第24話「湊川の戦い(壱)」
南方に旗が見える。
須磨から東進する直義の軍にしては、動きが見えない。
目の良い郎党の一人が、あれは菊水の旗だと叫んだ。
楠木党の旗である。
「ほう、楠木か」
「どうされますか、高経殿」
「かねてより決めてあったことだ。敵が見えたのであれば、それを討つことを第一とする。全軍に触れを出せ、太郎左」
ただちに南進の下知がくだった。
少しずつ、高経軍が南へと矛先を転じていく。
「兄上、楠木殿が相手であれば是非とも手合わせしてみたい」
うずうずとした様子で彦三郎が高経に出陣の許可を求める。
楠木党は勢力としては小さい。しかし、名声は日ノ本中に広まっていると言っても良い。
彦三郎のようなタイプからすると、ぶつかってみたくてたまらない相手なのである。
「お前は相変わらずだな、彦三郎」
「駄目か」
「駄目と言って聞くような弟ではないな、お前は」
呆れたような様子で高経は大きく息を吐いた。
かと思うと、少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「出ても良い。だが、此度は私も出るぞ」
「兄上もでございますか?」
彦三郎と、側に控えていた師秋が顔色を変えた。
高経は方面軍の大将を務めるほどの重要人物である。
それが自ら打って出るというのは、尋常なことではない。
「先日の戦ではやられる一方であったからな。私として河内源氏の一門。尾張足利の惣領として、舐められたままでいるわけにはいかぬ」
彦三郎と師秋は、その言葉の裏にある高経の感情を察した。
顔では笑っているが、今、高経は機嫌が悪い。福山城の戦において、直義と間違われて防戦一方になったことが、今もなお腹に据えかねているのだ。
「し、しかしですな、高経殿――」
「太郎左、こうなったら兄上は聞かぬよ」
どうにか高経を抑えようとする師秋を、彦三郎が制した。
兄弟故に、なにか分かることがあるとでもいうのか。彦三郎と高経は互いに頷き合うと、揃って手綱を手に馬を走らせる。
「な、ああっ、もう!」
残された師秋は、呆気にとられている高経たちの近習に檄を飛ばした。
「なにをしている! 我らも楠木党にあたるぞ! お二人を死なせてはならぬッ!」
無数の駒音が、摂津の地を戦場へと変貌させていった。
少弐の軍が敵を認めて動き出し、それにつられる形で足利全軍が動き始めた。
海にいる尊氏の軍勢は、上陸して戦に加わるべく沿岸部に接近しながら、新田軍と矢合わせをしている。
同時刻、須磨の地を越えた直義軍は会下山へと向かっていった。
「あの地を奪えば戦場を広く見渡せます。全軍の指揮も取りやすくなりましょう」
師泰のその進言を、直義が受け入れたからである。
「しかし、それは敵にとっても同じはず。となれば、今、あの山に布陣しているのはいずこかの大将か」
直義の問いかけに、周囲の武士たちは懸命に会下山の旗を見つめた。
そのうちの一人、赤松則祐が「おう」と少しばかり驚いた声を上げる。
「あれは――楠木殿です」
「やはりか!」
予感のようなものがあったのだろう。師泰はそう言いながら自らの顔を叩いた。
「なるほど。山から戦場を見渡そうというのは新田の趣味ではないと思っていた。あやつであれば納得よ」
則祐の父・円心が鋭い眼差しを会下山へと向ける。
今はこうして敵味方に分かれているが、かつて後醍醐天皇と鎌倉幕府が戦った際、赤松円心と楠木正成は手を携えて後醍醐天皇や大塔宮を支えた間柄だった。互いの流儀は熟知している。
「直義殿。山にこもる楠木めを相手にするのは得策ではない。先に周囲の敵を蹴散らして誘い出すのが上策と思うが、いかがでござろう」
円心の進言に直義が迷いを見せる。
それは、事前に師泰が言っていたことでもあった。楠木がいたら、相手をしないのが一番良い。
こういうときは誰かが後押しをした方が早い。
経験則からそれを知っている重茂は、直義の元に馬を近づけた。
「我らは数で勝ります。迷いがあるなら、方針を無理に一つに絞らずとも良いのではないでしょうか」
「軍を分けよと申すか、重茂」
「大軍故、その方が動きが良くなるかもしれませぬ」
数で勝ると言えば聞こえは良いが、実情は寄せ集めの軍勢である。
ある程度分けてそれぞれの役目を持たせるようにした方が、柔軟に動けるようになるのではないか。
「わしも同意見です。我ら赤松はちょうど一軍として動けます」
「分かった。では赤松殿と師泰の軍は本軍から切り離す。師泰は少弐の軍勢を支える形で新田軍を攻めよ。赤松殿は会下山周辺の敵を追い落とし、楠木を孤立させるのだ」
「承知」
円心は不敵に微笑んで、則祐と共に駆け出していく。
だが師泰は、未だ会下山を見つめ続けていた。
「兄上」
「分かっている」
師泰は直義に一礼して駆け出す。
当然のように、重茂はその後に続いた。
「不服なのか、直義殿の御下知が」
「そうだな。あやつと、一度手合わせをしてみたい。そんなことを考えてしまった」
「兄上と楠木殿が旧知の間柄だというのは知っている。しかし、それは赤松殿とて同じこと。むしろ、戦場での楠木殿をより知っているのは赤松殿の方だ」
「分かっている。だから、直義殿は赤松殿を楠木にあてた。分かってはいるのだ」
だが、理屈では割り切れないものもある。
「弥五郎。わしは、正直なところ迷っている」
「迷い?」
「楠木をどうすべきかだ。討つべきか、それとも生かすべきか」
「本心では、討ちたくないのだな」
今の楠木は敵である。普通なら生かすべきという発想は出てこない。
死なせたくはない。そういう思いが師泰の中にあるのは、間違いなかった。
「そんな迷いがあるわしには、楠木の相手は任せられん。直義殿はそこまで看破しておったのかもしれん」
「迷いがなければ勝てるのか」
「さてな。それを知るためには、実際にぶつかってみなければ」
郎党たちが二人の馬をひいて来た。
重茂と師泰は馬に飛び乗る。目線が高くなり、戦場が少し広く見渡せるようになった。
「兄上。戦とは結局なるようにしかならぬものだ。やるべきことがあるなら、まずはそれに全力で臨むしかないぞ」
「分かっている。お前は全力を出し過ぎて無茶をするなよ」
「ふん。此度こそ武功を挙げてみせるわ」
敵は楠木党だけではない。
眼前には、新田の軍勢も広がっている。まずはそこから蹴散らさんと、重茂・師泰は下知を出した。
高地の利点は、戦場がよく見渡せるところにある。
正成は、北と西から迫る足利軍の動きを既に捉えていた。まずは狙い通りと言える。
ただ、両軍の動きが想像よりも早い。敵の士気は、正成の読みを上回っているのかもしれなかった。
「恵清殿、七郎。隊を率いて北の軍勢を抑えてはくれぬか。出鼻をくじくことができればそれで良い」
「敵の勢いを殺すわけだな」
楠木党の軍勢は決して多くはない。対する北の軍勢は大軍である。
正成の要求はかなり無理のあるものだったが、恵清は一切動じた様子を見せずに頷いた。
七郎正季にとっては、いつものことである。大軍相手に少数で立ち回るのは、楠木党の得意分野だった。
「兄者、西の軍は良いのか」
「我らは一戦して東に退却する。厄介なのは、北の軍勢に東へと回り込まれ、退路を断たれることだ。西の軍勢は、ぶつかる直前まで放っておいても構わぬ」
正成は西の軍勢の旗を見て、あれが赤松の軍勢だということに気づいていた。
状況からすると円心入道自らが率いていると見て良いであろう。
円心の戦は、苛烈ではあるが、意外と手堅い一面もある。こちらが隙を見せなければ、おそらく強引に攻めかかってくるようなことはあるまい。むしろ、取り囲まれないよう注意を払った方が良い。
「北の軍と一戦したら、我らはこの山を捨てて東へと向かい、新田殿の軍勢と合流する。欲をかくな、見栄を張るな。このようなところであたら命を無駄にするでないぞ」
周囲に、そして自分自身に言い聞かせるように正成は吼える。
その視線は、北と西に釘付けになっていた。





