第221話「暦応の終わり(拾伍)」
重茂は、菊に勧められて腰を下ろした。
静かな邸宅である。質素な作りで、落ち着きたいときには丁度良さそうな場所だった。
「ここは良い場所だな。代々ここで暮らしているのか?」
「あまり詳しくは存じておりませぬ。ただ、私は幼い頃からここで暮らしております」
「父君が今出川家に仕えていたのだったか」
重教と委渡から、菊についてある程度のことは聞いていた。
かつて父親が今出川家に仕えていたこと。
本人は登子に仕えていたこと。
母の看病のため、今はどこにも仕えず支援を受けながら生活していること。
「特に生活には困っていないのか」
「ええ、おかげさまで」
「今出川家から支援を受けているのだったか」
「登子様にもいろいろと助けていただいております」
「他に、誰か支援者はいるのだろうか」
重茂が問いかけると、少しだけその場の空気が変わった。
実のところ、重茂はこの菊という女性がただの元侍女ではないと考えている。
特に誰に仕えることもなく、母娘二人だけで市中に質素ながらも良い家で生活を維持できている。
重教たちは特に何も感じなかったようだが、重茂はその点に違和感を抱いた。
このご時世、公家ですら所領からの収入が減って貧困に苦しんでいる。
重茂たちも、武家社会の中枢に上り詰めることになったが、生活自体はかなり質素である。
一部では華美なものを好むばさらというものが出てきているが、それは本当に一部の例外的なものである。
大多数は戦乱で貧しくなって困っている。だからこそ、ばさらが注目されていろいろと言われるようになったのだ。
そんな中、特に収入源もなく生活に困っていないというのは奇妙である。
相応の支援が行われているはずだが、登子はたまに差し入れをしているくらいだと言っていた。
「そうですね。他にも以前お仕えしたところからお助けいただくこともあります」
「御方様からは、細かいところによく気の利く者だったと伺っている。もしかして、いろいろなところで勤めていたのか」
「気になりますか」
「ああ、かなり気になっている」
真顔で応じる重茂に対して、菊は変わらず穏やかな表情を浮かべている。
その動じなさが、重茂の中の疑念を強めた。
「御妻とは、どこかで同僚だったのか」
「なるほど。その辺りが本題なのですね」
菊の目元が少しだけ変わった。
温和そのものだった中に、かすかな冷たさが現れる。
「そうですね。話しても差し支えないのでお伝えしますが、私と御妻はかつて珣子様にお仕えしていました」
「……吉野の先帝の皇后か」
「そして、院の姉君でございます」
持明院統に生まれ、大覚寺統である後醍醐の后になり、両統を繋ぐ役割を果たした女性である。
そして彼女は、西園寺家の出身だった。
極めて重要なポジションにいた女性だったが、数年前に亡くなっている。
「元々私は今出川家で奉公見習いをしていたのですが、その際に珣子様の侍女をしてみないかというお話がありまして。そこで出仕して、同様に出仕していた御妻と知り合ったのです」
「御妻は元々どこにいたのであろうな」
「さて。珣子様の元には様々なところから来ていた者がおりましたが、御妻については分かりませぬ。元々同僚だった者たちは自然と集まって行動しておりましたが、御妻は特定の集まりにだけ顔を出すようなことはしておりませんでした」
「孤立していたということか」
「逆ですよ。どんな集まりにも自然と顔を出していました」
珣子の元には、おそらく持明院統に縁のある家、大覚寺統に縁のある家、様々なところから人が集まっていたのだろう。
その中でグループが形成されていたというのは自然なことだと思うが、そのすべてに顔を出していたというのはやや異質に映る。
「私なども御妻に連れられていろいろな集まりに顔を出していました。他にもそういう方々はいましたね。珣子様の元で仕えていた侍女は、元の立場に関係なく、独自の繋がりを持っている者が多いとも言えます」
重茂が問いかけるより早く、菊は自身についての情報も出してきた。
菊・御妻ともに持明院統・大覚寺統双方にある程度顔が利くということなのだろう。
そして、それは珣子に仕えていた者たちの中だと特異なことではないという。
少し前、堀川具親と話したときのことが頭に浮かぶ。
珣子に仕えていたのは女性たちばかりではない。
中宮大夫として堀川具親、中宮権大夫として今出川実尹も仕えている。
そんな堀川具親が「女子の繋がりというのは、男からすると存外見えにくい。そして、軽視できない力を持っている」と言っていたのである。
「一つ聞きたいのだが」
「なんでしょう」
「御妻は持明院統側だと思うか。あるいは――大覚寺統側だと思うか」
菊は、すぐには答えなかった。
動揺は見えない。ただ、どう答えるべきか悩んでいるようではあった。
「この答えでご納得いただけるかは分かりませんが、私はどちらでもないと考えています」
「どちらでもない?」
「はい。ああ、別にその両統以外の勢力に属している、ということではありませんよ」
菊の言葉に重茂は唸った。
実のところ、咄嗟にその可能性を考えていたのである。
「珣子様が逝去された後、仕えていた者たちは皆各々の道を歩むことになりました。とは言え、そこは人の繋がりがございます。大半は元々仕えていた家に戻ったのですが」
「御妻は違ったと?」
「はい。彼女は、新しく仕える人を探すと言っていました。珣子様はお仕えしたくなる人だったけど、元の主は今一つそういう気分になれないと」
「一族や家といったものに属すのではなく、自らが選んだ人に仕える――そういう人だということか」
京の朝廷に従っているのか、吉野方の人間なのか、今一つ読みにくい。
足利から離反した飽浦信胤と駆け落ちしたという話だから、普通に考えるなら吉野方の人間という気もするのだが、そう単純に考えて良いものなのか自信がない。
「随分と深刻そうな顔をされていますが、御妻が何かしたのでしょうか」
「いや。ただ、吉野方の重要人物が京に入り込んだという話を聞いたので、不審な点全般に目を光らせているのだ。その御妻という者は吉野方に奔ったと思しき男についていったという話もあるのでな」
現時点で御妻が何かをしたという証拠は何もない。
ただ、重茂が個人的に警戒心を働かせているというだけである。
「そういうことでございますか。委渡ちゃんや重教殿のことを、気にかけておられるのですね」
重茂は嫌そうな表情を浮かべた。
自分の中にあった微妙な感情を見透かされたような気がしたからである。
確かに、御妻に対する警戒心が動き始めたのは委渡たちから話を聞いてからだった。
足利に仕える人間として治安維持のために動く。
そういう建前だったが、そこには私情も混じっていた。
「そなたは聡いな」
「ありがとうございます」
淡々と応じる菊を見て、重茂は眼前の女性が自分の想像を上回る人物ではないかと思い直すようになっていた。
「一つ私の考えを言っても良いでしょうか」
「なんだ」
「おそらく御妻は、委渡ちゃんや重教殿たちに敵意は持っていません」
御妻はいろいろな人と如才なく付き合える人柄だが、相手に好意を持っているかどうかは割と分かりやすいらしい。
「彼女は、嫌な相手や興味ない相手にはあまり積極的に関わろうとしないのです。話しかけられれば当たり障りなく応じますが、自分から声をかけたりするようなことはありません」
「……先日、重教と委渡は御妻に助けられたそうだが」
「はい。だから、御妻はきっと二人にそれなりの好意を持っています。彼女がどういう考えで動いているにせよ、二人に直接害を為すようなことはないと思います」
その言葉をそのまま信用するつもりはなかったが、少し安堵したのも事実だった。
先ほどの話からすると、御妻は人との関係性を重視しているように見える。
そういう人であれば、気に入った相手にわざわざ危害を加える可能性は低いのではないか。
「――だとしても、御妻への警戒を解くわけにはいかん」
「ええ、それはそれでよろしいかと思います」
重茂は頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「もうよろしいのですか?」
「ああ。気になっていたことは確認できた」
本当は他にもいくつか聞き出そうとしていたことがあった。
しかし、この菊から情報を引き出すのは容易ではなさそうだった。
ここまでのやり取りの中で、隙と言える隙が見当たらない。手強い相手だという印象を受けた。
「……いや、最後に一つ聞いておきたいことがあった」
「なんでしょう」
「先日の法勝寺の件。あれは、予期せぬ事故だったと思うか」
巷では吉野方や禅律僧の放火だという話も流れている。
しかし、わざわざ由緒ある顕密寺院に手を出すのは、メリットよりもリスクの方が遥かに大きい。
普通ならば、そのようなことを故意にやるはずがない。重茂はそう考えていた。
ただ、かすかに不審な点もある。
放火が起きた頃、行方不明になっていた者がいる。
その者が放火したのではないかという可能性を、重茂は捨てきれずにいた。
菊は、一切表情を変えなかった。
「予期せぬ事故だった。そう考えるのが自然でございましょう」
「……やはり、そう思うか」
「少なくとも、故意に法勝寺に火をつけようなどと大それたことを考える者はそういないと思います」
もしそのような考えを持つ者がいるとすれば。
「私たちとは、見えているものがまったく違っているのでしょう」





