第192話「西園寺家の事情(壱)」
追加法第七条が施工されてから数日。
直義から「師直の様子を見て来て欲しい」と頼まれ師直邸を訪れた重茂だったが、生憎と師直は留守にしていた。
「留守なら仕方ない。青葉丸の顔でも見て帰るか」
どこか安堵しつつ、重茂は甥っ子の姿を求めて邸内に視線を走らせる。
そのとき、一人の女人と目が合った。
見知った顔ではない。ただ、装束から貴族の出だと察することはできた。
「あら、重茂殿。お出でになられていたのですね」
その女性の後ろから姿を見せたのは、師直の妻である菖蒲だった。
彼女の足元には、探していた青葉丸の姿もある。
「おじ!」
青葉丸は簡単な言葉を発するようになっていた。
こちらに駆け寄ってきた甥を抱きかかえながら、重茂はあらためて女性に頭を下げた。
「高武蔵守が弟、大和権守重茂と申します」
「日野名子と申します」
日野。その名は重茂もよく聞いていた。
日野家は元々武家に近しい立場として地盤を固めつつあった家だが、鎌倉時代末期は持明院統派・大覚寺統派に分かれ、生き残りをかけて戦乱に身を投じた。大覚寺統の後醍醐派として倒幕計画に参加して処刑された資朝・俊基が特に有名だろう。
資朝は四人兄弟だったが、他の三人は持明院統派である。
長兄の資名は既に亡くなっているが、弟二人は健在だった。
光厳院の側近として辣腕を振るっている実務官僚の柳原資明と、尊氏が朝敵になったときに光厳院との間を取り持った・三宝院賢俊である。
そして、日野名子は資名の娘だった。
「名子殿のご子息が無事に家督を継がれたのだけど、そのとき殿が僅かばかり動いていたそうで。その御礼がしたいと来てくださったのです」
「本当はもう少し早くに来たかったのですが、何分身辺のことがなかなか落ち着かず。武蔵守殿に直接御礼の挨拶をしたいので、後日あらためて伺わせていただきます」
そう言って名子は師直邸を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、重茂は彼女の御子息のことを思い返していた。
「兄上は、名子殿の側に立っていたのですね」
「おそらく足利の殿の御意向を受けてのことかと思います。殿が独断で公家の御家騒動に介入するとは思えませんから」
菖蒲の言葉に、重茂も頷いてみせた。
日野名子は、かつてあの恵清――北条泰家と組んで後醍醐暗殺を謀った西園寺公宗の妻だった。
公宗は処刑されたが、彼女はその遺児を抱えて生き延びていた。
彼女の子はまだ幼い。そのため、鎌倉時代に五摂家をも凌ぐ勢いで栄えた西園寺家は現在名子が取り仕切っている。
少し前まで西園寺家は、公宗の後を弟の公重が継いでいた。
後醍醐に兄の計画を密告したことが、功績として認められたのである。
無論、名子としては我が子こそが真の跡取りだという思いがあっただろう。
後醍醐が京を治めている間は陽の目を見なかったが、光厳院の世になってから、彼女は各所に働きかけて我が子の家督相続を認めてもらおうとしていた。
その活動が、実を結んだということなのだろう。しかし、それに足利も一枚噛んでいるとは知らなかった。
「西園寺家は朝廷と武家の橋渡し役として栄えた家。貸しを作る形で復興させておこうという考えなのかもしれませぬが、いささか恐ろしくもありますな。迂闊にかかわりを持って大丈夫な相手かどうか」
公宗の失脚が決定打となり、西園寺家の力は大きく削がれている。
しかし、西園寺家の女性は代々持明院統・大覚寺統に嫁いでおり、今も後宮ではかなりの存在感を示している。
なにせ光厳院の母からして西園寺家の女性なのである。
頼りになる相手になるかもしれないが、一歩間違えばかなりの脅威にもなり得る相手と言えた。
「おじ」
難しい表情を浮かべる重茂のことなど気にせず、青葉丸が髭を引っ張ってきた。
最近は言葉を少しずつ覚え始めており、あちこち動き回るようにもなってきている。
「違うぞ、青葉丸。おじうえ、だ」
「おじうぇ」
「お、じ、う、え」
「おじうぇ!」
少しずつ言葉を覚えていく様を見守るのが、なんとなく楽しい。
重茂は実子がおらず、小さい子が育っていく様を側で見てきた経験がない。
だから、青葉丸とのやり取りは新鮮だった。
「良いか、青葉丸。そなたはいずれ兄上の跡を継ぎ、執事として足利を支える大役を担うのだ。たくさん言葉を覚えて、賢くならねばならぬぞ」
「はい」
「恥を知り、己に恥じぬ生き方をするよう心掛けるのだ。さすればそなたはきっと大人物になる。この叔父にも、立派になった姿を見せてくれよ」
「はい、おじ」
それがどれくらい先の話になるかは分からない。
ただ、そのとき自分がまだ生きていたら、一生懸命この甥を支えてやろう。そう重茂は考えていた。
ある日、重茂は登子から呼び出された。
相談したいことがあるので来て欲しい、とのことである。
使者も具体的な内容は把握していないようだった。
引付方の仕事帰り、重教と郎党を連れて尊氏夫妻の邸宅へと顔を出す。
ちょうど、先客とすれ違いになった。
登子の居室がある方から来たので、登子の客だったのだろう。
登子は京で独自の人脈を築き上げている。
尊氏が武家の棟梁として多くの武士との繋がりを増やしているのに対し、登子は公家との繋がりを増やしていた。
登子は北条氏の出身だが、京の公家には北条氏と繋がりを持っていた者が少なくない。
皇位継承問題にも介入するくらい大きな影響力を持っていた北条氏である。
縁を作っておき、いざというとき力添えしてもらおうと考えていたのだろう。
北条氏はほぼ壊滅したが、それに代わる存在となった足利氏は宮廷社会との縁が少ない。
上杉氏や四条氏が比較的近しい公家と言えるが、それ以外の公家はそこまで接点がなかった。
ただ、足利の御台である登子は違う。北条氏出身の彼女を通せば、足利と接点を持つことができる。
そのように考えた公家は、登子の元を訪れるようになっていた。
すれ違った男も、そうした公家の一人だろう。当人や従者の雰囲気が、武士のそれではなかった。
「盛況ですね」
「どこも生き残るのに必死なのだろう」
光厳院は朝廷の権威を取り戻そうと精力的に活動しているようだが、現状足利の力がなければ回らない部分が多い。
足利と縁を作ることで、少しでも足場を固めておきたい――そう考える公家のことを、重茂は笑う気にはなれなかった。
ふと、横死した塩冶高貞のことを思い出す。
あの男も懸命に生き延びようとした。それでも、ほんの僅かな何かが掴めず命を落とすことになった。
生き延びるためには必死。それは武家も公家も変わらない。
ふと庭先を見ると、軽装の女性たちが集まって武芸の稽古をしているのが見えた。
その中に、委渡の姿も見える。気合の入った声と共に、鋭く薙刀を振り下ろしていた。
「すごい気合の入り方ですね」
「あの娘の父親を思い出すな。左腕の傷が疼きそうになる」
委渡の父・恵清は大薙刀を振るい、戦場で鬼神の如く暴れ回った。
重茂の左腕も斬り落とされる寸前だった。傷跡は今もはっきりと残っているし、握力は失われている。
「あれでもうちょっと愛嬌があれば良縁にも恵まれるってもんなんでしょうけど」
「要らぬことを口にするな。お前とて未だ良縁に恵まれてないだろう」
一言多い重教に釘を刺しながら、重茂は登子の部屋へと入った。
彼女の側には、御付きの家人が控えている。その中には、委渡の親代わりを務めているなずなの姿もあった。
「今日は重茂殿の意見を聞きたいと思い呼び出しました」
「は。どのようなことでしょう」
わざわざ自分を呼ぶくらいだから、引付方に関する事柄――所領絡みのことだろうか。
そんな風に考えていた重茂の予想は、大いに外れるところとなった。
「委渡のことです」
「はあ」
ちらりとなずなに視線を向ける。
しかし、彼女は彼女で困惑したような表情を浮かべるばかりだった。
「あの娘が、いかがなさいました。何か問題でも起こしましたか」
「いえ、委渡は大変よく働いてくれています。とても真面目で良い娘ですよ」
「では、どうされたのでしょう」
登子は僅かに沈黙した後、表情を硬くして告げた。
「委渡に――西園寺から縁談の話が持ちかけられています」





