第234話「混迷の美濃(拾弐)」
頼遠が軍勢を美濃に戻した。
広義門院の使者からその報告を聞いて、光厳院は静かに安堵の息をこぼした。
表向きは一切反応を示さなかったが、頼遠の動向は強く意識していた。
頼遠には大義名分がない。どんな不服があろうと、白金荘の主は広義門院であり、その決定には従うのがルールだった。
ただ、そのルールを無視して行動に出る可能性はあった。その場合、光厳院は足利に頼る以外に手立てがない。
足利が動けば頼遠も鎮圧できるだろうが、あまり武家には貸しを作りたくなかった。
その観点において、頼遠が大人しく退いてくれたのは上々の結果といえる。
「しかし、なぜ急に退いたのでしょう」
問いかけてきたのは四条隆蔭である。
治天の君が相手だろうと物怖じせず、常に人を推し量ろうとするところのある男だった。
この問いかけも、光厳院の考え方に興味を持ったがゆえのものだろう。
頼遠の動向そのものには、さほど関心がないに違いない。
「わざわざ軍勢を率いて上京した――その行動に見合う何かを得たのであろう」
「白金荘の利権と引き換えても良い。そう思える何かですな」
「今すぐに得られるわけではないが、後々より良い形となって返ってくる。そういう類のものかもしれないな」
白金荘の利権を手放したくないと駄々をこねたところで、結局のところ頼遠にはそれ以上のことはできない。
武力で無理矢理解決しようとしても鎮圧されるだろうし、万一白金荘に関する要求が通ったところで、他の荘園で同じような展開にならないとも限らない。
「一応吉野に寝返るという手段はあるが、頼遠一派だけが寝返ったところでさほど戦局は好転しないだろう。結局足利に潰されて終わりだ。頼遠もそれくらいは分かっているだろうし、そのような愚行をするとは考えにくい」
光厳院は頼遠とわずかに面識がある程度だったが、彼の奇妙な聡明さについては周囲の評判などから把握していた。
「母上が、ある男を頼遠のところに向かわせたらしい」
「広義門院様が?」
「高大和権守。高武蔵守の舎弟だ」
「さて、聞いたことがあるような、ないような」
あまり隆蔭の印象には残っていないらしい。
光厳院にしても、同様の印象だった。一度だけ歌会で見かけたが、特にどうというほどもない男だったように記憶している。
「自分から申し出て、広義門院の使いとして頼遠のところに行ったそうだ。そして、大和権守が向かって程なく頼遠は軍勢の撤退を決めたらしい」
「では、大和権守が何か知っているかもしれませんな」
「母上は、その件について何か言っていなかったか」
光厳院に尋ねられると、広義門院の使者は恐縮した様子で頭を下げた。
「大和権守殿が広義門院様に報告している場には私も居合わせておりました」
「ならば話は早い。大和権守はどのように報告していた」
「は。白金荘について粘ったところで土岐氏のためにはならぬと説き伏せたところ、頼遠殿も理解を示したと語っておりました。おそらく、何か語っていないことがあるのだとは思いますが」
広義門院もこの使者も、大和権守重茂の報告を言葉通り信じたわけではないようだった。
ただ、それ以上追及する術がない。
「高武蔵守の舎弟ということは、足利が一枚噛んでいるということか」
「建前としては、独自に動いているようでした」
「なるほど。足利を問い詰めても何も出てこない、大和権守一人の責任ということになるわけか」
完全に重茂の独断なのか、ある程度は足利上層部も関与しているのか。
光厳院にそれを確認する術はなかった。今のところは割り切るしかない。
「今確認できるのはこれくらいか。あとは今後の動き次第だな」
「大和権守を呼び出して話を聞きだす、というのはいかがでしょう」
隆蔭の提案に、光厳院は頭を振った。
「それは私が頼遠の動向を気にしていると公表するようなものであろう。そうなれば、頼遠も今回の件が私の意向によるものだという確信を得るかもしれぬ。確信を持たれれば本格的に敵対することになる。不要な対立は生まないに越したことはない」
「では、我が家司の上杉にでも聞き込みをさせておきます」
「ああ、それくらいなら問題ない」
そう口にしてから、光厳院は少しだけ思考を巡らせた。
これまで気にも留めていなかった大和権守重茂の存在が、少しだけ引っかかる。
「一応、釘を刺しておくか」
「と言いますと?」
「次の除目で、大和権守に新しい官職を与えておこう。位階は据え置きで良い」
なるほど、と隆蔭は頷いてみせた。
これは恩賞ではない。お前のことを見ているぞという警告である。
鈍い者なら気づかないだろうが、なんとなく大和権守重茂は察しそうな気がした。
「それでは、何をお与えになさいますか」
「そうだな」
光厳院の中には、重茂に関する情報がほとんどない。
せいぜい、以前一度だけ会ったあのときの歌会の記憶があるくらいだった。
「以前富士の歌を詠んでいたことだし――駿河守あたりで良いだろう」
大和と比べると駿河は若干国としての格が落ちる。
権官から正式な守になったという点は良いと言えるかもしれないが、正直なところ昇進とは言いにくい。
だからこそ、釘を刺すのにちょうどいい官職とも言える。
「失礼いたします」
そのとき、新たな来客を告げる声が聞こえてきた。
姿を見せたのは西園寺公重である。
所用があって呼び出したのだが、どことなく顔色が冴えなかった。
「どうした公重。いつもに増して暗い顔をしているようだが」
「は。ここに来る途中、今出川の屋敷に寄ったのですが……どうも実尹の容態がかなり悪いようで」
「実尹が?」
最後に顔を見たのは数日前だが、そのときは普段となんら変わったところはなかった。
「昨日、当家に容態が悪くなっているという知らせはあったのです。それで見舞いに行こうと思ったのですが、面会すら難しい有様のようで」
「それは心配だな。実尹は私にとっても得難い臣だ。早く良くなってもらいたいところだが」
陰謀渦巻く京の政界において、何人かそういう気配を一切感じさせない人物がいる。実尹はその一人だった。
光厳院は彼の素直なそういう性質を利用しているところもあるが、それとは別に、純粋にその人柄を好ましくも思っている。
「近いうちに時間を作って快癒祈願に向かっても良いな。とにかく、また元気な顔を見せて欲しいものだ」
公重は神妙な面持ちで頷いてみせた。
親戚ということもあってか、公重と実尹は比較的親しい間柄である。彼としても気がかりなのだろう。
「申し訳ありませぬ、遅くなりました」
そこに、正親町公蔭が顔を出してきた。
彼もまた、光厳院が呼び出した一人である。
「今日集まれるのはこれで全員ですな」
四条隆蔭の言葉に頷きながら、光厳院は集まった近臣たちに要件を告げる。
「以前も話したと思うが――京極派による勅撰和歌集を編纂したい」





