第219話「暦応の終わり(拾参)」
火と混乱が広がっていく法勝寺の敷地内で、重教は委渡と共に駆け回っていた。
「駄目だ、いない」
焦燥感を募らせながら、重教が声を上げる。
今日、二人は菊に誘われて法勝寺に参詣しに来ていた。
天下に知られた法勝寺。その壮大さに目を奪われていたのだが、人混みのせいで菊とはぐれてしまったのである。
そこに、この火災である。逃げることも出来たが、二人は菊の無事を確認したいという想いを捨てきれなかった。
「それらしい人も全然いません」
「誰かに話を聞けるって雰囲気でもないしな。くそっ、どこかによじ登って上から探すか――」
周囲の人々は、火災をどうにかしようとする者、逃げようとする者、誰かとぶつかって喧嘩している者などばかりだった。
到底菊についての話を聞けるような状態ではない。
覚悟を決めて重教が近場の建物をよじ登ろうとしたとき、「ちょっと」と声をかけられた。
その相手を見て、重教と委渡は息を呑んだ。声をかけてきたのは、御妻だったのである。
「なにしてんの、二人とも。屋根に上るより逃げる方が先でしょう」
さすがに焦っているようだったが、御妻の二人に対する態度は普段と何も変わっていなかった。
気の良い姉御といった雰囲気のままである。吉野方に通じている人だとは思えない。
「菊さんとはぐれたんです」
「それで、屋根にでもよじ登って見つけようかと」
「そんなことしてる場合じゃないでしょうに。急がないと逃げ遅れて黒焦げになるわよ」
御妻の言うことはもっともだった。
しかし、重教たちの中にはためらいがある。
それを察したのか、御妻は「分かった」と頷いた。
「もしかして御妻さん、お菊さんのことを見かけたんですか」
「生憎見てないのよ。でも、ここであてもなく探し続けるよりマシな方法がある」
そう言うと、御妻は「逃げるならあっちの門からだよ!」と大きく声を張り上げた。
「この勢いじゃ簡単に火は消えない! ここで死んでも火を止めるって覚悟がないなら、皆逃げるんだ!」
よく通る御妻の声に、周囲の人々が耳を傾け始めた。
それまで混乱の中にあった人たちが、少しずつ出口に向かって駆け出していく。
「皆が避難する流れを作るのよ。そうすれば菊だってその流れに乗るはず。無事逃げられたなら、家に戻るでしょう」
「どこかで身動きが取れなくなってる、ということは」
「そうなったら運が悪かったと思うしかないわ。あらゆることに対処できるほど、人間は万能じゃないのよ」
さあ早く。
そう促されて、ようやく重教と委渡は逃げ出す方に意識を切り替える。
未だ姿の見えない菊を案じながら、三人は燃え盛る法勝寺を駆け抜けた。
法勝寺の火災はどうにか終息したものの、その被害は甚大なものとなった。
なにせ、寺の南半分が焼亡したのである。何人が亡くなったのかも分からない。ただ、行方知れずとなった者は大勢いた。
あのとき重教たちも来ていたのだと後から知って、重茂はかなり肝を冷やした。
幸い、重茂の周囲で被害にあった者はいなかった。
直義や円観も無事だったし、重教たちが探していた菊という女性も逃げて家に戻っていたらしい。
由緒ある顕密寺院を襲ったこの大惨事を受けて、光厳院は側近を連れて臨幸したという。
そこで被害の大きさを目の当たりにして、かなりの衝撃を受けたという話だった。
「今年になってからは病に火災と良くないことが続いている。現在、院は改元を検討されているそうだ」
元号を改める。疫病や災害の発生は、そのきっかけになりやすい。
朝廷がここ最近の状況を鑑みて改元を考えるのは、無理もないことだと言えた。
ただ、直義から改元のことを聞いて重茂は別のことを考えていた。
改元とは、ただ元号を改めるだけではない。
そのための儀式含む諸行事があり、人も大勢動くことになる。
各国に対して改元を布告する必要もあった。とにかく手のかかることなのである。
当然、手がかかるということは費用もかかるということになる。
そして、その費用をすべて自前で用意できるほど今の朝廷に余裕はない。
「改元の際は、やはりこちらの援助も必要ということになりそうでしょうか」
「無論だ」
「天龍寺の件もまだ途中ではありますが」
「さすがに改元の方を優先するしかなかろう。天龍寺建立も大事なことではあるが、あれはあくまで国事ではない。改元は国事だ。知らぬ存ぜぬで通すことはできん」
光厳院を擁立することで正当性を保持している足利は、朝廷が行おうとしている国事を援助せざるを得ない。
もしそこで断ってしまえば、朝廷を自分たちの都合の良いように利用しただけだと非難を受けてしまうだろう。
それは、武家の棟梁という足利の立場を危うくする。朝廷を軽視してやっていけるほど、足利の地盤は固まっていなかった。
「そろそろ政所が悲鳴を上げるのではありませんか」
「ずっと上げ続けている。すまないとは思っているが」
政所というのは足利政権の財政状況を司る役所で、端的に言ってしまえば、尊氏や直義が金を使いたいと言い出したときに頭を悩ませる職場である。
前までは二階堂行珍がその長官とも言うべき政所執事の職についていたが、今は二階堂一族の他の者に替わっていた。
今思うと、政所執事を辞めた頃から行珍の顔色は分かりやすいくらい良くなっていたような気がする。
「ともあれ、天龍寺の費用まわりは少し待ってもらうことになる。これは兄上の同意も得ている。師直にそう伝えてくれ」
「承知いたしました」
自分で直接伝えれば良いのでは。
そんなことを思ったが、重茂は口にしなかった。
どうも先日立て続けに病にかかって以降、直義と師直の間に微妙な距離感が生まれているような気がした。
当人たちが意図しないところで勝手に派閥が生まれようとしている。
そのせいで、どのように接していくべきなのか分からなくなっているのかもしれなかった。
直義のところを退出すると、遠くから幸子がじっとこちらを見ていた。
ここ最近、直義邸に来るたびにこんな調子である。
一度きちんと話した方が良いのかもしれないが、幸子はすぐに視線を外すとどこかに行ってしまう。
もしかすると、自分よりも委渡のことが気になっているのかもしれない。
「叔父御」
と、そこで声をかけてきたのは直義の警護役を務めている師世だった。
「これはあくまで根も葉もない噂なんですが」
「ああ」
「あの法勝寺の出火は、意図的なものだという話が出回ってます」
師世が聞いただけでも、吉野の手の者説、顕密寺院の権威を貶めたい禅律僧説が広まっているらしい。
「今のところ怪しい人物とかはいないんだな」
「具体的な話は一切出て来てないですね。だからこそ、あれこれと形を変えながら噂話が広がっていきそうで」
もっとも、噂話だからと言ってただ否定できるような話でもなかった。
吉野は現状まともに戦って勝てないくらい弱ってきている。こういう搦め手を仕掛けてくることも、十分に考えられた。
「直義殿は噂話など捨て置けと仰ってたんですが、俺個人としては少し気になるところでしてね。叔父御も、何か不審な点があったら教えてください」
「分かった。何か気づいたら共有しよう」
師世は若いうちから父である師泰に連れられて戦場を駆け回ってきた。
実戦の中で磨かれる経験というものがある。その経験は、直感という形で現れることもあった。
そういうものを軽視すべきではない。重茂は、これまでの経験からそのように考えている。
「……そういえば、重教たちが言っていたな」
邸宅を出て一人になったとき、重茂はふと思い出していた。
重教と委渡は、法勝寺で御妻に会って助けられたらしい。
そのとき御妻の様子におかしなところはまったくなかった。
ただ、状況が一段落ついた頃、その姿はいつの間にか消えていたという。
「念のため、確かめてみるか」
そう言うと、重茂は馬をある場所に向けて走らせた。





