第232話「混迷の美濃(拾)」
「頼遠もまた随分と無茶なことを」
重茂の報告を聞いて、尊氏は面白そうに笑ってみせた。
報告している側の重茂は険しい表情である。
どこに笑うところがあるのか分からない。
そんな重茂の気も知らず、尊氏はどこか他人事のように続けた。
「院の好きにさせないための共同戦線というわけだ。うむ、直義には聞かせられん話だな」
「耳に入れば、頼遠殿を放ってはおかないでしょう。呼び出した上で首を斬ってもおかしくない」
「それは困る。弥五郎、このこと直義やあいつの近しい者には喋るなよ」
尊氏は、頼遠が持ち掛けた提案に興味があるらしい。
だからこそ、それがご破算にならぬよう「黙っていろ」と言ったのだ。
「殿は今の話について、どうお考えでしょうか」
「まあ、さすがに吉野に降るのは無理だな。理由がない。武家の棟梁がそんな軽々しい振る舞いをしていては、面目が立たぬ」
重茂は安堵の息をこぼした。
当然の回答ではあるが、尊氏ならもしかしたらと思うところもあった。
「吉野から京の朝廷との間を取り持って欲しいと頼まれれば喜んで協力するが」
「それは難しいでしょう。吉野には、京の朝廷はともかく足利には絶対降らぬという者たちも多くおります。吉野側が我らに頭を下げて頼みごとをしてくる、などということはありますまい」
「まあ、そうよな」
足利との戦いで子息顕家を失った北畠親房、足利の裏切りで一門が壊滅状態に陥った北条の残党などは、その代表格であろう。
「ただ、さっきの話で出てきた案――吉野への攻勢を一時的に控えるというのは、悪くない話だと思う」
頼遠が提示した「吉野と協力できる点」の一つがそこだった。
あの会合で良忠が口にしていたが、朝廷と足利が現状一体になっているのは、吉野という共通の敵がいるからというのがある。
吉野が倒れれば、次は朝廷と足利の間でどちらが時代を主導していくかの争いが始まる。
そういう意味では、吉野にはまだまだ潰れないでもらいたい。
今回の白金荘のような一件が起きても、どうとでも対応できる――それくらい足利の地盤が固まるまでは。
「もっとも、遠国についてはあまりあれこれと命令を出せん。控えるといっても、本当に京や吉野近辺だけの話になるが」
「それで良いのではないかと思います。向こうも遠国については現地に多くを任せているでしょうから、あれこれと動きを抑えるようなことはできないでしょう」
ただ、それに対する直接的な見返りはない。近衛経忠にそれだけの余力がないからである。
もっとも、吉野が存在し続けること、近衛経忠が和睦に力を注いでいること自体、足利にとって悪い話ではない。
そのための協力と考えれば、十分メリットといえる話である。
「問題は、頼遠殿から出てきたもう一つの提案の方ですが」
吉野はそもそも元来が敵対関係で、向こうは現在弱っている状態である。
できることには限りがあるから、そちらに関する話はそこまで迷うようなところがなかった。
しかし、頼遠の提案は違う。
「次の皇太子を足利で擁立する、か」
現在の帝は光厳院の実弟・光明天皇である。
そして、その皇太子は光厳院の実子だった。
どちらも光厳院にとっては近しい血縁者である。
帝位が代わったとしても、光厳院の院政は盤石だった。
介入するとしたら、その次の皇太子である。
大それたことだ。
重茂などはそう思うのだが、それを言うと頼遠だけでなく良忠も意外そうな顔をしていた。
朝廷と付き合いながら武家の棟梁としてやっていくなら、それくらいはやって当然だろう。
頼遠は不思議そうに、そう言ってのけたのである。
かつて平家や北条は皇位継承に介入してきた。
その理由や経緯はケースバイケースだが、結果として自分たちの権威向上に繋がっている。
皇位継承に絡む力があればこそ、皇室も貴族たちも武家の存在を軽んじることができなくなっていた、とも言える。
そういう行動を取らなければ、やがて武家は朝廷の命令を聞くだけの存在に成り下がっていく。
白金荘の件もそうだが、光厳院や広義門院に対して現状足利はあれこれと強く出ることができない。
圧倒的に権威が上の相手に強く出るためには、自分の方が優位に立つ形で深い関係性を持たなければならなかった。
今の足利には、そういう強みがまるでない。
光厳院からすれば、田舎上がりの坂東武者の代表格に過ぎないのである。
これを解消するためには、足利の言葉を重んじてくれるような人を帝位につけるしかない。
もし足利がその実現に向けて動くなら、自分たちは一旦白金荘の権益を手放しても良い。
その代わり、足利が擁立した帝が誕生した暁には、その権益を戻して欲しい。
それが、頼遠からの提案だった。
「その辺りの話は、以前直義や五郎としたことがあってな」
「なんと」
「あれは建武延元の戦も終わりの頃、叡山での戦が終わろうという頃のことだ」
師久が亡くなった建武三年の夏。
重茂が坂東に行く前後のことだ。
叡山での戦を終わらせるため、尊氏は朝廷と調整して後醍醐に和睦案を出した。
その条件として、成良親王を次の皇太子に据えるというものがあった。
成良は後醍醐の皇子であり、建武政権時は直義が擁立する形で鎌倉の主となっていた。
戦を終わらせるためという大義名分はあったが、このとき既に尊氏は皇位継承について介入していた形になる。
結果的に後醍醐が吉野に逃亡したため、成良は皇太子を廃されることになった。
ただ、後醍醐が逃げなければ今も皇太子は成良のままだった可能性がある。
この案を出すとき、尊氏たちの間でもいろいろと議論があったらしい。
皇位継承への介入をしても良いのか。するとして、今回限りとすべきなのか、今後もやっていくべきなのか。
「五郎は今後も積極的に介入していくべきだという考えを示したが、直義が強く反対してな。結局そのときのみ介入し、以後は関与しないという方針になった」
「兄上が折れたのですか?」
「直義の言葉にも頷ける部分があったということだろう。わしが仲裁するまでもなく退いていた」
「直義殿はなんと?」
「――皇位継承への過度な介入は、長い目で見ると足利を潰す要因になりかねないと」
尊氏が言うには、直義は北条を滅ぼした後醍醐の再来を危惧していたという。
北条は鎌倉中期、皇位継承に関与したことがある。
当初はともかく、途中からは皇族や貴族たちが北条を味方につけて皇位を獲得しようとするようになった。
介入したという先例があること、朝廷のことをあまり無碍に扱えないといった事情から、北条は望む望まないにかかわらず皇位継承に関与せざるを得なくなっていく。
やがて、そういう北条の存在そのものを疎ましく思う者――後醍醐が出てきた。
「北条は望みもしない皇位への関与をした結果、そのせいで吉野の先帝と対立するはめになり、あのような結末を迎えた。いたずらに皇位継承に介入するのは、そういう危うさを持っていると、直義は考えているのだ」
正直なところ、直義はもっと単純に「恐れ多いから」と考えているものだと思っていた。
直義は必要以上に光厳院に気を遣っているように見える節がある。
光厳院に傾倒するところがあるのではないかという懸念もあったが、ドライな視点もきちんと持ち合わせているようだった。
「しかしその結果、光厳院に表立って抗いにくい状況になっているのも確かだ」
「殿の御存念を伺ってもよろしいでしょうか」
重茂に問われると、尊氏の双眸に生気が入り込んだ。
世間話でもするかのように話していたのに、雰囲気が急に引き締まる。
「弥五郎。本音を言って良いか」
「は、それはもちろん」
「口外しないと誓えるか」
「それが主命であれば」
尊氏は「うむ」と頷くと、一拍置いてから口を開いた。
「わしは正直――今の院が好きではない」
自ら陣頭に立つようなこともなく、足利に戦わせることで自らの治世を作り上げた。
そういう経緯であればもっと謙虚に振る舞っても良さそうなのに、院はむしろ帝位を自らの下で一本化しようとしている。
それでは吉野側も抵抗するしかないし、京に残っている他の皇族も気の毒である。
なにか深い理由があるのかもしれないが、傍から見る分にはあまりに傲岸で強欲ではないか。
それが、光厳院に対する尊氏の印象だった。
「これまでは両統迭立という形でやってきたのだし、今後もそうすれば良いのだ。昔皇統は一つだったというが、いったいいつの話をしているというのか。吉野の先帝のように自らの力で勝ち取った帝位ならともかく、他人の手を借りて掴んだものなら、独り占めしようなどと欲を出すものではない」
そこまで言い切ると、尊氏は大きく息を吐きだした。
「分かっている。こんなことは言うべきではない。ただ、どこかで吐き出しておきたかった」
「とてもではありませんが、恐れ多くて口外などできませんな」
実際、重茂は肝を冷やしていた。
この会話がどこかから漏れたらとんでもないことになる。
「そんなわけで、今の院に従うばかりの状況は好むところではない。先々どうなるかという懸念はあるが――今一度、介入するのも悪くないという思いはある」
頼遠の提案のせいで、尊氏の中に余計ななにかが芽生えてしまったかもしれない。
重茂は、内心で少しだけ彼のことを恨んだ。





