第22話「逆らわずして勝つ」
播磨の加古川を越え、足利軍は歩みを進めている。
ゆるりと進むような余裕はないが、さりとて急ぎ過ぎるわけにもいかない。既にこの辺りは新田の――後醍醐方の勢力圏である。物見を出して敵情を探りながら進んでいるが、どこに伏兵が潜んでいるかも分からない。
重茂は今回、直義本軍の一部隊を任されていた。
直義の副将である師泰を支える部隊長の一人、という位置づけである。
「山が見えてきたな」
前方にそびえ立つ山脈を眺めながら、直義が強張った表情を浮かべる。
摂津の国の玄関口とも言える山脈の一角――須磨の地の山である。
「高地の利を取るなら、あの辺りで新田が待ち伏せしている可能性も考えられるだろうか」
「考えられそうですな。ただ、新田も播磨から引き上げて間もないでしょうし、あまり十分な備えはできていないでしょう。要害と言えるほど堅固かどうかは怪しい気もします」
直義の問いかけに、状況を整理しながら重茂が応える。
新田にとって、足利の急な東上とそれに伴う撤退は想定外だったはずだ。
それに対応する形で須磨の地を要害化するとしても、備中福山城と同程度かそれ以下の備えをするのが精一杯であろう。
「……わしは、もう少し慎重に考えた方が良いと思いますな」
重茂の意見に異を唱えたのは師泰だった。
京が――敵の本拠地が近いからか、近頃は師泰も表情を固くしていることが多い。
「新田勢にとっては急なことだったかもしれませぬが、帝方にこの状況を予期していた者がいたとすれば、十分な備えをして待ち受けている可能性も考えられましょう。海路の軍勢が追いつけば、山に敵がこもっていたとしても揺さぶりをかけることができます。しばし情報収集に専念するのがよろしいかと」
「いつになく慎重だな、兄上。らしくもない」
「慎重になるべきときは慎重になるわ」
前方の山脈に鋭い眼差しを向ける師泰に、直義は何かを感じ取ったらしい。
「師泰。そなた――誰のことを考えている?」
「誰、とは?」
「新田ではあるまい。そなたの頭には、今別の敵の姿が浮かんでおろう」
新田の本分は平原での野戦である。地勢を活かした防衛戦は、分野が違う。
そういうことを得意とする男は、他にいる。
「ここは、既に京にも近い。当然、河内も近いでしょう」
河内という言葉を聞いて、ようやく重茂も二人が誰のことを考えているのかを察した。
「――楠木正成」
「来ているかもしれんな、あやつ」
どこか懐かしむように、師泰は口元だけで笑ってみせた。
「仮にあの山に正成が布陣していた場合、勝てるか、師泰」
「無理を言わんでください。鎌倉御家人をあれだけ出しても落としきれなかった男ですよ」
もっとも、と師泰は付け加えた。
「正成を倒さなければならなかったあのときとは違います。危険だと思ったら、無視すれば良いんですよ」
新田の陣に入る手前のところで、正成たちは恵清と別れた。
「戦には加わる。だが新田と顔を合わせるのは避けておきたい」
恵清にとって、新田は鎌倉で直接戦った仇敵であり、兄・高時を含む一族を滅亡に追いやった張本人である。利害関係から同じ陣に身を置くことになったとは言え、楠木を相手にしたときほどには割り切ることができないのだろう。
「難儀な身の上の御方だな」
「他人事ではないぞ七郎。楠木党もそうならぬとは限らぬ」
新田の陣の番兵に来着を告げると、正成と正季は揃って腰を下ろしていた。
もう年だからか、歩き通しで疲れが溜まっている。ほんの少し前、鎌倉幕府と戦っていた頃には感じなかった疲労感である。
「そういえば兄者、正行はどうした」
正行というのは正成の子で、近頃は正成の副将として経験を積んでいるところだった。
「此度の戦は長引くかもしれぬと思うてな。河内に戻し、兵と兵粮を集めてくるよう申しつけておいた」
「長引くか」
「……そうだな、おそらく長引く。長引かせねばどうにもならぬ」
正成は近くの木の枝を一本折って、地面に近隣の地図を描いた。
「足利殿は西国からたんまりと兵と兵粮を持ってやって来た。今、勢いがある。一方、こちらは兵も離散し兵粮も心許ない」
「まともにぶつかり合えば敗北は必定だな」
「左様。だが工夫を凝らして足止めできれば――流れが変わる」
播磨の国に、正成は足利の軍勢と米俵の絵を描いた。
その上で、米俵に次々と打消し線を書き加えていく。
「足利殿の軍勢は多い。多いが故に兵粮の消耗が激しい。もしかすると九州や四国には余裕があるのかもしれぬが、そこは元々足利殿御自身の土地ではない。兵粮は足利殿に従う武家衆が差し出すことになる」
「であれば、足利としても無理に兵粮を徴発するようなことはできんな」
「うむ。加えて、戦が長引き『どちらが勝つか分からぬ』という状況になれば、今足利殿に従っている者たちの間にも『このまま従い続けて良いか』と不安が生じるであろう。そこまで持っていければ、稲刈りどきを迎え、こちらの軍備もマシになっているかもしれぬ」
「……できれば、それを京でやりたいところでした」
不意に、二人の会話に別の声が加わった。
正成・正季が地面の絵図から視線を上げると、そこにはやや青白い顔をした義貞がいた。側には弟の脇屋義助も控えている。
「これは新田殿」
「使者として楠木殿が来られたと聞いてな。年甲斐もなく、慌てて出てきてしまった」
四人はゆっくりと義貞の本陣に向かっていく。
歩く義貞の姿からは力強さを感じられない。元々病がちだったところを無理に出陣しているのだ。長陣と近頃の悪天候が、その身を蝕んでいるのかもしれない。
「楠木殿が来られたということは、やはりここで足利の軍勢を止めよとの仰せですか」
「朝議で、そのように決まりましてございます」
後醍醐の意向とは言わない。正成の僅かな配慮に気づいたのか、義貞は物憂げに頷いてみせた。
「楠木殿は手勢を連れて参られたそうだが、御助成いただけると見て良いのだろうか」
義助が丁寧な態度で正成に問いかける。
位階は義貞・義助の方が上だが、後醍醐天皇からの信任は正成の方が厚い。加えて、新田一族は足利から「君側の奸」として名指して批判されているという弱味があった。対足利戦において彼らは退路を断たれた状態であり、味方も少ない。今は少しでも協力者が欲しいのだろう。
「無論、そのために参りました」
「楠木殿」
義貞はゆっくりと正成の前にやってくると、両手で正成の手をがっしりと掴んだ。
武骨な手である。きっと、弓馬の道にのみ邁進してきたのだろう。
「――かたじけない」
五月雨が、義貞の身体を濡らしている。
泣いているのか雨で濡れているのか、正成にはよく分からなかった。
「楠木殿、先程申されていた『工夫』について、御思案を伺いたいのだが」
兄に代わって、義助が正成に今後のことを尋ねた。
実質、現在の新田軍は脇屋義助によって動かされているのだろう。
「正直なところ、これといって策が浮かんでいるわけではござらぬ。なにせ、この辺りについてそこまで精通しているわけでもないので」
「そうか……」
「ただ、陸路を往く軍については西の山――高取山や横尾山の辺りで食い止めるのが良いかと存じます」
西方に見える山脈を思い浮かべながら、正成は敵の軍のことを考えた。
「そこを抜けられると、あとは平地が続きます。そうなれば兵数の多さから足利殿が圧倒的に有利になってしまう。あの地を堅守するよりほかに、道はありますまい」
「同感だ。だが、海からの軍勢にも意識を割かねばならん」
「そこが辛いところですな。こちらで船団が用意できない以上、沿岸部を広く守っていくしかない」
「どうしても、一ヵ所の守りは薄くなるな」
新田方も船の手配はしているそうだが、近隣の船はその多くが足利方によって焼かれてしまったらしく、どうしても揃えるのに時間を要するのだという。
陸からの足利軍と、海からの足利軍。
こちらは陸のみ。しかも数で劣る。
何度考えてみても、この場で足利軍をどうにかできる気がしない。
義貞や義助の態度を見て、正成はかねてより考えていたことを口にしようと決めた。
「これは極論ですが」
「聞きましょう」
「陸の足利軍に山を突破された場合、素直に逃げるというのはいかがでしょう」
正成の大胆な案に、義貞・義助のみならず、隣で聞いていた正季もが唖然とした表情を浮かべた。
「し、しかし朝議ではここを死守せよと決まったのでござろう」
「決まりましたな。しかし、それはそれ。これはこれ。無理なものは無理なのです。であれば、無理でないことをやっていくしかありますまい」
動揺する義助に、正成は自分の考えをゆっくりと述べた。
「本当なら私は一戦もせず退くべきと考えています。普通に考えて勝ち筋が見えない。しかしそれはならぬと仰せの方々がおられる。なら、とりあえず形ばかりの一戦をすれば良い。その上で京に退き、帝と共に叡山にでも逃げ込んで時間を稼げば良い」
「だが、それで兄者の面目が立つのか」
「面目は最後に勝てばどうとでもなります。私も一度は北条に敗れましたが、今こうしてでかい顔をしております故」
にやりと笑う正成に、義貞たちは何も言えない。
楠木正成は決して不敗の名将ではない。鎌倉幕府との戦いで一度は城を失い、敗走している。それでも屈せず再起を遂げ、後醍醐の政権で栄達を果たしている。
足利尊氏にしてもそうだった。一度は後醍醐方に負けて九州まで無様に落ち延びた。
それが今や、西方の武家を糾合して大勢力になっている。
「公家衆の中にはとやかく申す御方もおりましょうが、そんなものは犬の屁だと思っておけばよろしい。少なくとも、帝はそれで新田殿を見放したりはしますまい」
話を聞いても義助と正季は唖然としていたが、義貞は一人、笑みを浮かべ始めていた。
「そうか。そんなもので良いか、楠木殿」
「うむ。一度しくじった程度で気に病むことはない。気に病んで無理を通して死んでは、それこそ阿呆というもの」
「左様か。……うむ、そうだな。それで死んでは阿呆というものだ!」
義貞はそう言って破顔した。顔色は悪いままだったが、その喜色は本心からのものだろう。
「この義貞、しばし面目は忘れよう。逆らわずして勝つ。そういうことだな、楠木殿」
「左様。ここでの戦は決戦にあらず。戦いはここから始まる。始まるだけにございます」
笑いながら膝を叩く二人を見て、ようやく義助と正季もぎこちない笑みを浮かべ始める。
建武三年、五月。
山脈のすぐ向こうに敵軍がいることを、このときの彼らは知らなかった。





