第200話「光厳院と近臣たち(壱)」
その日、重茂たちが訪れたのは大光明寺という洛南に位置する寺だった。
少し前に、光厳院・光明帝の母である広義門院が夢窓疎石と共に開いた寺社である。
光厳院等の父である後伏見帝の菩提を弔うために創建された寺で、持明院統の拠点の一つとも言える。
今日、ここで歌会が開かれる。
参加者の顔触れからすると、ただの歌会とは思えない。
なにしろ、光厳院と近臣、夢窓疎石等の高僧、そして足利兄弟も参加するのである。
正親町公蔭は明言しなかったが、ほぼ間違いなく政に関する話が出てくるだろう。
表向きは公蔭主催となっているが、真の主催者は光厳院なのかもしれない。
重教は先ほどから目に見えて緊張しているようだった。
表情だけでなく動きも硬い。無理もないが、このままだと恥をさらすことになりかねない。
「重教」
「……」
「重教。返事をせぬか」
「あ、はい。なんでしょう」
頭が真っ白になっていたのか、重茂の声にも気づけていなかったらしい。
「今日、歌会に参加される方々は雲の上の存在とも言える」
「そう、そうですよね」
「ところでお前は、普段雲の上をいちいち気にするのか」
「いえ、別にそんなことはないですけど」
「なら普段通りにしていれば良い。俺はそうすることにした」
重教はしばらくポカンとしていたが、やがて得心したのか大きく頷いてみせた。
無論、詭弁である。
言ってしまえば、今の自分たちは普段意識していないような雲の上まで飛ばされているようなものだ。
羽もないのに空にいる。落ちて死んでしまう。そんな場所にいるとも言える。
要するに、こういうのは考え方次第なのである。
少しでも自分が楽な状態になれるよう、都合よく考えれば良い。
案内された部屋には、既に何人かの姿があった。
今日出席する人々の大半は、重茂も面識がない。
どこかで見たことのあるような顔もあったが、名前までは分からなかった。
静かに頭を下げ、指定された席に腰を下ろす。
少し経って、ようやく見知った顔が入ってきた。洞院公賢である。
彼は重茂たちの姿を一瞥したが、それ以上は何の反応も見せず黙って席についた。
他の者たちも、歓談などはまったくしていない。親交を深める場、という空気ではなかった。
尊氏・直義・師直も姿を見せた。
こちらが参加することは事前に伝えていたので、特に驚いた様子などはない。
その後も少しずつ席が埋まっていく。
重茂たちは参加者の中でも下座に位置していたので、参加者たちの様子は見やすかった。
上座の方に視線を向けるだけで、ほぼすべての参加者の姿が映る。
一番の上座は、空席だった。その隣も空いている。
そこに誰がつくのか、重茂は既に知っていた。
他の参加者がすべて揃ったとき、最後の参加者が姿を見せた。
「皆、揃っているな」
言葉を発したのは、この歌会の主催者である正親町公蔭――ではない。
彼の後ろから、静かに顔を見せた一人の青年。
どこにでもいそうな顔立ちでありながら、常人には持ちえないものを備えた存在。
参加者が、一人の例外もなく一斉に頭を下げる。
光厳院。
京の朝廷において帝の実兄として君臨する存在――天下を治める者、治天の君だった。
歌会は静かに行われていく。
最初に自己紹介が行われたおかげで、参加者の顔と名前は一致させることができた。
一番の上座にいるのは光厳院で、その脇に控えているのは主催者である正親町公蔭。
あとは、おおよそ官位に則って席次が決められている。例外的に、尊氏はやや低めの席にされていた。
直義が隣なのでなんとなく武家で固まったような形になったが、本来の尊氏の官位からすれば軽んじられているようにも見える。
尊氏本人はまったく気に留めていないようだったが、重茂としてはその点が気になった。
席次というのは、その社会における優位性を表している。
武家の棟梁である尊氏の位置づけは、そのまま光厳院が武家をどのように見ているかを表しているとも言えた。
問題の西園寺公重は、パッと見たところ今一つ冴えない風体の男だった。
公卿の出らしく品格は感じるが、それ以外で目を引くものが特にない。
実直そうな官人、という印象だけしかなかった。
「本日の主題は冬といたします」
主催者である公蔭から、今日の和歌のテーマが伝えられる。
参加者は、それぞれ筆を取って用意された紙に歌をしたため始めた。
「此度はこのような歌会に不慣れな者もいるようだが」
上座にいた光厳院が、下座――こちらの方を見ながら口を開いた。
「そうした者たちは、臆せず歌を詠むことに専念せよ。何人にも嘲弄はさせぬ。今のそなたらの歌を、そのまま詠むが良い」
場が洗練されていた。
院の近臣だけあって光厳院の意を理解しているのか、こちらを侮るような雰囲気を出している者は一人もいない。
皆、静かに自身の歌と向き合っている。
「院。ご配慮いただき、まことにありがとうございます」
直義が咄嗟に礼を述べた。
咄嗟に重茂も頭を下げる。
「誰でも最初は不慣れなものだ。それを嘲笑う行為は見苦しい。そのようなことをする者は、この場にいないものと信じている」
ところで、と光厳院は直義の隣に視線を向けた。
「武蔵守。顔色が優れぬようだが、問題はないか」
そのとき、重茂は初めて師直の顔をしっかりと見た。
言われてみればという程度だが、確かに師直の顔色は悪くなっている。
「はい、支障ありませぬ。お見苦しい点があるかもしれませぬが、ご容赦いただければと思います」
「そなたが倒れるようなことがあっては、直義も苦労するであろう。今のそなたは、足利だけでなく天下にも必要な人材である。自愛することだ」
「過分な御言葉、まことに恐れ入ります」
うむ、と頷いて光厳院はすらすらと筆を走らせた。
武蔵野につもりし雪が覆いしは黄金の稲に白雲の空
「素朴な歌でございますな。実に素朴であられる」
隣にいた正親町公蔭がさらりと評する。
「少し単純すぎるか。あまり気取ったものにしたくなかったのだが」
「そうですな。いくつか手直しするとすれば――」
二人はそこから歌についての話し合いを始めてしまった。
為政者ではなく、一人の歌人のようにしか見えない。
『顔触れだけ見ると、歌会の名を借りた政の会合のようにも映るだろう。それは否定せぬ。しかし、一方でこれは紛うことなき歌会でもある』
参加者たちの名を告げたあと、正親町公蔭はそのように告げた。
京極派を生み出した京極為兼の立場を継承したのは、正親町公蔭である。
しかし、京極派の意思を継いだのは持明院統だろう――ほかならぬ公蔭が、そう語っていた。
光厳院は治天の君だが、同時に京極派の代表的歌人でもある。
趣味で少し和歌を嗜んでいる、などというものではない。
自身も京極派の代表的歌人である。
公蔭と歌について対等に語り合う姿からは、光厳院のそんな自負が感じられる。
そんな光厳院に従う近臣も、皆同様だろう。
政の担い手であるのと同時に、彼らは皆京極派の歌人なのである。
ふと、光厳院がこちらを見た。
否、重茂だけを見たわけではない。参加者すべてを見ただけである。
皆、少しずつ筆を進めていた。
自分も周囲の様子を見ているばかりではいけない。
不格好でもなんでも良い。
自分の歌を、作り上げる必要があった。





