第229話「混迷の美濃(漆)」
広義門院。
今の帝である光明天皇、治天の君である光厳院の母。
京政界における大物中の大物は、余分なものを削ぎ落したかのような、ある種研ぎ澄まされた雰囲気の持ち主に映った。
「先日、そなたが美濃の土岐頼遠を訪ねたことは知っています。率直に聞きますが、そなたは今回の頼遠上京について何か知っていますか」
謁見の挨拶を済ませるや否や、広義門院はすぐに本題を切り出してきた。
重茂の美濃行きは、身近な人間や尊氏・直義辺りにしか伝えていない。
土岐氏を巡る情勢はなかなかに繊細なものだ。
あまり大々的に重茂の来訪を知られたくなかったのである。
しかし、広義門院の情報網はそんな情報を把握できるくらい広いものらしい。
「存じ上げませぬ。私としても此度の上京は寝耳に水でございました」
「足利は頼遠を使って何か企んでいるわけではない、ということで良いですか」
こちらが思っている以上にズバズバと切り込んでくる。
難解な言い回しや腹の読み合いをしてくる相手には重茂も慣れてきていたが、広義門院のような相手には慣れていない。
相手のペースに振り回されないよう一呼吸入れて、ゆっくりと答えを口にしていく。
「少なくとも、私は把握しておりませぬ。先日美濃を訪れたのは、単純に頼遠がこの状況をどのように捉えているのか確認しておきたかったためでございます」
「この状況というのは、具体的に何を指しますか」
「土岐一族が頼遠派と頼康派に分かれて一触即発になっているという状況です」
「それだけですか?」
広義門院の視線が重茂に突き刺さる。
ふんわりとした回答でお茶を濁すことはできないらしい。
観念して、重茂は付け足した。
「美濃の白金荘を巡る騒動のことも、気にかけております」
そこまで言って、広義門院はようやく頷いた。
正直、なかなかにやりにくい相手である。
「今のところ、頼遠から私に対する働きかけがありません。此度の上京は、白金荘の件で私に不満をもってのことだと思っていたのですが」
「それは、分かりませぬ。上京後の頼遠殿とは、まだ会っておりませぬゆえ」
「美濃ではなんと言っていましたか」
どこまで話して良いか悩んでしまう。
頼遠が白金荘の件で光厳院を黒幕候補として考えている――というのを口にして良いものかどうか。
ただ、曖昧なことを言うとまた問い詰められそうな気配もあった。
「白金荘の荘官職を解かれることについて、納得していないようでした。あくまで推察ですが、此度の上京に広義門院様への不満があるというのは間違っていないかと思います」
「頼遠は、そなたにただ私への不満を述べただけですか」
「……いえ、広義門院様の他に、頼遠一派を除こうとする黒幕がいるのではと推測しているようでした。ただ、推測の域を出ていなかったようで、具体的なことまでは口にしていません」
広義門院の眼差しが重茂に突き刺さる。
こちらが本当のことを言っているのか、見極めようとしている目だった。
「おそれながら」
それまで横で黙っていた上杉重能が口を開いた。
「土岐一族は足利の協力者ではありますが、身内ではありません。白金荘の一件は土岐一族の身内でのこと。部外者である足利の人間に語ったことがそのまま本意とも限りません。この者に問い質すよりも、頼遠本人を呼びつけて話を聞いた方が良いのではと愚考いたします」
重能の言葉に、広義門院は「なるほど」と小さく頷いた。
「では一つ聞きますが、そなたが私の立場だった場合、頼遠をここに招き入れますか」
「状況次第です」
「私は、呼び出す状況ではないと考えています」
広義門院が何を懸念しているか、重茂はある程度察しがついた。
要するに、女院としての面目である。
頼遠は広義門院の決定に不満をもって上京という力技を使った。
そんな中で広義門院が頼遠を呼び出したとする。当然そこでは白金荘についてのやり取りが行われるだろう。
それで万一状況が頼遠優位に傾いた場合、広義門院の面目は丸潰れである。
土岐の圧に屈して主張を曲げた。少なくとも世間はそのように解釈する。
頼遠の方から広義門院を訪れる。それが広義門院の考える最低条件だろう。
それなら、最終的に状況がどうなろうと、頼遠が広義門院に頭を下げて何かを頼んだ、という体裁にできる。
逆に言うと、頼遠の方はそれをしたくないと考えている可能性がある。だから、広義門院に直接接触しないのだ。
「一つ、ご提案させていただきたいことがございます」
広義門院と重能のやり取りが一段落ついたのを見計らって、重茂は切り出した。
「土岐頼遠の動向が気にかかっているのは私も同じ。足利・土岐という立場の違いはありますが、頼遠とは青野原という激戦を共にした間柄。此度の一件がなるべく穏当な形を願っている立場にございます」
「それで?」
「今のところ、足利の人間としては本件に関わるのが難しい状況です。されば、広義門院様から官人としての私に、頼遠の真意を質して来るべしという御命令をいただきたく存じます」
ほとんど建前のようなものではあるが、重茂は足利の家人であるのと同時に、朝廷から大和権守という官職をもらっている立場でもある。一応、女院からの命令を受けることもできなくはない。
「そなたの官職は大和権守。私が美濃の白金荘の件で命令を出すには、いささか不適当なようにも思いますが」
「体裁が整えば問題ありません。動くための理由がいただければ構わないのです。無論、足利の家人という立場もありますので、できることに限りはございますが」
重茂の案に、広義門院は思考を巡らせているようだった。
重茂を間に挟む形で頼遠と接触を図ることができれば、広義門院の面目には瑕がつきにくくなる。
こちらとしても、頼遠の動向を探って尊氏たちに共有できるようになる。
お互いにとって、悪くない話のような気がした。
「分かりました。高大和権守重茂に命じます。土岐頼遠の真意を確認し、私の報告するように」
「はっ」
「私が十分に納得できるだけの結果を出した場合、元との交易が失敗した際に足利が出さねばならぬ報酬の何割かを、こちらで出しましょう」
「――ははっ、承知いたしました」
どうやら広義門院は、足利の事情についてはかなり把握しているらしい。
かしこまって頭を下げる重茂に、女院はなお見定めるような視線を向け続けていた。
「良かったのか、あのような口約束を交わして」
帰路、重能に問いかけられ、重茂は「ううむ」と首をかしげてみせた。
「正直分からぬ。分からぬが、あの場はああするのが良いと思ったのだ」
「考えなしで提案したのか」
「考えはあった。悪くない提案だったとも思っている。ただ、拝命するとき、広義門院様は俺がこのような提案をすることまで予測していたのではないかとも思った」
もしかすると、自分の予測できないところで巨大な何かに絡め取られているのかもしれない。
そういう可能性が、ふと浮かんだのである。
「ただ、なら他にどうすれば良かったのかと言われても、何か思い浮かぶわけではないのだがな。広義門院様に呼び出された時点で、傍観者という立場は捨てるしかなくなっていたように思う」
傍観者でいたいなら、美濃に行くべきではなかった。
その時点で、関わらざるを得なくなっていたのだ。
「広義門院様も、土岐頼遠も、一筋縄でいく相手ではない。せいぜい気を付けて立ち回ることだ」
「ああ、少なくとも足利に累が及ぶことがないよう注意を払う」
まずは頼遠に接触しなければならない。
重茂は、早速次にすべきことを考え始めていた。





