第178話「塩冶高貞の乱(漆)」
単身ながら凄まじい圧を見せ始めた重茂に、良忠の取り巻きは怯みそうになった。
さしたる武功もない事務方の武士。郎党も既に始末したし、恐れるようなことなど何もない。
そう思っていた矢先のこれである。片腕が十分に機能しないと重茂は言っていたが、それを苦とする様子は見えなかった。
「落ち着け。思ったよりやるようだが、結局あいつは一人だ。下手に近づかなきゃ、恐れるような相手じゃねえ」
驚異的な膂力だが、それ以外に特筆すべき点は見当たらない。
ここまで重茂が怒ると思っていなかったので、予想外の展開に呑まれそうになったが、冷静に対処すればどうにかなる。
重茂に流れを持っていかれないよう、良忠は檄を入れた。
良忠自身、重茂の思わぬ勢いに恐怖を感じてはいた。
余計な一言で妙なスイッチを入れてしまったらしいと、後悔の念が浮かんでいる。
しかし、良忠には「それはそれ」と割り切る強かさがあった。
「投げもの、用意」
刀を手に接近してくる重茂を見据えながら、良忠は不敵な笑みを浮かべて指示を出す。
余裕があるわけではない。ただ、上に立つ者は失敗したとき、危険なときこそ笑うべきだという信条があった。
良忠がいつも通り笑っているのを見て、取り巻きは皆冷静さを取り戻したらしい。
彼の指示に素早く反応し、腰からぶら下げていた袋から石を取り出した。
取り巻きには、常に複数所持しておけと命じている。
石は、どんな場面でも使える有効な投擲武器だからである。
「撃てっ!」
迫りくる重茂から目を離さず、良忠は高らかに命じた。
その瞬間、いくつもの石が重茂目掛けて投げつけられる。
鎧を着こんでいるならともかく、今の重茂は直垂姿である。
まともに直撃すれば、大怪我間違いなしだった。
頭に血が上っているとは言え、完全に我を失っているわけではなかったらしい。
重茂はすかさず身を伏せて転がり、投げ放たれた数多の石を避けてみせた。
しかし、そこで終わりではない。すぐさま、取り巻きは第二の石を投げつけた。
石を一発投げて終わり、などというケースは滅多にない。外してしまうことも十分にあり得る。だからこそ、常に複数所持させている。
投石第二波は、重茂が避ける動きを見せたこともあって、第一波より照準がぶれて広範囲に投げられた。
当たったときのダメージは軽くなるが、その分避けにくくなる。
重茂も今度は避けきれず、頭や身体にいくつかの石が激突した。
たかが石。されど石である。
矢のようにその身を抉るようなことはないが、打撃によるダメージは決して軽くない。
呻きをあげて、重茂はわずかに動きを止めた。
その隙を逃す良忠ではない。確実に仕留めるべく、手にした刀を重茂めがけて振り下ろそうとした。
しかし、次の瞬間重茂は殴りつけられて地面に突っ伏していた。
後頭部を勢いよく殴られたからか、完全に気を失ってしまったらしい。
殴りつけたのは、塩冶高貞だった。
青ざめた表情で気絶した重茂を見下ろす高貞を見て、良忠はすぐに理解した。
彼は、吉野方を選んだのだ。
「旦那、よくやった。ちょっと待ってな」
高貞が覚悟を決めたのは良いが、今はまず重茂を殺すことを優先しなければならない。
恐るべき強記の持ち主である。このまま生き続けられていては、工作活動等がやりにくくて仕方がない。ここで確実に殺しておく必要があった。
良忠は二条家出身かつ僧籍にいた身だが、血に対する忌避感は薄かった。
元からそうだったから、自分では、これは生まれ持った性質なのだろうと思うようにしている。
取り巻きに任せるようなことはせず、彼は気を失った重茂の背中を踏みつけて、その首元に刀を伸ばした。
「待たれよ」
静止の声を上げたのは高貞だった。
「その者は殺すな。まだ生かしておいた方が良い」
「駄目だ、殺した方が良い。こいつは生かしておいてはまずい奴だ」
高貞の予期せぬ意見に、良忠もやや言葉が強くなる。
しかし、高貞も複数の国の守護を務める武士である。それくらいで怯む様子は見せなかった。
「殺すなら後にしろ。人質が要る」
「人質?」
「この先のことを考えるのだ。俺が単身ここから脱出したとして、出雲まで逃げられるか分からぬ」
「出雲までこいつを連れて行くのか」
「京を脱出するなら、俺の身内と手勢が最低限必要だ。合流するまで、何かしら保証が欲しい」
身内など放っておけば良いではないか。
そんな言葉が口から出そうになったが、かろうじて良忠は踏みとどまった。
ここで高貞の機嫌を損ねても面倒なことになる。
せっかく吉野につく気になったのだから、あまりその気分を害するのも良くない。
「解放はしない。もう良いと判断したら殺す。それで構わないか」
「ああ、それで良い。別に重茂殿を助けようとああだこうだ言っているわけではない」
良忠の懸念を見抜いていたのか、高貞が刺すように言ってきた。
どこか優柔不断な印象を持っていたが、気の弱いお人好しというわけではないらしい。
こいつはこいつで油断のならぬ男だ。
高貞への認識をそう改めて、良忠は取り巻きに重茂の身体を縛り上げるよう命じた。
塩冶高貞の姿がなかなか見つからない。
薬師寺公義の口から、思わずため息が漏れた。
京も広いし、そう簡単に人が見つかるとは思っていなかった。
ただ、郎党に手分けしてこれだけ探させても見つからないのは想定外である。
「一度戻られますか」
塩冶高貞の妻――早苗に問いかける。
彼女は同行こそしていたが、ずっと無言だった。
何を考えているのか、公義は今一つ読めていない。
既に陽は落ちている。このまま捜索しても見つかるとは思えなかった。
気になる点はあるが、大人しく明日出直した方が良いという気がする。
「……そうですね。このまま探し続けても見つけられない気がします」
早苗は大人しく頷いてみせた。
もしかしたら反対されるのではないかとも思ったが、さすがに夜の京で人一人を探すのは難しいと分かっていたらしい。
一行は、大人しく塩冶邸まで戻ることになった。
「御方様」
塩冶邸の従者が血相を変えて駆け寄って来たのは、一行が塩冶邸に近づいたときのことである。
門前でこちらの姿に気づいたのだろう。書状らしきものを手に、不安そうな表情を浮かべている。
「どうしたのです」
「これが、こんなものが矢文として打ち込まれてきまして」
従者から渡された書状を目にした早苗は、さっと顔色を変えた。
「どうされた」
「……これを」
書状を手にして最初に感じたのは、書かれている内容ではなく臭いだった。
血の臭いがする。よく見ると、記されている文字はすべて血で書かれているようだった。
『塩冶判官と高大和権守の身柄は預かった。両者の解放を望むのであれば、次の矢文の指示に従うべし』
書状には、そう書かれていた。
「薬師寺殿。これは……」
「真偽は何とも言い難いが、ちょうど二人が見つからない折にこのようなものが届くのは、あまりに出来過ぎている」
特に接点のなさそうな二人がなぜ狙われたのか、腑に落ちないところもある。
しかし、現に二人の行方は今のところ分からなくなっている。連れ去られたことを否定するのは、今の時点では難しい。
守護職・引付頭人という要職に就いている二人が揃って誘拐されるのは、かなりの一大事である。
真偽はともかく、このまま自分一人の手で対処するには重過ぎる話だった。
「一旦武蔵守殿の邸宅に向かうことにしよう。さすがにこれは、指示を仰がねば動けぬ」





