第231話「混迷の美濃(玖)」
朝廷にはともかく、足利には従っていく。
頼遠のその言葉が撒き餌であることは良忠も理解していた。
これは言わされた発言だが、遅かれ早かれ口にする必要があるものだった。
ゆえに、言わされたことについてはなんとも思わない。
ただ、そういう餌を撒いてきたことそのものに良忠はぞっとしていた。
頼遠はこちらの――近衛経忠の立場をある程度察している可能性がある。
「足利に、吉野につけと?」
重茂は怪訝そうな眼差しを向けてくる。
それはそうだろう。向こうからしたら突拍子もない話のはずだ。
非現実的とさえ思っているかもしれない。
「たしかに、院や朝廷をどこまで信じて良いものか、という問題はある。武家を完全に傘下にしたいと考えている可能性もある。しかし、それが現実的に起こり得るかは別問題だ。朝廷には一癖も二癖もある傑物がいる。それでも、足利が自立できなくなるほど弱ることなどあるまい」
吉野に寝返らなくとも、足利としては問題ない。
重茂はそう考えているようだった。
良忠としては、はいその通りですと頷くわけにはいかない。
「武家が自立性を保てているのは、今のところ吉野という敵がいるからだ。京の朝廷は単独で吉野と争うだけの武を持たぬ。だから重宝されているだけよ。吉野が滅びるようなことになってみろ、徐々に力を剥がれて飼い犬に成り下がることになるぞ」
「そんなことはない。鎌倉とて長く外敵がいない状態で長く続いていた」
「朝廷とやりあって勝った実績があったから長生きできてただけで、元との戦いが終わってからは徐々におかしくなっていっただろうが。びっくりするくらいあっさり滅んだのは、見えないところで溜まってたものが一気に出てきた結果だ」
重茂はそこで言葉を詰まらせた。
北条が滅んだ経緯については、彼も思うところがあるらしい。
「この日ノ本はな、どこまでいっても朝廷が中心なんだ。自立性を維持するのは大変だぞ。いつまでも朝廷との付き合いは続いていく。常に自分たちの力を削ごうとしてくる海千山千の連中を相手にしながら、武士連中の権益を必死に守っていかなきゃならん。武家の棟梁なんてのは、つまるところ貧乏くじだ」
その点吉野はいいぞと、良忠は畳みかけた。
「吉野はそもそも足利にかなりやられているし、事の発端だった吉野院はもういない。今の帝は話が通じる御方だ。足利が吉野につけば、その恩義に必ず報いてくださるだろうよ。武家の力を削ごうだとか、そんな変な野心は持たぬであろうよ」
「その点は正直、あまり信用しておらん。そちらの帝がどのような御方であれ、周囲に反対するものがいるだろう」
さすがにこの言葉をそのまま信じるほど阿呆ではなかった。
実際、近衛経忠のような和平派はそこまで多くない。
足利が吉野につく場合、逆に吉野から離反するという者も大勢出てくるだろう。
「今はいない。今のうちに寝返れば、そういう反対派を締め出すこともできる」
北畠親房のことを頭に浮かべながら、良忠はどうにかそう答えた。
もっとも、いないのはあくまで親房を中心とする一派であって、それ以外にも和平に反対する者は大勢いる。
だからこの発言は大嘘だった。
案の定、重茂は懐疑的な眼差しを向けてきた。
「なるほどなるほど、これで一つ分かった」
そこで、頼遠が唐突に手を叩いた。
「近衛経忠卿は、この状況にかなり焦っておられる。ああ、良忠殿は肯定も否定もしなくていい。あまり意味がないからな」
なにか言おうとした矢先、言葉を封じられてしまった。
頼遠には、経忠の動向についてある程度確信があるらしい。
「経忠卿は先年まで足利をどうにか倒そうと考えていたが、今の戦況を鑑みて多少不利でも和解して良いと考えるようになったと聞いている。無論、院や足利からすれば圧倒的有利な状況で和解する必要性はない。尊氏殿は和解して良いと考えるかもしれないが……ともあれ、経忠卿は相当難しいことをやろうとしている」
自分が経忠の立場なら相手に危機感を持たせるようにする、と頼遠は語った。
「今は圧倒的有利な状況だが、時間が経てばどうなるか分からない。早々に決着をつけなければならない。だが容易にはつかない。そういう状況なら院や足利としても和解に応じる可能性が出てくる。そういう工夫でもしなければ、和解は成立しない」
経忠は最初交渉だけでどうにかしようとしていた。
その点では、頼遠の方がより状況を見通せていると言えるかもしれない。
良忠から見た経忠は、決して愚人ではないものの、先々を見通せるほどの賢人というわけでもない。
ただ度胸があり、その場その場で危機を乗り切る力を持ち合わせている。
そういう人間は、嫌いではない。
「だから、経忠卿は問題が起きそうな土岐一族の内紛を利用しようとした。私か頼康のどちらかは知らぬが……まあ頼康の方だとは思うが、どちらかを吉野に引き込もうとした。武家の力を弱らせることで、院に危機感を持たせる。主体的に動いていたかどうかは知らぬが、経忠卿の中にそういう期待はあったはずだ」
「だとしたら、経忠卿にとってこの状況は期待通りということになるのか?」
重茂の言葉に、頼遠は頭を振った。
「期待通りではない。先ほどの良忠殿の言葉で私はそれを確信した」
良忠は顔をしかめた。
それを確認するため、良忠からあの発言を引き出したのだ。
重茂にあの提案を持ち掛けるにしても、頼遠がいないところでやった方が良かったかもしれない。
「本当に期待通りなら、あのようなことをわざわざ良忠殿が口にする必要がない。足利一本釣りはたしかに実現すれば大きいが、そもそもが無茶な話だ。そんなものに頼らねばならぬほど切迫している状況ということだろう。私に接触しようとしてきたのもそうだが、かなりなりふり構わず動いているように見える」
原因は院の動向のせいだ――頼遠はそこまで言い切った。
「先ほども話題に出たが、院はこの状況で一切動じなかった。経忠卿からすれば朝廷や足利内の問題で院には動揺して欲しいところだったろうが、まったくもって期待外れな結果になったというわけだ。現状、吉野との和解が実現する可能性は限りなく低い」
院は吉野を徹底して叩き潰したいと考えておられるようだ。
頼遠の見解に、良忠は思わず苦い表情を浮かべていた。
実際、その読みは正しい。
戦況は圧倒的に不利、和解も厳しい。
吉野からすれば窮地と言って良いだろう。
「もっとも、まずいのは吉野だけではない。厳しい状況にあるのは私や足利も同じだ」
「足利も?」
「白金荘の件がこのまま広義門院様の要望通りになれば、咎もない武士が権益を失うことになる。このやり方が通用すると院が確信すれば、おそらく今後も似たようなことが次々と起こるだろう。徐々に武士の不満は溜まっていく。遠からず、足利は対応を迫られることになるだろう」
重茂は険しい表情で考え込み始めた。
「なるほど。三者三様ではあるが、我々は全員難しい立場にあるというわけだな」
期せずして、この場には光厳院への対応を求められている者たちが集まった形になる。
全員立場はばらばらだが、この状況をどう乗り切るか苦慮しているという点では共通していた。
「だからどうしたって言うんだ。まさか手を組もうなどと言い出す気じゃないだろうな」
良忠の挑発するような言い方に、重茂が眉をひそめる。
当然、良忠としての本気の発言ではない。
頼遠にいろいろ見透かされたことへの、言わば八つ当たりのようなものだった。
「――悪くないな」
だが、そこで予想外の声があがった。
良忠と重茂の意外そうな眼差しを受けながら、頼遠は真顔で続けた。
「互いに譲歩できないところはあるだろう。吉野側はもちろん、土岐と足利の間にもな。だが、協力できる部分もある」
思わぬ展開に、良忠と重茂は戸惑いの表情を見せる。
「無論、それを良しとするかはそれぞれの考え方次第だが」
二人に対して、頼遠は静かに続ける。
「さて、どうする」





