第186話「塩冶高貞の乱(結)」
出雲までは、あと少しだった。
高貞たちにとって見慣れた光景。
もう大丈夫だろうと、そう安堵できる場所。
ここに至るまで、犠牲があった。
そもそも、十全な旅立ちとすら言えなかった。
それでも、活路を求めて彼らはここまで駆けてきたのだ。
高貞だけではない。
彼に付き従ってきた郎党にとっても、生涯でもっとも濃密な時間だっただろう。
声が聞こえる。
鬨の声だ。
自分たちを迎えに来た出雲の味方のものか。
一瞬、そう錯覚した。
そんなはずはない。
出雲への逃避行は突発的に起きたものだ。
そして、高貞たちは常に最前線を走り続けてきた。
彼らより先に出雲へ到着した者などいない。
出雲の人々は、高貞を巡る異変を知るはずがないのだ。
「駆けよ、敵だ!」
声を出すのが遅かった。
高貞がそう叫ぶより先に、敵の矢が郎党の一人を貫いていた。
その郎党は、何かを言いかけて崩れ落ちる。
何を言おうとしたのか。それを考える余裕すら、高貞には残されていなかった。
身体はとっくに限界である。
馬も既に使い潰していた。あとはもう自分の足で進むしかない。
全身が熱い。
視界が滲む。
自分は今とても惨めな姿をしているのではないか――そう考えると、今すぐ死にたくなってくる。
だが、諦めることはできない。
どれだけ無様を晒そうと、どれだけ悪し様に罵られようと、自分は生きて果たさねばならないことがある。
その一念が、壊れかけた高貞という男を前へ前へと突き動かす。
その正面に、一団が現れた。
中央、馬上の男には見覚えがある。
山名時氏。
足利一門ではあるが、家格はそこまで高い方ではなく、戦乱の中でのし上がってきたと言われている男だ。
「久しいな、塩冶殿」
時氏の表情にも、疲労の色が表れていた。
それはそうだろう。高貞が出奔したとき、彼は京にいたはずだ。
高貞以上の速さで、ここまで駆け続けてきたのだ。疲れないはずがない。
「こんなところで顔を合わせるとはな」
「よもやよもや。まったく大変だった。互いにな」
正面だけではない。
周囲から人の気配がする。
時氏がこうして姿を見せた以上、こちらを逃がさぬための準備は整っていると考えて良いだろう。
彼がこちらに向けているのは、すべて手向けの言葉だ。
「こちらには人質がいる。交渉の余地は」
「あると考えているのか、塩冶殿」
時氏は淡々と、冷徹な表情で続ける。
「仮にこの場を切り抜けたとて、程なく我らはそちらを打ち滅ぼすことができる。無意味だと、思わんかね」
時氏の言葉を、高貞は否定することができなかった。
交渉したからと言って、それが何になるのか。
時氏側は完全に追いついている。ここで交渉したとして、その間に次の一手を打たれるだけだ。
出雲の拠点まで辿り着くことは、絶対にできない。
「そうか」
鎌倉北条氏からの離反。
後醍醐からの離反。
足利からの離反。
難しい選択が続いた。その都度、懸命に生き残ろうと足掻いてきた。
だが、それもここまでらしい。
不思議と、時氏への恨みはなかった。
すべてが潰える。
その最中にあって、高貞の心には爽やかな風が吹いていた。
目を閉じれば、思い浮かぶのは家族の姿。
悪い一生ではなかった。そう感じられるなら、生きてきた甲斐もあろう。
「言い残すことはあるか、塩冶殿」
「必要なことはすべて重茂殿に言っておいた。あとで彼から聞いてくれ」
「では、語ることはもうないのだな」
「ああ」
頷いて、高貞は刀を抜いた。
清々しい気持ちで、時氏に対して構えを取る。
「あとは武人として果てるのみ。疲れているところ申し訳ないが――付き合ってもらうぞ」
襲撃を受けて、源長たちは重茂を担いで逃げ出した。
もう高貞は終わりだと、瞬間的に察したのだろう。
彼らからすれば、高貞は主でもなんでもない。
命を賭けてまで付き合う義理などないのだ。
「俺のことは置いていった方が良いんじゃないか」
「何言ってんだ。あの場にいたら、流れ矢が飛んできて死ぬかもしれないだろ」
怒った風に言い返す源雲に、重茂は思わず笑みをこぼしてしまった。
「おい。別にお前たちは俺の身を案じる立場ではないだろう」
「あっ」
言われてから気づいたらしい。
源長と源雲は、揃ってきまりの悪そうな顔を浮かべた。
もっとも、そんなに呑気なやり取りを続けていられるような状況ではない。
三人はすぐに敵方の兵に囲まれてしまった。
源長たちは力自慢だが、どうも性格に臆病なところがある。
殺し合いが向いているとは、とても思えなかった。
今も、武器を構える敵に対して及び腰になっている。
「おい」
見かねて、重茂は声を上げた。
「無様を晒して恥ずかしい限りだが、俺は高大和権守だ。引付頭人をやっている。塩冶高貞によって虜囚となっていた。そなたたちはどこの家中の者だ」
そのときになってようやく、相手は縛り付けられて運ばれている重茂に気づいたらしい。
急に声を上げた重茂に、疑わしげな眼差しを向けてくる。
「ほう、重茂殿とな」
しばらく睨み合いが続くなか、話を聞きつけて来たのか一人の男が姿を見せた。
山名時氏の弟・兼義である。
「おお、知った顔だ。確かに重茂殿である」
「ありがたい。俺は兄上と違って影が薄いからな。忘れられていたらどうしようかと思っていたところだ」
「俺は兄上ほど頭は良くないが、人の顔を覚えるのはそれなりに得意なのだ」
兼義ときちんと話したことはないが、どことなく親しみを感じる。
もしかすると、重茂と似たところが多いのかもしれない。
「それに、師直殿からも言われていたからな」
「兄上から?」
「うむ。弟が捕らわれているかもしれぬ、あれを失うのは足利にとって痛手ゆえ、生きているようなら連れ帰って欲しいと」
意外だった。
師直であれば、重茂が捕まったのは自己責任だと割り切りそうな気がしていた。
まさか、他人に助けてやってくれとなどと言うとは思っていなかった。
「そういうことであれば、一旦世話になりたいと思う」
「うむ、その者たちはどうしようか」
兼義が、重茂を担いだままの源長・源雲に視線を向ける。
二人は目に見えて怯えた表情を浮かべていた。
「この二人は塩冶の一党ではない。故あって、捕らわれた俺の世話をしていたのだ。敵といえば敵だが世話にもなった。すまぬが逃がしてやってくれないか」
「ちなみに、どういう素性かは分かるか」
「吉野についている野盗の下っ端だ。元は延暦寺ゆかりの者らしいが、まあ大した者ではあるまいよ」
兼義は慎重に源長たちの様子を見ていたが、やがて重茂の言葉通りだと判断したのか、小さく頷いてみせた。
「今すぐ逃げると間違って討ち取ってしまうかもしれぬ。もう少し状況が落ち着いてから逃げると良い」
兼義の言葉に、源長たちは安堵の域をもらし、その場にへたり込んでしまった。
こんな調子で良忠の下に戻って大丈夫なのか。他人事ながら、そんな心配が出てしまいそうになる。
兼義たちの手によって縄が解かれ、重茂は久々に解放された。
もっとも、解放感はない。全身はボロボロだし、まともな休息も取っていない。意識も朦朧としている。
ただ、それでも確認しておかなければならないことがあった。
「兼義殿。塩冶殿は」
「……先ほど、討ち取られたと聞いている。最後まで握りしめた刀を手放さなかったそうだ」
足利を内部から切り崩そうとする近衛経忠の一計は、これで潰えたということだろう。
まだまだやらねばならないことは多いが、一番重要な局面は乗り切ったと言って良い。
安堵すべき状況のはずだった。
しかし、重茂の中にはなんとも言い難い恐怖がこびりついている。
「塩冶殿は、おそらく少し迷っただけなのだ」
そこに声をかける者がいた。
その不審に気づく者がいて、動き出した者たちがいた。
結果、塩冶高貞は動かざるを得なくなった。
彼自身は、取り立てて強い野心があったわけでもない。
噛み合わない点はあったかもしれないが――そんなものは誰にだってある。
「塩冶殿の辿った道は、明日我らが通る道かもしれぬ。そう考えると、どうにも空恐ろしい」
兼義は、ただ黙って頷いてみせた。





