第179話「塩冶高貞の乱(捌)」
重茂と塩冶高貞が何者かに連れ去られた。
薬師寺公義からその報告を受けて、師直は塩冶邸に急行した。
塩冶高貞の近辺がきな臭いことになっていることは分かっていたが、このような展開になるのは予想外である。
「状況は?」
駆けつけた師直を出迎えたのは、難しい表情を浮かべた薬師寺公義と高貞の内儀――早苗だった。
「先ほど、二通目が届きました」
「見せてくれ」
公義から受け取った書状に、師直は素早く目を通す。
そこには、血文字で北陸遠征を中止すべしと書かれていた。
「新田勢を攻めるために集めた軍勢をただちに解散しろと書かれている。それが確認できたら塩冶判官を解放するそうだ」
「また無茶な要求をしてきますな」
「それとは別に、暦応寺建立の件にもケチをつけてきている。なんだかんだと計画が再び動き出している、それを即刻停止すべしとあるな。こちらは弥五郎の解放条件になっている」
どちらも無茶苦茶な話である。
少なくとも、塩冶高貞や重茂の命と釣り合いの取れる話ではない。
「どうされますか、この要求」
公義の口調からは、この要求に対して呆れているのが見え隠れしている。
早苗がいる手前直接は言わないものの、こんな話聞く必要はない、と言いたそうだった。
「少し考える」
要求を呑むのはありえない。
だからといって、二人の解放を諦めるわけにもいかない。
まずは相手のことを把握する必要があった。
要求の一つに暦応寺建立の件を挙げている辺り、少なくとも夢窓疎石の関係者は除外して良いだろう。
この要求が万一通ってしまったら大損害を被ることになる。ブラフだとしても、こんなことは言ってこないはずだ。
夢窓疎石と対立している者――特に顕密に縁のある者という可能性が濃厚だろう。
無論、夢窓疎石との関係が良くない禅律関係者という可能性もある。
夢窓疎石は当代随一の禅僧だが、禅律すべてを味方につけているわけではない。
今のところ、一番疑わしいのは延暦寺だった。
すぐ近くに本拠地があるし、比叡山の中なら人質を隠しておく場所には困らない。
足利や高一族との関係もあまり良いとは言えなかった。
近年は改善傾向にあったが、佐々木父子を巡る強訴で再び微妙な空気になりつつある。
「――妙法院だ。妙法院に行って、不審な点がないか動向を探ってこい」
妙法院が疑わしいという確証はない。ただ、何か引っかかるものを感じた。言ってしまえば直感である。
ただ、こういう直感を軽視すべきではない。
連れて来ていた郎党にそう命じると、師直は推測を再開した。
もう一つの要求、北陸攻め中断の件である。
こんなものを突きつけてくる以上、相手が吉野方に通じていることは疑いようがない。
先ほどの推察も踏まえて考えるなら、叡山の中の吉野派、というのが一番ありえそうな犯人像である。
ただ、この要求について師直はまず気になっていることがあった。
塩冶高貞の立ち位置である。
師秀たちや公義の報告を聞く限り、塩冶高貞には吉野と通じている疑いがある。
そんな彼が、吉野派と思しき者たちに人質として捕らわれるのだろうか。
その点に、師直は拭い難い違和感を持っていた。
仮に塩冶高貞が人質の振りをした共犯者だった場合、北陸攻め中断は別の見方が可能となる。
そもそも、こんな条件で中断したところで一時の時間稼ぎにしかならない。
時間稼ぎをしている間に北陸の情勢が変わるならそれも有効だろうが、師直が見る限りそんな兆しは見えなかった。
懸念しているのは各地の吉野方が連携して一斉蜂起することくらいだが、それを成功させたいならむしろ軍勢は解散させず京に集中させておいた方が良い。
その方が各地での蜂起は成功しやすくなるし、京に集まっている足利方を包囲して叩けば一気に情勢を変えることが出来る。
軍勢を解散させて各地に散らせば、かえって各地での蜂起はやりにくくなるだろう。
ならば、何を望んで解散要求を突きつけてきたのか。
塩冶高貞が吉野方だったと仮定するなら、一旦自身の手勢を出雲に戻す、という可能性が浮かび上がってくる。
今、塩冶高貞は自身の勢力の大半を本国に残している。
京にいる手勢は重要人物が揃っているのだろうが、数としては非常に少ない。
吉野方として動きを起こしたいと考えているなら、大変やりにくい状態のはずだった。
仮にこの解散要求を通すなら、北陸攻めの将として指名された塩冶高貞の手勢も解散対象に含まれる。
当然、出雲へと戻すことになるだろう。そこに高貞が合流すれば、吉野方として決起するための状況が整うことになる。
ここまでのことは、あくまで師直の推測である。
しかし、そんなことはなかろうと楽観視して放棄できるものではなかった。
「奥方、一つ聞きたい」
「なんでしょう」
「数日前、付近で倒れていた男がこの屋敷に運び込まれたはずだ。その男は今どうしている?」
早苗の表情が僅かに強張った。
こういう顔に、師直は見覚えがある。どう答えるのが一番良いかを考えている顔だった。腹の探り合いをする者の顔である。
少なくとも、早苗は何も知らされていない哀れな女性ではない。
何かしらの情報を彼女から引き出す。今はそれが必要だった。
「……確かに高貞殿が命じているのは見ました。ただ、詳しくは伺っておりません」
「現在その男がどこにいるかも分からぬか」
「はい、分かりかねます」
「その男は不審な点があり、少し前に我らが一度捕らえた者だ。故あって解放することになったが、疑いが晴れたわけではない。もしかすると、此度高貞殿を連れ去った者たちと繋がりがあるかもしれぬ」
ここまで言えば、早苗に男を庇う理由はなくなる。
知らないで通すならそれで良い。屋敷の中を自由に動き回るための理由ができる。何か手掛かりがないか探せば良い。
早苗は思索を巡らせているようだったが、良い答えが出なかったのだろう。
険しい表情を浮かべたまま頭を振った。
「やはり分かりません。ただ、この邸宅を探すということでしたらお止めしません」
「……いや、無断で探すというのも気が引ける。案内してもらおうか」
師直は、あえて早苗の手を掴んで引っ張るように歩き出した。
早苗は僅かに抵抗しかけたが、すぐに観念したらしい。ここは素直に従う方が良いと考えたのだろう。
無論、彼女の手を引く必要などはない。ただ、どこかでこの様子を見ている者がいるはずだった。
早苗の様子は高貞にも伝わるだろう。彼が実際のところどちら側なのかは分からないが、この様子が伝われば動揺を誘えるかもしれない。とにかく、できることはすべてやる必要があった。
口の中には血の味が広がっている。
舌を噛み切ろうとしたせいである。今は猿轡によって塞がれているから、噛み切ろうにも噛み切れない。
重茂が今いるのは、どこかの小屋の中だった。
梁からぶら下げられており、全身あちこちが傷だらけになっている。
せっかく捕らえたのだから足利方に関する情報を吐かせようと、良忠が取り巻きに拷問させたのだ。
何度も打ち据えられてあちこち皮が剥げそうになっているし、重点的に責められた手足の指は感覚がなかった。
当たり前だが、無茶苦茶痛い。危うく醜態を晒しそうになった場面は何度もあった。
重茂がどうにか持ちこたえられたのは、足利の執事・高師直の実弟としての意地があるからだった。
情けない姿を敵方に晒せるものかという、その一念によって耐え抜いている。
幸い、現時点で相手はこちらを殺すつもりはないようだった。
もっと苛烈なやり方もあるだろうが、命の危険を伴うような方法は避けようとしている節がある。
「全然折れませんよ、こいつ」
様子を見に来た良忠に、取り巻きが愚痴をこぼした。
何度も「やめて欲しければ吐け、吐くつもりがあるならすぐに頷け」と言われたが、重茂は一向に首を動かさなかった。
そのせいか、取り巻きも疲弊し始めていた。こういうのは、やる側も決して楽ではない。
「これ以上はさすがにまずいか。仕方ない、お前らはもう休んでて良いぞ」
やっと終わったと言いたそうな顔で出ていく取り巻きを見送ると、良忠は大きく息を吐いた。
「さっき見張りから連絡があった。武蔵守が塩冶邸に来たそうだ。おそらく今後どうするか、あいつがまず決めるんだろう。なにやら塩冶の旦那の奥方に言い寄ってただなんだと言われてたが」
良忠は、心なしか苛立たしげに吐き捨てた。
「既に塩冶の旦那の屋敷が押さえられていたから、実質的には人質交換みたいなもんだ。俺としては、塩冶の旦那の手勢全部を手に入れつつお前を始末できる、というのが一番なんだが……相手が相手だ。こっちの思惑や状況なんかは、もうある程度読まれていると見て良いだろう」
ここからは読み合い勝負だ。
良忠は誰にともなく、そう一人呟いた。





