第26話「湊川の戦い(参)」
下山した楠木党の勢いは凄まじいものがあった。
前面に布陣していた赤松軍の手薄な箇所を一気呵成に貫いたかと思うと、その余勢を駆って円心や則祐たちを狙いにいき、散々翻弄したかと思えば、今度は直義軍目掛けて突き進んでいく。
「ええい、赤松軍め! 散々偉そうなことを言っておいて!」
「生きるか死ぬかの瀬戸際にいる楠木党と、長期間戦い続けてきている赤松軍では士気が違う。責めてやるな」
「分かっている!」
憤慨する重茂に対し、師泰は存外冷静だった。
足利が朝敵とされて以来、尊氏付きの師直以上に、師泰は前線の将として活動し続けてきた。
普段はあれこれと厄介ごとを持ち込んでくる面倒な兄だが、こういうときの横顔を見ると、腹立たしいことに頼もしさを感じざるを得ない。
「止まれ」
楠木党の先頭が直義軍の中に切り込んでいく。
一刻を争う状況ではあったが、師泰はそう告げて自軍の足を止めた。
眼前に、僧形の集団を認めたからである。
「――恵清!」
ひときわ大きい体躯の男に、重茂が声を張り上げる。
「これはこれは、高一族の御舎弟殿ではないか」
わざとらしく鷹揚に応えると、恵清は師泰に視線を転じた。
「久しいな、高師泰。こうして会うのはいつ以来であったか」
「さて。まだ鎌倉が賑やかだった頃のこと、としか覚えておらぬな」
「随分と偉そうな口を利くようになったものだ。足利の家人風情が」
「それだけ世が変わろうとしているのだ、北条の亡霊よ」
恵清たちは武器を構えた。
楠木党の元に行かせるつもりはないらしい。
「薬師寺殿。ここはわしが受け持つ故、一隊を率いて急ぎ直義殿の元に向かってはくれまいか」
「承知」
師泰軍配下の将・薬師寺公義は短く頷くと、すぐさま一隊を率いて直義の元へと駆け出した。
「放て」
叫んだのは、薬師寺隊に弓を向ける僧兵たちではなく、そんな彼らを狙った師泰だった。
重茂ら師泰隊が一斉に矢の雨を浴びせかける。僧兵たちは薙刀を振るって矢を払い落そうとしたが、何名かは呻き声をあげてその場に倒れた。
「そんなに浴びせられては叶わんな」
そう言いつつ、恵清は配下に突き刺さった矢を一本引き抜くと、それをそのまま射返してきた。
師泰めがけて放たれた矢は、当たる直前のところで重茂が叩き落とす。
しかし、恵清たちはその隙をついて重茂たちの近くへと踏み込んできた。
乱戦になれば、弓の有効性は大きく落ちる。
そして、恵清の怪力は乱戦において厄介極まりない武器になる。
「させるかよっ!」
大薙刀を振り下ろさんとする恵清に、正面から挑む男がいた。
大力の勇士・大高重成である。
重成は自前の大薙刀を引き抜くと、恵清の大薙刀めがけて打ち込んだ。
重みのある得物と得物、怪力と大力がぶつかり合う。
重茂相手でも余裕を見せた恵清の表情に、僅かばかりの動揺が表れた。
「なかなかの馬鹿力だ。うちの家人にもこのような者はなかなかいなかったぞ」
「ふん、ただの家人と一緒にされては困る。我が名は大高前伊予権守重成だ」
「ほう。それで、今は?」
「後伊予権守よ!」
減らず口を叩きながら恵清と打ち合う重成に、師泰軍が加勢する。
恵清配下の者たちは精兵だったが、数の不利は否めない。一人、また一人と倒れていく。
将たる恵清も、今回ばかりは重成の相手で手一杯のようだった。
「ちっ、さても珍しき力馬鹿よ。こいつを差し向けたは貴様の仕業か、重茂」
「貴様のその力、まともに相手をするのは危ないのでな。勇士には勇士を、ということだ」
「慧眼だ、弥五郎。こいつの首は俺がいただく!」
重茂の勇士という言葉に奮起したのか、重成が更に闘志を燃やして恵清を押し始めた。
恵清の手勢は、かなり減ってきている。
「兄上」
「ああ。――次郎、ここは任せるぞ」
今なら突破できる。
そう判断して駆け出そうとする師泰に、恵清は「高師泰」と呼びかけた。
「世が。世が変わろうとしていると申したな、師泰」
「それがなんだ」
「世は変わり続ける。足利が武家の棟梁になったとして、貴様らはその屋台骨になれるか。長崎や安達を越えることができるか」
長崎・安達は、鎌倉幕府の支配者たる北条氏を支えた一族である。
北条氏の天下だった鎌倉時代、世を大きく動かしていたのは彼らのような存在だった。
挑発的とも取れる恵清の言葉に、師泰は笑って応じた。
「できる。わしには、頼もしき弟たちがいる」
そう告げると、師泰は一気に駆け出した。
突然の言葉に面食らった重茂も、慌ててその後を追う。
その「頼もしき弟たち」の中に自分は含まれているのか。
聞いてみたい気もしたが、重茂はぐっとその衝動を抑え込んだ。
直義軍は竦んでいる。
楠木党への恐れが蔓延している、と重茂は見た。
「兄上」
「ああ」
血まみれになりながらも、敵兵の死体を盾にして斬り合う楠木党の姿が見えてきた。
その在り様は、古の鬼の如きものである。
刀が折れれば死骸から分捕り、盾に突き刺さった矢は引き抜いて射返す。
手段を選ばぬ戦い方だったが、彼らはそれでもどこかに冷静さを残している。
必ず複数人で固まって動き、敵に背後を取られまいとしているのだ。
自暴自棄になった集団の動きではない。
狂気に呑まれつつ冷徹に敵を見る楠木党の姿に、直義軍は恐怖を抱いていた。
薬師寺に預けた兵たちも切り捨てられている。
その死骸が示す道の先に、薬師寺公義と対峙する正成・正季兄弟の姿があった。
「おう、河内の親父殿ォッ!」
師泰の呼びかけに、正成が顔をこちらへと向ける。
激戦に次ぐ激戦を経たのだろう。その双眸は幽鬼の如く恐ろしいものになっていた。
だが、それでも正成は笑った。笑うと、雑訴決断所にいた頃と同じ顔になる。
「おう、師泰殿」
薬師寺公義の相手を正季に任せ、正成はゆらりと太刀を手に重茂たちの方に歩いてくる。
矢を射かけようとする重茂だったが、師泰はそれを片手で制した。
「随分暴れたようだな、正成殿よ」
「命がかかっておる。この死地を抜け出すまでは、最後まで暴れ回る所存よ」
「降伏せぬか」
突然の師泰の提案に、正成は目を丸くした。
正成だけではない。重茂を筆頭に、師泰軍の将兵は皆仰天している。
そんな話は、戦の前の協議の際、一度も出ていなかった。
「兄上、それは――」
「直義殿の許可なら後で取る。別に文句あるまい」
そう言って重茂たちを黙らせると、師泰は再び正成へと向き直った。
「そなたは既に十分武勇を示した。ここで降伏したとしても、楠木党の武名に瑕はつかぬ。もし陰口を叩くような者がいれば、わしが叩き斬ってやる。どうだ、もう、十分ではないか」
言われて、正成は周囲を見渡した。
楠木党の手勢は大分少なくなってきている。
元々、足利の軍勢に比べればちっぽけな人数だった。
圧倒的な戦力差を前に、よく戦ったと言える。
「ふむ」
正成は、ゆっくりと目を閉じて思案しているようだった。
一瞬のようでもあり、とても長い時間考え込んでいるようにも感じる。
「師泰殿」
正成は、どこか申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すまぬ。考えてみたのだが――どうしても、足利殿に仕える自分というものが思い浮かばなんだ」
言いながら、一旦は下げていた太刀の切っ先を師泰の方に向ける。
どこか達観したような正成の物言いに、師泰は歯噛みして膝を打った。
「そんなもの、浮かばずとも問題はあるまい。足利の風下につくのが嫌なら院に直接お仕えするという手もある。ここで意地を張って何になるのだ、正成」
「帝は、変わられようとしている。私は、その可能性を見てしまった。見捨てることはできぬ。見捨てるのはもうやめようと、大塔宮のときに決めてしまったのだ」
大塔宮の名が出たとき、重茂は「無理だ」と悟った。
楠木正成は、足利と相容れない。彼はどこかで、大塔宮を討った足利直義を許していない。
そして、足利直義は重茂や師泰の主筋なのだ。
「情の厚い奴め」
「だから気が合ったのだろう」
「わしは、そなたのような愚かな選択はせん」
「そうかな。師泰殿は甘い。そのうち、その甘さのせいで過ちを犯さねば良いがのう」
そう言うと、正成は重茂の方を見た。
「師泰殿の弟御か」
「高重茂です、楠木殿」
自然と敬語が口から出た。
この冴えない風体の男に、敬意を払わねばならない。
そんな感情が、重茂の中から湧き上がってくる。
「高師泰・重茂兄弟か。我ら兄弟の相手に不足なし。さあ、参られよ」
師泰隊は、師泰の下知があればすぐにでも正成に射かけられる状態だった。
正成の方も、既に心は定まっている様子である。
正季と公義も、互いに得物を突きつけ合っていた。
師泰が一声かければ、この状況は終わる。
だが、師泰は苦悩の表情を浮かべたまま言葉を発しなかった。
そのとき、東南から風が吹いた。
否、風だけではない。遠方から迫りくる数多の音が、大地を揺らしていた。
全員の視線がそちらへと向けられる。
少数の騎馬隊と、その後を追う軍勢がいた。
先頭に立って馬を駆る男の顔を、重茂たちはよく知っている。
「……五郎!」
旗指物の先に見える花七宝を目にして、師泰は弟の名を――五郎師直の名を叫んだ。





