第238話「今出川実尹(肆)」
どうも近頃、やりにくさを感じている。
往来を歩きながら、重茂は景気の悪い表情を浮かべていた。
邦省親王を将来の帝に据える。
その計画は、尊氏・高一族・土岐頼遠が主体となって少しずつ動き出していた。
難しいのは、直義や上杉一族には内密でやっているという点である。
直義は光厳院支持派だったし、上杉一族は主筋にあたる四条隆蔭が院の側近という立場だった。
当然、非光厳院流の邦省親王擁立には反対するだろう。
それが分かっているから、当面は伝えない方針になったのである。
おかげでやりにくいことこの上ない。
重茂は立場上仕事で直義と接することも多いし、上杉一族とも接点が多い。
重教や委渡は重能の子である重季たちとよく一緒にいるし、重茂も言葉を交わす機会は多々あった。
その都度、なんとも言い難い後ろめたさを感じるようになっている。
そもそも、隠し通すのは無理があるだろう、と重茂は思っていた。
邦省親王擁立のためには、どうしても足利と邦省親王の関係性を少しずつ出していかなければならない。
公家社会において、現状邦省親王を支持する者は少なかった。
親王を先々の皇太子にするのであれば、足利がついているということを内外に示す必要がある。
そうでもしなければ、邦省親王の立場はかなり弱い。
遅かれ早かれ、直義たちには情報を共有する必要が出てくるだろう。
紛糾するのは目に見えていた。そのときのことを想像すると胃が痛くなる。
「今日のお前はなにやら辛気臭い面構えだな」
横を歩きながらそんなことを口にしたのは、長年の友人である大高重成だった。
今日は天龍寺の造営の件で夢窓疎石に用事があったのだが、そこでばったりと出くわしたのである。
重成は近頃禅宗に傾倒しているような節がある。
夢窓疎石の護衛役を務める中でどんどん関心が膨れ上がっているようで、重茂や宗継は出家でもするのではと疑っているくらいである。
「なにか悩みがあるなら言ってみろ、聞いてやるぞ」
「いや、まあ、うむ。大したことではないのだ」
言えたら苦労はしない。
重成は高一族の支流ながら直義とも親しく、今回の邦省親王擁立計画については知らされていないのである。
何も知らずに気楽なものだ。
胸中でそうぼやきながら歩いていると、正面から輿を担いだ一団がやって来た。
輿の装飾からして、上流貴族のようである。重茂と重成はすぐさま脇にどいて道を空けた。
ところが、輿は重茂たちの近くで止まってしまった。
なにかあったのか、担ぎ手や供回りの侍たちが輿を道の端に動かしていく。
関わるべきか迷っているうちに、重成がさっと駆け出していた。
「もし。何かお困りなら手を貸しましょうか」
近づいてきた重成に対して、供回りの武士たちは警戒の色を見せる。
「急に申し訳ない。我らは足利の一党、大和権守重茂と伊予権守重成と申す。不審な者ではない」
重成をフォローする形で名乗ってはみたが、相手は警戒を解かなかった。
こちらの言っていることが本当だという証拠がないからだろう。
下手に関わるよりさっさと離れた方が良いのではないか。
そう重成に耳打ちしようとしたところで、輿の中からこちらを見ている人物と目が合った。
「これは、今出川卿」
輿に乗っていたのは、青白い表情を浮かべた今出川実尹だった。
直接会うのはいつぞやの歌会以来である。
実尹もこちらに気づいたのだろう。
供回りの者たちに「問題ない」と告げて、自らは輿から足を伸ばした。
「気を遣わせてしまったようですまない。少し気分が悪くなったので、休憩をしようとしただけなのだ」
「それならば良いのですが」
たしか今出川実尹は現在重い病にかかっているという話だった。
それがなぜこんな往来にいるのか、そこがよく分からなかった。よほど緊急の用事でもできたのか。
「余計なお世話かもしれませぬが、お身体に障るようであればしっかりと静養なさってください。うちの子どもたちも、ここ最近はずっと心配しております」
「ああ、重教と委渡か。……そうだな、二人とも近頃は会えていない。会いたいものだ」
実尹はずっと地面を見ながら話している。
重茂と重成は目を見合わせた。かなり調子が悪そうに見える。このまま話し続けるのは却って迷惑になるだろう。
「ここで話し込んでも却ってお身体に良くないでしょうし、我らはこれで」
「すまない。いろいろと心配をかけてしまった」
「良くなることを、心から願っております」
別れてから、しばらくして振り返る。
実尹の一行も歩みを再開したようで、ゆっくりとどこかへ向かっていくのが見えた。
「宮仕えというのも楽じゃないんだな。あんな調子悪そうなのに出仕しないといけないのか」
「出仕、ねえ」
あれだけ調子が悪い病人を呼びつけるというのは尋常ではない。
どちらかというと、実尹の方が無理をして向かおうとしているようにも見える。
「あっちにあるのは――仙洞御所か」
今出川実尹が来た。
その報告を受けて、珍しく光厳院は心の底から動揺した。
実尹が快復したという知らせは来ていない。
それよりも先に本人が急にやって来たというのは、ただごとではなかった。
久々に見る実尹からは、なにか死相のようなものが感じられた。
「急に押しかけてしまい申し訳ございません。もはや、あまり時間もないものと思いましたので」
「不吉なことを口にするものではない。伝えたいことがあるにしても、褒められたものではないぞ」
「皆にそう言われます。私は、良き人々に囲まれて生きてきたということなのでしょう」
実尹が持つ善性は、時折光厳院の胸を刺してくることがあった。
光厳院は明確な理想として、こうあるべきだという帝王のイメージを持っている。
帝王というものは、善性だけでは成り立たない。清濁併せ呑む器量が必要な存在だった。
聖人君子であろうと努力するのと同時に、その治世を脅かす敵に対しては苛烈に臨まねばならないときもある。
だから、実尹のように善性の中で生きているような人を見ると、どこか眩しく感じてしまう。
「本日こうして無理を押して参上したのは、臣として最後にお伝えしたいことがあったからです」
実尹の表情からは、決死の覚悟が見て取れた。
これに耳を傾けないようでは、君主として失格である。
一も二もなく光厳院は「申してみよ」と頷いた。
「恐れながら申し上げます」
実尹はゆっくりと語り始めた。
病に倒れてから、実尹は幾人かの知己と語り合った。
これが最後と思い、普段なら語らぬような本音も語った。
そうすると、相手からも意外な言葉が出てくることがあった。
それが本心から出たものかは分からない。
ただ、普段よりもお互いに胸襟を開いたやり取りは出来たのではないかという。
そういうやり取りを何度かする中で、実尹は一つの危機感を覚えた。
「院の御政道は、この荒れた世を正せるものと信じております。ゆえに、私も身命を賭してお仕えしております。……ただ、その想いが皆に伝わりきっていない。そのような印象を抱きました」
「私の政への不満を口にする者がいたと?」
「はっきりと口にする者はおりませぬ。ただ、こうあれば良い、こうあって欲しい、と多くの者が口にしておりました」
見えないところで徐々に不満が溜まっている。
やがてそれは深刻な対立を生みかねない。
実尹は、そのことを危惧しているようだった。
他の何かを排斥するようなやり方ではなく、融和によって解決を図る道もあるのではないか。
病で臥せっている間、実尹の中でそういう思いが強くなっていったらしい。
「対立か。だがな、実尹よ。私は時と場合によっては対立も必要だと考えている。対立を乗り越えなければ成し得ぬこともある」
吉野にしても、足利にしても、何らかの形で乗り越えなければならない相手である。
こちらが上であることを知らしめる。その工程を経なければ、治天の君主導の治世は取り戻せない。
実尹は光厳院の意見を否定しなかった。
ただ、どこか憂いのある表情を浮かべている。
「どれだけ優位にあろうとも、必ず勝てるとは限りません。勝てたとしても遺恨は生まれます。それが消えるには、長い時間が必要になります。遺恨というのは、時として世を動かす力にもなり得る。対立を経て勝ち取ったものを、今度は守り続けなければなりません」
「すべて覚悟の上だ」
遺恨を恐れて現状維持を続けるばかりでは、光厳院の理想には辿り着かない。
理想を実現するための覚悟はある。あとは、そのために動き続けるだけだった。
「――出過ぎたことを申しました」
実尹は静かに目を閉じて、深々と頭を下げた。
不快な思いはない。ただ光厳院のことを思っての諫言だったのだろう。
「大儀である。そなたの忠義は痛いほど伝わってきた。今は静養するが良い」
「は」
実尹はあらためて深々と頭を下げ、ゆっくりと去っていく。
「忠臣の決死の諫言でも動じない。院のご意志は鋼よりも固いようですな」
暗がりから声がする。
隣室に控えていた男――妙吉だった。
実尹が来るまで、光厳院は彼からいろいろと話を聞いていた。
近頃、土岐頼遠が邦省親王のところに通っていること。
足利がその動きに関わっている可能性があること。
この怪僧は、そういう情報を集めてくることに長けていた。
「お前も何か言いたいことがあるのか、妙吉」
「いえ、いえ。拙僧などが院に意見具申など、とてもとても。調べよと言われたことを伝えるのみにございます」
得体のしれない男だったが、今のところ持ってくる情報が間違っていたことはなかった。
重宝はする。ただ、実尹のように心を許すことはできない。
「今出川卿のような御方は貴重です。恢復されることを願うばかりでございますな」
光厳院のもとに今出川実尹死去の知らせが届いたのは、それから数日後のことだった。





