。

 荷駄と言っても、積んであるのは兵粮の類ではない。

 戦で討ち取った武将の首である。


 今は急ぎということもあり、個々の戦での評定は行っていない。

 評定の際の武功の証になるので、それまで首は大切に保管しておく必要があった。

 そのため、荷駄の一種として扱っているのである。


 中には、楠木党の首も含まれている。


「私は存じ上げなかったのですが、御新政の折、殿は楠木殿と親しくされていたそうです。戦死されたとの報を受けて、戦が終わったら会いに参る、と――」

「そうか。不思議な御仁であったのだな、楠木殿は。兄上たちだけでなく、殿とも昵懇の間柄であったか」


 尊氏たかうじと正成では位階が違うし、職務上の縁というのもあまりなかったはずだ。

 両者がどういう付き合いをしていたのか、重茂には想像するよりほかにない。

 もしかすると兄たちならば知っているのかもしれないが、今は聞けるような状況ではなかった。


「五郎の兄上も一緒か」


 師直もろなおは、直義近辺の敵兵を一掃して危機が去ったことを確認すると、すぐさま尊氏の元に戻ったらしい。

 重茂は戻るとき少し顔を合わせただけだ。そのときも師直は「無事だったか。ならば良い」とだけ告げて颯爽と去っていった。


「いや、前線に出ておられます。今頃は四郎兄上と合流されているのではないかと」


 師泰は直義への報告を済ませると、軍を率いて新田方との戦いに参じたらしい。

 両者が険悪になっていることを知らない重茂は「そうか」とだけ頷いて、重成の方に向き直った。


「次郎、お前もよく無事だったな。恵清えしょうは討ち取れたのか」

「いや、逃げられた。こやつらのせいよ」


 そう言って重成は腰から下げている二つの布袋を示した。

 首を収めている袋である。


「そうか。首二つで取り逃したか」

「勇士の首二つだ」

「勇士だったか」

「ああ。紛うことなくな」


 重成は空を見上げた。

 いつの間にか五月雨は去っており、夜空にはいくつもの星が見える。


「――益荒男ますらおが夏の夜空を照らし出す」

「ことに強きは楠木の星」


 重成の座興に、重茂が応えた。

 雅やかなものとは無縁の、地下の連歌である。


「都が近いからと浮かれているのではないだろうな、次郎」

「それを言うならお前とて」

「浮かれてなどおらぬわ。むしろ、都に着いてからが正念場よ」


 義貞たちは落ち延びた。

 落ち延びたということは、都に向かった後も彼らとの戦いは続くことになる。


「武士については、大分減ったとは思うのですが……」


 師久が物憂げに東方を眺める。

 そう。この湊川の戦いにまで出向いてくるような武士は、かなり減らせたはずだ。

 しかし、都には――その近隣には、厄介な存在がいる。


「おそらく帝は、またあそこに向かわれるのであろう」


 重茂の言葉に、師久と重成が表情を暗くした。


「――延暦寺えんりゃくじ


 都の鬼門に位置する国家鎮護の寺社郡。

 名僧・最澄さいちょうが開きし天台宗の本山。

 藤原氏の氏寺として繁栄した『南都』興福寺こうふくじと並び称される『北嶺』の寺院。


 その実態は――。




 手勢の者もほとんどが討ち取られた。

 しかし、恵清はどうにか摂津を抜け出していた。


 そこからは無我夢中だった。

 とにかく東へと駆けていた。西には足利がいる。東に行くしか道はない。


 そうして、いつの間にか気を失っていた。


「――」


 目が覚めたとき、最初に視界に入ったのは見知らぬ天井だった。

 ただ、粗末な造りではない。どこかの寺社のようにも見受けられた。


「おお、お目覚めになられましたか」


 しばらく呆然と天井を眺めていると、一人の坊主が入ってきた。

 まだ若い。そして学僧らしからぬ体躯の持ち主である。鍛えていることは一目で分かった。


「そなたは?」

「私は源助と申します。ですが、御坊には香坂こうさか氏の者と申し上げた方が良いかもしれません」

「ならば、味方か」


 香坂氏は信濃しなの国の武家の一族である。

 恵清の出自である北条ほうじょう氏とは良好な関係を築き続けており、今も香坂氏の手勢は北条時行(ときゆき)と行動を共にしているはずだった。

 口振りからすると、恵清の素性も把握しているようである。


「どうやら、兄上の元には行き損ねたらしい」

「行かれては困ります。得宗とくそう殿には、まだ御坊が必要なはず」

「そうか。そう思っておくことにしよう」


 寝ながら話すのもどうかと思い、上体を起こす。

 あちこちに痛みはあるが、どうにか身体を動かすことはできた。


「それで、ここは?」

「は――」


 源助が口を開こうとしたとき、室外からのびやかな声が聞こえてきた。


「あきらけく後の仏の御世までも」

「……光伝えよ、法のともしび」


 恵清が応じると同時に、戸が静かに開かれた。

 陽光を背に音もなく入ってきたのは、源助とそう年も変わらぬであろう若者だった。

 ただ、身に着けている法衣からすると、相当な身分の者だということが分かる。

 事実、若者が入ってきた途端、源助は額をこすりつけるように平伏した。


「歌は――お好きかな」

「あまり好きではございませぬ」

「恵清殿」


 平然と若者と言葉を交わす恵清に、源助が注意を促した。

 しかし、若者は気にした風でもなく「そのままで良い」と恵清たちを抑える。


「怪我人にあまり無理をさせてはならぬよ、源助」

「はっ――」

「それに私は、あまり堅苦しいのは好きではないのだ」


 若者の後方には、厳めしい面構えの僧兵が控えていた。

 護衛ということなのだろう。恵清が妙な動きをすれば、すかさず乗り込んでくるに違いない。


「しかし、そうか。歌はあまり好まぬか。ここにいる者たちも、鍛錬と政治を好む者が多い。いささか、寂しいものだな」

「今は、そのような世なのです。伝教大師もお嘆きかもしれませぬが」

「であろうな。私も、哀しい」


 若者の話し方は柔らかい。

 しかし、弱々しさは感じない。むしろ、ある種のふてぶてしさを感じさせる。

 それが生来のものか、鍛えられたが故に身についたものなのかは分からない。


「恵清殿」

「なんでしょう」

「先程、内裏より使いの者が参った。帝は――父上は再びこちらに来られるらしい」

「左様でございますか」


 先程の和歌と今のやり取りで恵清は確信した。

 ここは延暦寺。

 そして正面にいる若者は、そこのトップである天台てんだい座主ざすにして、後醍醐天皇の皇子――尊澄そんちょう法親王ほうしんのうその人だと。


「また、荒れまするな」

「私は哀しい――」


 再び尊澄は嘆きの言葉を口にする。

 しかし、その眼差しにはどこか不敵なものが見え隠れしている。


「哀しいが――戦わねばならぬな」

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