第173話「塩冶高貞の乱(弐)」
「不在」
重茂は、塩冶邸の前で伝えられた事実を復唱した。
「はい。高貞殿は先ほど外出されました」
応対しているのは、高貞の妻――早苗である。
話を聞くと、つい先ほど「急用ができた」というだけ言い残して、行先も告げずに出て行ってしまったらしい。
さすがに妻女を置いて一人出雲に逃げ出すとは考えにくい。
おそらく市中もしくは京近郊のどこかに行ったのだろう。
「いかがいたしましょう。お待ちになられますか」
「どれくらいで戻るかは聞いておられるか」
「いえ、特には」
重茂も暇なわけではない。いつ戻るか分からない高貞をここで待ち続けるのは、さすがに難しかった。
「何か言伝があれば、私からお伝えいたしますが」
「言伝か」
内容が内容なだけに、早苗に伝えて良いか悩ましい。むやみに広めるような話ではないのだ。
彼女が高貞の動向をどこまで把握しているかにもよるが、状況がややこしくなる可能性もある。
どうしても、慎重に考えざるを得なかった。
「――いや、大した内容ではないのだ。たまたま通りがかったゆえ少し話そうと思っただけでな」
やや硬い話し方になってしまったが、そう口にするのが精一杯だった。
「そうでしたか。では、お越しになられたということだけお伝えしておきたいと思います」
「うむ。ああ、それともし可能なら近いうちに一度話したいと伝えておいてくれ。使いを寄越してくれれば、予定は合わせる」
早苗の目が若干細くなる。
何か怪しまれたかと思ったが、彼女は特に追求することなく「承知いたしました」とだけ応えた。
もう一言、自分は味方だ、と言っておこうかとも考えたが、結局重茂は口にしなかった。
明らかに不自然な一言である。早苗に勘繰られてはまずい。
「では、失礼する」
不自然にならないよう、なんでもないかのような足取りで塩冶邸から出る。
思わずため息が漏れた。まさかこの状況で外出しているとは思っていなかったのだ。
「少し探すべきだろうか」
そうぼやきながら馬に乗る。
雲行きがやや怪しくなってきたような、なんとも嫌な感覚があった。
その頃、高貞はとある寺院に姿を見せていた。
人気のない裏口から、こっそりと足音を消して入り込む。
そこまでコソコソとする必要はないのかもしれない。
ただ、いつどこで誰が聞き耳を立てているか分からない。
そんな警戒心が、高貞の中で大きくなっていた。
「よくぞ参った」
本堂に辿り着いた高貞を待っていたのは、この寺院――妙法院の住持だった。
光厳院の実弟であるこの住持とは、例の歌会含めて何度か会ったことがある。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
兼好法師から届けられた書状の差出人は、この住持である。
急ぎ伝えたいことがあるので、誰にも言わず妙法院まで来て欲しいと書かれていたのだ。
普段から親しくしているわけではない。
今の状況で呼び出してくるとなると、きな臭い話に違いなかった。
「そなたも分かっているだろうが、そながた吉野に通じていることは足利方に気づかれている」
「……あなたにも、お伝えしたことはなかったと思いますが」
「経忠卿とそなたがなにやら気脈を通じているのは察していた。おそらく公賢卿なども気づいているだろう」
なんでもないことのように言う。
京の上流階級を生きる人々にとって、僅かな違和感から物事を感じ取るのは日常茶飯事なのだろう。
高貞が裏で何かしていることなど、彼らにとっては自明のことだったのかもしれない。
「特に、高一族には気をつけた方が良い。うちの僧兵から報告があった。そなたの邸宅の周囲を妙な者が監視していると」
「それが、高一族の手の者だと?」
「断定まではできないが、尾行したところ武蔵守の屋敷に入るのを見たという」
胃が締め付けられるような感覚に襲われる。
武蔵守――師直は足利本家の中枢にいる人物である。
尊氏・直義両名の執事として辣腕を振るっており、楠木・北畠等、足利に仇なす者たちを次々と打ち倒してきた。
吉野方に寝返ろうという状況で、特に目をつけられたくない人物である。
「高一族は神仏を平気で敵に回す恐れ知らずの者たちだ。武蔵守の弟は比叡山に攻め込む蛮行に及び、武蔵守本人は八幡宮寺を焼き払うという大罪を犯した。弟の方は仏罰を受けて世を去ったが、当人は今も現世を謳歌している。あのような者たちに目をつけられればどうなるか分からぬ。逃げるなら、早いうちに逃げた方が良かろう」
「ご厚意で仰っているのだと思いますが、そのようなことを口にしてよろしいのですか」
「構わぬ。我ら延暦寺は吉野でも足利でもないのだ。どう振る舞おうと責められる筋合いはない。むしろ、近頃禅律を贔屓している院や足利には思うところがいろいろとある」
現在も、延暦寺は妙法院焼き討ちを決行した佐々木道誉・秀綱の処遇について、強訴という形で院や足利に不満を表明している。
ただ、その淵源にあるのは禅律への対立感情にあるらしい。端的に言ってしまうと、暦応寺建立の件が尾を引いているのだろう。
暦応寺は、一旦建立事業が白紙になったものの、いつの間にか再び動き始めていた。
夢窓疎石という分かりやすい旗頭は裏方に回り、顕密側の批判をのらりくらりと避けながら、今も少しずつ事業を進めている。
それが顕密からすると面白くないのだろう。近頃の強訴が熱を帯びているのは、そういう流れに対する怒りも含まれているに違いない。
「あまりに顕密を軽視されるのであれば、我らは内々で吉野に協力することもやぶさかではない。そなたにこうして忠告しているのがその証拠だ」
「いきすぎれば、院と敵対しているとみなされます」
「兄弟とはいえそこまで情はないゆえ、敵対することになろうと後悔などはない。あちらも、私に対する肉親の情などあるまい」
住持の言葉からは、ためらいが感じられなかった。
兄弟としての情よりも、延暦寺の僧としての矜持の方が重いのだろう。
そういう感覚は武士にもあるものだ。十分に理解できる。
「私はそなたを惜しいと思っているのだ。足利方についた武士どもは、顕密よりも禅律を重んじる者が少なくない。だが、そなたは違う。古来よりこの国のため尽くしてきた顕密をないがしろにしない。同じ佐々木とはいえ、あの道誉などとはまるで違う。そんな者をあたら死なせたくはないのだ」
高貞としては、素直に喜び難いところのある言葉である。
道誉との付き合いは長い。仏教に対するスタンスの違いはあるし、そこは互いに相容れないものだと思っているが、第三者にとやかく言われたくはない。
もっとも、住持は道誉と高貞の間柄など知らないのだ。そこでいちいち苛立っても仕方がない。高貞は、黙って頷いた。
「かつて大塔宮の下で働いていた者たちを動かせる。逃げるのであれば手配するが、どうする」
大塔宮はかつて延暦寺のトップだった天台座主で、後醍醐の皇子として鎌倉幕府との戦いで尽力した人物である。
その後の政争で足利方に葬られたが、その人気は根強く、今もその残党と言うべき者たちがいるという。
「少し考えさせてください。逃げるとしても身一つで動くことはできません。明日、改めて参ります」
「あまり悠長にしていては気取られる。早めに決断することだ」
住持の忠告に頷いて、高貞は来たときと同じように裏口からこっそりと出た。
次の行動を早く決めなければならない。しかし、今一つ踏み出し切れないところがあった。
ここを誤れば、自分だけでなく一族郎党が身を滅ぼすことになる。
単純な恐怖もあるが、それ以上に責任感が重くのしかかっていた。
「――高貞殿?」
考え事をしながら歩いていると、不意に声をかけてくる者がいた。
焦りを顔に出さぬよう努めながら、高貞はゆっくりと面を上げる。
「……重茂殿」
そこには、馬上からこちらを見下ろしてくる大和権守重茂――武蔵守師直の弟の姿があった。





