第223話「混迷の美濃(壱)」
四月二十七日、改元により暦応は終わりを迎えた。
新たな元号は康永という。
漢書における「海内康平、永保国家」から取ったらしいが、そこはかとなくこの時期の朝廷の自信を窺えるようだった。
その報告を御妻から聞き、近衛経忠は苦い顔をした。
この時期、吉野も改元は済ませていて興国という元号を用いている。
ただ、改元の儀は略式だった。体裁はどうにか整えているが、京の朝廷と比較するといかにも慎ましやかである。
興国という元号も、勇ましさを感じさせる反面、厳しい状況に立たされているという実情が垣間見えた。
「どうにかして院の考えを変えさせる必要がある。ただ、院自身に何かを訴えるやり方は効果がない。別のところから手をつけなければならん」
光厳院は容易に考えるような人物ではない。それが、妙吉から話を聞いて出した経忠の結論だった。
想像以上に冷徹で、目指しているものがはっきりしている。そういう相手は、容易に動じることがない。
ただ、非現実的な夢想家ではないようだった。吉野と和解した方が得策だと判断したなら、和睦に応じようとしてくるだろう。
「しかし、どうされるのですか。あらためて足利の打倒を目指すのでしょうか」
「それができるなら苦労はないし、そもそも和解など目指さぬ。武をもって争った場合、今の吉野が京に勝つのは不可能だ。少なくとも、長い長い年月が必要になる」
「では、搦め手を用いますか」
経忠は小さく頷いた。
戦いというものは、武によってのみ決まるものではない。
「足利に勝つのではなく、その力を弱めるのだ。着々と体制を築こうとしているようだが、まだ日が浅い。どれだけ努力しようと、積み重ねた歳月がなければ定着はなかなかしないものだ。些細なきっかけで仲間割れを始めることも十分あり得る」
実際、源頼朝が周囲の武士と作り上げた最初の武家政権――鎌倉幕府も初期は内ゲバが続いた。
最終的に勝ち残った北条がすべての黒幕だったかのように思われることもあるが、実際はそう単純な話でもない。
利害が異なる、もっと言えば対立する部分すらある者たちが集まったのである。
共通の目的があって一致団結している間は良いが、それがなくなれば争い合うのも無理はなかった。
そこをどう捌いていくかが武家の棟梁の力量ということになる。
頼朝は、急死によって次代への引継ぎがきちんと行われなかったのが致命的だった。
そして、足利にも一つ大きな問題点がある。突き崩せる余地は十分にあるだろう。
「とは言え、さすがに足利内部を崩すのは容易なことではなかろう。狙うのであれば、足利以外の武士だ。それも、ある程度大きな規模の武士団。近江の佐々木、あるいは美濃の土岐」
「大きな武士団であれば、問題の種を仕込みやすく、崩したときの影響も大きいから――ということですね」
「そうだ。そなたは頭が回るから話が早くて助かる」
後醍醐の皇后だった珣子内親王の侍女であり、京・吉野双方に顔が利くという。
それだけでも便利な存在だったが、一番良いのは頭が良いという点に尽きるだろう。
というより、知恵が回るからこそ様々な人間との繋がりを築き上げたのかもしれない。
ゆえに、一から十まですべての面で信頼するのは危険とも言えた。彼女の本心は、経忠も把握し切れていない。
「近江の佐々木は、問題の種になり得る道誉父子も先年の行いから今は大人しくしているので、やや突き崩しにくい状況となっております。狙うのであれば美濃の土岐が良いでしょう」
「あそこは惣領問題があると記憶していたが」
「はい。現惣領の土岐頼遠は、多大な功績を上げたという実績で惣領の座を勝ち取った形になります。ただ、本来嫡流といえるのは甥の頼康殿。当人同士はともかくとして、周囲にはきな臭い動きがあるようです」
叔父と甥の跡目争い。
武家・公家・皇族問わず、古から何度も繰り広げられてきた典型的な話ではあった。
「……土岐頼遠か」
「ご存知ですか?」
「さして親しいわけではないが、歌会などで会ったことはある」
身分に大きな開きがあるから、言葉を交わしたこともほとんどない。
それでも、ある程度人となりは理解していた。
「青野原の戦いでは宗良殿下にまで矢を射かけた猛将ぶりだったとか。粗暴な人物なのでしょうか」
「あれは一種の怪物だ」
土岐頼遠がどういう人物なのか、経忠は評価しかねていた。
普段の振る舞いは、武士にしてはむしろ上品な印象すらある。
礼法も問題ないし、歌についても巧みだった。そこだけ見ると、公家に気に入られやすい武士のように見えた。
ただ、ところどころで尋常ならざる気配を身にまとうことがあった。
「突然よく分からないことをする。最初は皆戸惑う。ただ、あとで聞くと理由がきちんとあるのだ」
「察しが良過ぎる、ということでしょうか」
「それもあるが、あの男が恐ろしいのは『理由があれば、普通はやらないようなことでもやる』という点にある。理由を聞かされても大抵の者は、理由は分かったがそれをやるのか、といった反応をしていた」
身分や状況、人間関係等、人の行動に制限をかける要素はいくつもある。
社会の中に生きる者は、大抵そういう制限の中で自分に何が出来るのかを模索するものだった。
しかし、頼遠は時にその制限を無視して行動を起こすことがある。
宗良親王に矢を射かけたという話も、おそらくその類の話の一つなのだろう。
「理想を語るのであれば、土岐頼遠には早めに退場してもらいたい。敵としては勿論だが、味方にしておくのも危うい人物だと思っている。土岐頼康を味方につけ、頼遠を消し、足利から吉野に離反させる。それが理想の展開だ」
語りながらも、経忠の頭の中では既に美濃土岐氏に仕掛けるべきことが構築されつつある。
御妻はじっと黙ったまま、その様子を見守っていた。
近頃、美濃に関する訴訟が増えてきている。
師泰からそんな相談を持ち掛けられて、重茂はやや驚いた表情を浮かべた。
「気づいていたのですか、兄上」
「お前、俺を馬鹿にしているんじゃあないか」
つい口から出てしまった素直な感想に、師泰は冷たい視線を向けてきた。
別に馬鹿だとは思っていないが、重茂としては師泰が引付方の仕事にそこまで関心を示していると思っていなかったのである。
師泰とて、師直ほどではないが父・師重から厳しい教育を受けてきた身である。
やろうと思えばどんな仕事でもそれなりにこなせる。ただ、本人が興味関心のない仕事にやる気を示さないのがネックだった。
「単純に訴訟が増えているだけなら偶々というだけで済ませるんだが、どうも土岐氏関係者同士の争論が多いのが気になる」
「頼遠派と頼康派の争いに熱が入ってきているのかもしれません」
頼遠は周囲が騒いでいるだけだと言っていたが、渦中にいる者の言葉をそのまま受け取るのは危険な気がしている。
本人はそう思っていたとしても、実際はもっと深刻な状況になっていた、というのはよくある話だった。
「頼康殿に、それとなく話を聞いてきましょうか」
二人の話を脇で聞いていた重教が口を開いた。
「会う予定があるのか」
「今日このあと菊さんのところで小さな歌会をやるんですよ」
菊の名前を聞いた途端、重茂は渋い顔になった。
もっとも、重教は気づいていない。先日のことを、重茂は重教・委渡に話していなかった。
話すべきかどうか、判断に迷ったからだ。
菊は油断ならない相手のようだったが、それはあくまで重茂の立場から見た話である。
重教や委渡にとっては友人の一人にすぎない。余計なことを吹き込めば、その関係性を悪化させる恐れがあった。
「なんだ、頼康殿と知り合いなのか」
「歌をときどき詠み合うんですよ。伯父上も来ますか?」
「歌は嫌いじゃあないが、若者の輪なんだろう。おっさんが混じるのもな」
そう言って師泰は引っ込んだ。
「特に不自然な話題ではないから聞く分には構わん。ただ、含みがあるよう取られないようにな。こちらとしては、美濃が不穏な状態になっていないか気になっているだけなのだ」
「承知しました。世間話の一環として聞いておきますよ」
重教は気楽な調子で応じてみせた。
しかし、重茂としてはそこまで気楽に見ていない。
所領の争論が増えてきているのは、規模の大小こそあれ、武士としてのっぴきならない状況になっていることを示す。
個々の争いならともかく、派閥同士でやり合っているのが傍から見て分かるくらいになってきている。
「杞憂で済めば良いんだがな……」
重茂の呟きは、誰に聞かれることもなく消えていった。





