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花七宝の影法師~天下ノ執事の弟、南北朝の世で奮闘す~  作者: 夕月日暮
第2章「廻天の秋」
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第27話「湊川の戦い(肆)」

 通常、五郎師直(もろなお)足利あしかが氏の執事として惣領である尊氏たかうじの側に控えている。

 そのため、前線の将として戦に出ている兄・師泰もろやすと比べると、武功を立てる機会は少なかった。


 されど、武人としての師直の実力を疑う者は家中にいない。

 なぜなら、その数少ない機会で、師直は目覚ましい武功を立て続けてきたからである。

 主君の命を守る最後の盾。それが、高師直率いる足利の精兵たちであった。


「……なぜ、五郎が?」


 戦場に突如姿を見せた弟に、師泰は戸惑いの声をあげる。

 師直が尊氏の側を離れることなど滅多にない。

 なぜ、と疑問に思ったのは重茂しげもちも同様だった。


 その隙を突く形で、突如師泰は馬から引きずり降ろされる。

 慌てて視線を転じると、そこには師泰の馬にまたがる正成まさしげの姿があった。


「油断大敵ですな、師泰殿」


 それとほぼ同時に、重茂は背後から小刀を首に突きつけられた。

 こちらは正成の弟・楠木くすのき正季まさすえである。薬師寺やくしじとの戦いを切り上げて、咄嗟に重茂の後ろから馬に乗り込んだのだ。


「下手に動かれるなよ、師泰殿。御舎弟の首が飛ぶぞ」

「構うな、四郎の兄上。俺ごと射貫け!」


 重茂の叫びに、師泰は弓を構えた。

 だが、引けない。全身をわななかせつつ、師泰はついに矢を放つことができなかった。


 苦悩する師泰に、正成はどこか寂しそうな笑みを浮かべて馬を走らせた。


「兄者を追え」


 首元に刃を突き付けられてはどうしようもない。

 重茂は、やむなく正季を乗せたまま正成の後を追う羽目になった。




 正成を追うべきか師泰が逡巡している間に、師直の軍勢が追い付いてきた。

 正成たちの姿は、既にかなり遠くなっている。


「なにをしていたのだ、兄上」


 咎めるような口振りの師直に、師泰は苦い顔を浮かべる。

 お前が急に出てきたからだと言いたいところだったが、それが八つ当たりでしかないことは分かっていた。


「楠木殿に降伏勧告をしていた。が、隙を突かれて逃げられた。今、弥五郎が捕まっている」

「降伏勧告など必要ない」


 師直は短く切って捨てるように告げる。

 彼も、正成とは雑訴決断所ざっそけつだんじょで共に働いた仲のはずだった。

 しかし、そういった旧知に対する手心のようなものは一切感じられない。

 足利の敵であれば斬る。それ以外の選択肢などない、と言わんばかりの態度だった。


「生かせるなら生かした方が良い。あいつは――味方につけておきたいのだ」

「確かに味方につけば足利にとっては良き将になるだろう」


 しかし、と師直は頭を振った。


「楠木殿は寝返りなどせぬ。そして、生半可な覚悟で相対して勝てる相手でもない。――兄上は、あの男を舐めているのではないか」


 思わぬ師直の言葉に、師泰は目を見開いた。

 弟に向ける眼差しには、憤怒の色が見え隠れしている。


「舐めてなどおらぬ。舐めておらぬからこそ、生かしたいと思うたのだ」

「……降伏は相手が受け入れなければ話にはならぬ。そして、降伏を受け入れぬ楠木殿を生かしておく理由はない。足利にとって脅威にしかならんからな」

「それは殿の御意思か」

「いや。殿はただ直義ただよし殿を決して死なせるなと仰せになられただけだ」


 尊氏はまだ浜辺付近にいる。こちらの戦況を完全に把握できているとは思い難いが、微妙な変化を感じ取って直義の危機を察したのだろう。

 戦場における嗅覚の鋭さは並外れているところがある。ただ、実弟の危機とは言え師直をわざわざ寄越す辺り、甘い一面もあった。

 そういうところも含めて師泰は尊氏が好きだった。ただ、師直にそういう一面はない。


「ならば五郎、おぬしは直義殿の護衛につけ。楠木殿のことはわしに任せてもらおうか」

「別に構わぬ。直義殿は今の我らにはなくてはならぬ御方。絶対に死なせるわけにはいかぬからな」


 ただ、と師直は釘をさすように付け加える。


「楠木殿は決して逃がすな。既に師業もろなり吉良きら殿・上杉うえすぎ石塔いしどう等の軍勢を展開させている。逃げ場はない。……降伏を受け入れないのであれば、必ず討ち取れ」

「それは、お前の考えか」

「そうだ」


 兄弟はそれぞれ睨み合っていたが、やがて師泰の方が折れた。

 不満を鼻息として出しながらも、師泰は正成たちが逃げた方へと軍を進める。


 師直はそれを見送ると、直義が逃げた須磨の方へと向かっていった。




 四方は足利の軍勢で充満している。

 明らかに、こちらを取り囲もうという意図が見える動きだった。


「七郎。こいつは、さすがに難しいかもしれんな」

「兄者でも難しいか」

「無理なものは無理だ。重茂殿を盾にしたところで、どれほど持つか」


 正成たちは、戦場で散り散りになっていた朋輩を少しずつ集めていた。

 しかし、既に討ち取られた者も多く、足利の軍勢と比べると雀の涙ほどの数にしかならない。


 やがて彼らは、いくつかの民家が連なる村落らしき地へと辿り着いた。


「五郎の兄上が出てきたのだ。この地にいる楠木党は、もはや逃れられまい」


 正季に小刀を突き付けられたままだったが、重茂は落ち着いていた。

 戦場にいるのだ。いつ死んでもそれは仕方がないと思っている。

 ただ、無意味に死ぬのは御免だと思っているので、今は正成たちに従っているだけだった。


「そうだな。師直殿はそういう御方だ。まったく、一分の隙もなさそうに見える」


 追い詰められている側のはずなのに、正成の声はどこか嬉しそうな響きが込められている。

 重茂は、師直と正成の交流についてはほとんど知らない。師泰と違い、師直はあまり自身のことを語らないところがあった。


「敵に感心してどうするんだ、兄者」

「敵だろうと味方だろうと、良い人物というものは認めるべきだ」

「昔からよくそんな小言を喰らっていたな。それも、そろそろ聞き納めか」


 この窮地にあって、楠木兄弟はどこか泰然としていた。

 武士は死を恐れないものだとは言うが、実際ここまで戦い、ここまで追い詰められてなお我を失わないのは、大したものだった。


「楠木殿!」


 そのとき、一人の若武者が正成たちの姿を認めて駆け寄ってきた。

 まだ髭も薄い年若の青年である。しかし、その姿は戦塵と血風を存分に浴びていた。


「おお、これは武吉たけよし殿。どうなされた、このようなところで」


 呼びかけられた若武者――菊池きくち武吉は、ちらりと重茂に不審そうな眼差しを向けつつ、正成たちの前で膝をついた。


「それがし、新田にった殿と兄・武重たけしげの命により楠木殿をお救いすべく参りました。……ただ、足利方の包囲は厚く、我が手勢はほとんどが討ち取られてしまい、それがし一人がようやくここまで辿り着いたという有様にございます。面目次第もございませぬ」

「ほう、新田殿がな」


 武吉の報告は、今の厳しい状況を改めて突きつけるものだった。

 が、同時に新田義貞(よしさだ)という男から楠木正成に対する厚意の表れでもあった。

 だからだろうか。正成の表情が失意に曇ることはなかった。


「こちらこそすまぬな。武吉殿を死地に呼び込んでしまった。菊池の兄君には、お詫びのしようもない」

「お気になさいますな。それがし、以前より楠木殿には何かと世話を焼いていただいた身。自ら志願して来たのです。悔いはありませぬ」


 武吉は、あまりに若い。

 死なせるには惜しいと重茂の胸中に葛藤が芽生えた。


「楠木殿。どうされるのだ」

「……私は降伏せぬ。ただ、それは正成一人の話」


 正季や武吉を死なせたくはない。

 そういう想いは、正成の側にもあったのだろう。


「楠木党は大塔宮おおとうのみやと、そして帝と共にあった。戦にいくら強かろうと、信じてくださる方々がおらねば立ち行かぬ、小さく弱き一党なのだ。惣領である私は、楠木党の信義を守らねばならぬ。私は、降伏はできぬ」

「言っておくが、俺も降伏はしない」


 自分一人で責任を取ろうとしている。

 正成のそんな気配を察したのか、正季が言葉を挟んだ。


「俺は、楠木党のことをすべて兄者に任せきりにしてきた。おかげで思う存分生き抜くことができた。最期くらいは、弟として兄者に孝行せねば親父に叱られてしまうわ」

「七郎」

「何も言うなよ、兄者。これは俺が決めたことだ。いかに兄とは言え、惣領とは言え、男の決めたことに水を差すものではない」


 正季のことは、それで決まった。

 周囲の視線は、自然と武吉に集まる。


「それがしも、楠木殿にお供いたします」

「そなたは、居合わせただけであろう。なにも我らに付き合う必要はない」

「居合わせただけ、というのも一つの理由にはなりましょう。足利相手に最後まで戦い抜くのも一興かと思いましたが、楠木党と逝くのも悪くはない。それに」


 そう言って、武吉は鎧を脱いでみせた。

 見ると、腹部が赤黒く染まっている。

 気丈に振る舞ってはいたが、既に相当な深手を受けているのが見て取れた。


「どのみち、もう長くはありませぬ」

「……そうか」


 痛ましそうな表情を浮かべ、正成は武吉に頭を下げた。

 下げるよりほかに、どうすれば良いか分からなかったのだろう。


「七郎殿」

「なんだ。お前に七郎などと呼ばれる筋合いはない」

「ちと、離してくれ。なに、逃げも隠れもせんし、暴れもせん」


 そう言って重茂は両手をあげてみせた。

 正季は訝しそうな顔を浮かべたが、正成に促され、渋々重茂を解放する。


 腕の自由を取り戻し、馬から降りた重茂は、自らの武装を次々と解いていく。

 直垂姿になった重茂は、周囲に見張られる中、懐からあるものを取り出した。


「……なんだ?」


 それを見て、正季は思わず疑問の声を漏らしてしまう。

 重茂が取り出したのは――使い古された一本の筆だった。

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