第212話「暦応の終わり(陸)」
御妻という女性は、よく喋る人だった。
菊も明るくて話しやすい人だが、それに輪をかけて口が回る。
少しうるさいくらいである。ただ、妙なことに不快感はない。
彼女は母親が恋多き人だったらしく、幼い頃から男女の機微というものを間近で多々見てきたらしい。
母親やその知人、自分自身の恋愛経験をずっと喋り倒している。
委渡はまだ色恋というものにあまり興味がなかったが、御妻の話は聞いていて面白かった。
恋にかまけていて親としては駄目だったと語る御妻だったが、言葉とは裏腹に母のことは好きなようだった。
御妻の母の人徳というものなのか、御妻自身が人の好い性質なのかは分からない。
ただ、そういう感情が見え隠れするからこそ、御妻の語る恋愛譚は面白く聞けるのだろう。
「御妻さんは、人というものをたくさん見てきたのですね」
「そんな立派なもんじゃないけどね。でも人と関わるのは好きよ。楽しいことも嫌なこともあるけど、全部ひっくるめて生きてるって感じがするもの」
人と接することを避けるのはつまらない。
御妻はさらりとそう言ったが、委渡からすればそんな言葉が出てくるのは強い人だからこそだ、という気がした。
「まあ最初は慎重になるけどね。相手のことよく知らないし。母さんの新しい『良い人』なんてさすがに最初は気まずいもの。けど、ずっと気まずいままなのも嫌じゃない」
「それは、そうですね」
委渡の頭には、重茂たちの姿が浮かんでいる。
「気まずい相手には、どうやって接するんですか?」
「相手のことを知る。兎にも角にもこれしかないでしょ」
知った上で合わなければどうしようもないが、もしかしたら好きになれるかもしれない。
だから、まずは知る努力をしなければならない。それが御妻の持論らしかった。
「まあ、これはあくまで私のやり方だけどね。それで上手くいくこともあればいかないこともあったわ」
なんでも、御妻にはついこの前まで「太郎左殿」なる良い人がいたらしい。
ただ、最初は良い男だと思っていたものの、時折情けない一面を見せてくるようになり、段々とその男に向ける情熱が醒めてしまったのだという。
「悪い人じゃないとは思うんだけど、私があれこれ口や手を出すと、結構甘えてくるようになったのよね。多分このままこの人と一緒になったら、私はこの人を駄目にしてしまう。そんな気がしたから、さっさと別れてしまったのよ」
「相手の人は納得したのですか?」
「多分してないんじゃないかしら。正直別れ話切り出したら揉めそうな気がしたから、何も言わず出てきちゃったのよねえ」
思い切りが良過ぎると思ったが、振り返ってみると、今の委渡は人のことをとやかく言えるような立場ではなかった。
むしろ、きちんとコミュニケーションを取った上で「駄目だ」と判断しているだけ、御妻の方が理性的と言える。
「また顔を合わせると気まずいから、そこだけは気を付けないとね。もしかしたら京にいるかもしれないし」
「いるわよ、高太郎左殿なら」
それまで黙って話を聞いていた菊が、さらりと言葉を差し込んできた。
「高……?」
「そう。御妻さんの良い人だった太郎左殿というのは、高太郎左殿。師秋殿といった方が分かりやすいかしら」
直接言葉を交わしたことはないが、存在自体は知っていた。
重茂の従兄弟にあたる人で、かなり古くから付き合いがあるらしい。
一度だけ顔を見たこともあるが、正直あまり印象に残っていなかった。
「あら、もしかして委渡ちゃんて太郎左殿の親戚か何か?」
「師秋殿のところの子じゃないわよ。引付頭人だった大和権守重茂殿の養子」
北条の生き残りということは伏せつつ、菊は御妻に説明した。
「あー、なるほどねえ」
先ほどまでと異なり、御妻は少しだけ気まずそうな表情を浮かべた。
もっとも、さほど深刻そうではない。
「これは強制じゃないんだけど、もし太郎左殿に会っても私のことは言わないでおいてもらえないかしら。私にも太郎左殿のことは特に言わなくていいから」
「それくらいなら」
「さすがに一年二年くらいは間隔空けておきたいのよねえ」
男女のあれこれに巻き込まれるのは面倒そうである。委渡としても、黙っておく方が良いだろう。
そんなやり取りをしていると、表の方から「失礼します」という声が聞こえてきた。
重教の声である。彼はここのことを知っているから、探しに来てもおかしくはなかった。
「あらあら、お迎えが来たみたいね」
菊はそう言って重教を出迎えに行く。
「家の人?」
「はい。その、今ちょっと急に家を飛び出て来てたので、多分探しに来たんだと思います」
「なるほど。拳骨の一発くらいは覚悟しておいた方が良いかもしれないわね」
けらけらと笑いながら御妻が言う。彼女も似たような経験があったのかもしれない。
少しだけ、重茂邸に戻る勇気をもらえたような気がした。
尊氏・登子の邸宅を辞去した重茂は、まっすぐ家に向かっていた。
もう日も暮れている。今日は仕事が終わってからもいろいろあって、かなり疲労が溜まっていた。
「早く帰って、そろそろ休みたいところだ」
ため息混じりに本音が漏れ出る。
そのとき、正面から武士団らしき集団が近づいてくるのが見えた。
「止まれ、何者だ」
なにやら緊迫した様子で、向こうの郎党が威嚇してきた。
武士団には気性の荒い者も多いが、この京では相手が皇族や公家ということもあり得る。
相手のことを見極めもせず喧嘩腰で仕掛けてくる者は、そう多くない。
「大和権守重茂だ」
あまり相手を刺激しないよう、淡々と答える。
これ以上厄介なことが起きるのは勘弁願いたい、という思いもある。騒動は避けたい。
「大和権守殿か」
武士団の首領らしき男が前に出てきた。
暗くてよく見えていなかったが、見知った顔である。
「頼遠殿」
「すまぬな。先ほど襲撃を受けて、皆少し気が立っているのだ」
「穏やかではないな。京の往来で襲われたのか」
京は人が多い分、トラブルには事欠かない。
決して治安が良いとは言い切れないが、それでも往来で武士団を襲うような者は普通いないだろう。
武士団同士で抗争に発展するというのはたまにある話だが、襲撃という言い方からすると、そういう話ではなさそうだった。
「この頼遠を暗殺しようとしたのだろう。相手は新田の手の者か、頼康一派か、いずれにしても困ったものだ」
少し話そうと、二人は馬から降りた。
「頼康殿の一派とそなたの一派が揉めているというのは小耳に挟んだが、暗殺されそうになるほど拗れているのか」
「頼康自身とは揉めていないのだがな。実は先ほども会ってきたところだ」
「他家のことに首を突っ込みたくはないが、やはり後継問題なのか?」
「そんなところだ。私は頼康に惣領の座を譲るつもりだし、頼康もその点は十分に理解している。ただ、私の子に跡を継がせようとする一派と、私の言うことを信じようとしない一派がいる。この者たちが互いに不信感を募らせ続けているのだ」
頼遠はかなりの数の男子がいる。
その子ら、あるいは母親の実家が土岐氏惣領の座を狙うのはそこまで不思議なことではなかった。
元々土岐氏は美濃を中心に勢力を張りつつ朝廷と繋がりを持ってきた有力氏族だった。
今はそれに加えて、新たな武家の棟梁となった足利氏との結びつきも強化されてきている。
その惣領の座というのは、かなり重いものだった。頼遠の武功によって、更に価値が高められたところもある。
しかし皮肉にも、それが一族内の争いを誘発するようになっている。
「まあ、そちらも厄介な話なのだが、私がこうして京に来たのはそれが理由ではない」
「新田一派か?」
先ほど頼遠は、襲撃者の心当たりとして新田一派のことを挙げていた。
つまり、この京に潜入している可能性がある、ということである。
「確証はない。ただ、私は脇屋義助の後を追っている。一旦吉野に向かったところまでは確認しているが、その後吉野から出た一団が各地に散らばり、その一部が京に来たという報告を受けている」
頼遠は、脇屋義助がこの京のどこかに潜んでいるかもしれない――そう言っているのだ。





