第198話「西園寺家の事情(漆)」
今出川家の名前は、重教も知っていた。
と言っても、知ったのはつい最近――西園寺家について調べていたときのことである。
鎌倉時代、武家や皇室との繋がりを強化して成長した西園寺家からは、いくつもの家が分かれた。
今出川家はその一つである。他には、公賢の洞院家も分家にあたる。また、正親町家は洞院家から分かれた家だった。
いくつもの分家が生まれ発展していった。それだけ、西園寺家は鎌倉時代に大きく成長を遂げたのである。
もっとも、その栄光も今は昔。
今は、どちらかというと分かれた家の方が力をつけているような印象すらある。
「なるほど、正親町殿に歌を酷評されたと。まあ、あの御方も歌については容赦ないからなあ」
重教から歌の悩みを聞きだした今出川実尹は、同情するような声を上げた。
本当は話すつもりなどなかったが、実尹は妙に聞き上手なところがあり、気づけば口が回ってしまっていた。
さすがに、公蔭に歌を教わっている理由までは話していない。
ただ、気を抜くと話してしまいそうだった。
「実尹殿は、歌はやられておられるのですか」
「嗜む程度だ。とてもではないが正親町殿には敵わぬよ」
「あら、お上手じゃないですか。院にも褒められたと、少し前得意げに語っておられましたのに」
菊に言われて、実尹は「いやあ」と照れ臭そうに笑ってみせた。
菊の父が仕えていたのが、この今出川家だったのだという。
その縁で、実尹は菊のことを気にかけて時折通ってくるらしい。
無論、その説明を額面通り受け取るほど重教も子供ではない。おそらく、そういう関係なのだろう。
「歌は難しいです。私には重教殿の気持ちが分かりますよ」
土岐頼康が難しそうな表情をしながら頷いてみせた。
実尹は彼を友と言っていた。本来両者の間には身分差がある。ただ、二人の間にはそれを気にしたような空気感がない。
「実尹殿はなんでも器用にこなすので、こなせない者の苦労が分からんのです」
「おいおい、人を天才肌のように言うじゃないか。私だって正親町殿や院、女院にいろいろ酷評されながらどうにかこうにか足掻いて少しずつ腕を磨いているのだぞ」
今の京極派の中心人物は、京極為兼の教えを受け継いだ正親町公蔭、院の母である広義門院、そして光厳院その人である。
彼らから歌の批評を受けているのであれば、実尹も京極派なのだろう。
「ただ、それなりに嗜んではいるから多少なりとも教えることはできるかもしれない。正親町殿のところに通う合間に、ここで詠み合いをしてみるというのはどうだろう」
実尹からの申し出に、重教はやや警戒心を抱いた。
いくらなんでもフレンドリーすぎる。会って間もない武士相手に、貴族がこんな提案をしてくるものだろうか。
重教は重教なりに、しばらく京で生活してみて、ここに暮らす人々が一癖も二癖もあるということを理解し始めていた。
自分に接近してくる相手には、何か裏があるのではないか。そんな風に疑ってしまうのである。
重教が警戒していることを察したのか、実尹は「これは失敬」と頭をかいてみせた。
「すまない、よく人への距離感を見誤るのだ。頼康にも最初は随分と警戒されたものだよ」
「歌会から帰ろうとしたところ、いきなり呼び止めてきてずっと話してましたからね。それで最後は友人になってくれないかと」
無茶苦茶な話である。
周囲の貴族からも怪訝に思われたりしないのだろうかと、重教は他人事ながら考えてしまった。
「特に他意はないのだ。強いて言えば、私は信頼できる相手を常に求めている。何分未熟な身で家を継ぐことになったので、いろいろと不安が多いのだ」
実尹は重教たちよりいくらか年長だが、家の当主として見るとまだ若い方だろう。
貴族の当主がどういうものか重教はそこまで理解できていないが、相応にプレッシャーがかかることは想像がつく。
「公家同士だと、どうしても利害が衝突する可能性があるし、仕事の仲間という意識の方が勝ってしまう。だから、私としては武士や遁世者の友がたくさん欲しいのだ」
そもそも、重教が菊の邸宅を訪れたのは完全な偶然である。
実尹が何か仕組んでいたという可能性はほぼないと言って良い。
信頼できるかどうかは分からないが、裏はないと言って良さそうだった。
「分かりました。お恥ずかしい限りですが、私としてもありがたいお話です。是非ともお願いいたします」
「うむ。そちらのお嬢さんも良かったら参加すると良い」
急に声をかけられた委渡は「はあ」と気の抜けた返事をしていた。
もしかすると、相手がどれくらい偉い人なのかあまり分かっていないのかもしれない。
御方様に相談してみます、などと呑気なことを言っている。
「では早速、酷評されたという歌を教えてもらおう。ほらほら、見せてみたまえ」
妙なことになったものだ。
そう思いつつ、重教は渋々筆を手に取った。
「聞いてくれ、弥五郎」
まだ酔っていないはずだ。
だというのに、眼前に入る太郎左――師秋は既に身体をふらふらとさせている。
正親町邸から戻って休んでいたところに、突如師秋が尋ねてきたのである。
彼は吉野方の多い伊勢国の守護として、同国の攻略にあたっていた。
しかし何年かけても目立った成果が挙げられていない。
かろうじて最近少し情勢が改善されたらしいが、これは助っ人として東国から呼び戻された佐々木道誉等の働きによるところが大きいとされている。
「俺の面目は丸潰れだ。というかおかしいだろ道誉殿と秀綱殿。上総に左遷されてそんな経ってないのに、なぜしれっと戻ってきているのだ」
「あちらで相応の戦果を挙げたと聞いている。おかげで四郎左も少しは楽になったと便りがあった」
坂東で孤軍奮闘し続けている四郎左こと師冬だったが、一時期よりはましな状態になってきているらしい。
相変わらず坂東武者の協力を得るのに苦労はしているが、小山・宇都宮・結城といった北坂東の雄族は足利方に傾きつつあった。
自前の戦力は増えないが、相手の戦力が増えることもなくなった。それだけでも十分な結果だろう。
これらは、佐々木道誉父子が裏で随分と骨を折った結果だという。
もっとも、重茂はあれから道誉父子と会っていないので詳細は分かっていない。
さすがに京まで戻すと朝廷や寺社から苦情が入る恐れがあるので、道誉父子には近江や伊勢で動いてもらっている。
ともあれ、道誉父子は流罪を帳消しにするくらいの活躍をしたというわけである。
ただ、そのせいで元々成果が挙げられていなかった師秋は完全に割を食うことになった。
「俺だって長い間頑張ってきたのに、あとから出てきたあいつらに全部持っていかれたんだぞ。弥五郎、お前にこの気持ちが分かるか?」
「ああ、うん。分かる分かる。お前も辛かったんだな」
「俺はさっきまで直義殿のところにいた。伊勢守護として報告しなければならないことがいろいろあったからな。そうしたらお前、そこで最後に何を言われたと思う?」
「さ、さあ?」
「お前はもう休んで良い。報告はこれが最後だ。今後については追って沙汰する、と」
事実上、伊勢守護罷免宣告である。
道誉たちが戦果を出したがゆえに、これまで通じていた「伊勢は吉野方が強過ぎるので仕方ないのでは」という理屈が通じなくなってしまった。道誉はできて師秋はできなかったのだから、これは師秋に問題があるのでは、という評価になってしまったのだ。
「今日お前が来た理由が分かった。居ても立っても居られなくなって誰かに愚痴を吐きたくなったのか」
「そうだよ、悪いか」
「まあ悪くはないが」
これが赤の他人なら文句も出ただろうが、太郎左は幼い頃からの付き合いである。
愚痴くらいなら聞いてやっても良い。そういう相手である。
「今後は戦も減る。戦働きができなくとも、別の形で奉公することができる。そう思えば、良い時期に守護を離れられたと見るべきではないか」
「俺はお前と違って物覚えが特別良いわけでもないのだが、戦以外での奉公はいけるだろうか」
「それは分からん。何事もやってみなければな」
今後はよほど目立って戦果を挙げられるようでなければ戦働きの機会などなくなっていく。
上手くできるかどうかはさておき、事務仕事もこなしていかなければならないのは確かだった。
「例えば、お前歌などはできるのか」
「趣味で多少やったことがある程度だ。人前に出せるようなものを詠んだことはない」
それに歌は嫌な思い出がある、と師秋はこぼした。
「時折こうして京に戻って来てたんだが、そのとき知り合った女がいてな。今出川家の御妻という侍女なんだが、歌のことを少し教えてもらっていたんだ」
「なぜそれが嫌な思い出になる」
「逐電したんだよ。あとで聞いた話によると、俺の指揮下にいた飽浦信胤という奴と一緒に消えたらしい」
「なるほど、捨てられたわけか」
重茂が指摘すると、師秋は泣きそうな表情を浮かべた。
どうやら心底惚れ込んでいたらしい。さすがにちょっと気の毒になってきた。
「すまん、今のは俺の言い方が悪かった」
「構わんさ、事実だ」
師秋はすっかりしょげてしまった。
さすがにかける言葉がない。重茂は話題を変えることにした。
「しかし、飽浦信胤か。吉野方に寝返って小豆島を占拠していると聞いているが」
「御妻はそこについていったんだろう」
「……今出川家の侍女が、か」
ふと洞院家のことが脳裏をよぎる。
同じ西園寺家の分家である洞院家は、家人を通じて吉野方との繋がりも持っていた。
洞院家の場合、朝廷と吉野方両方にパイプを作っておくことで、情勢がどう変わっても対応できるよう中立性を確保するためという方針があった。
今出川家の場合はどうなのか。
その御妻という侍女個人が飽浦信胤と繋がっていただけなのか、その裏に今出川家当主――実尹の意向が働いているのか。働いているとしたら、どういう考えがあるのか。
「本家もそうだが――分家についても洗い出しをしておくべきか」





