第167話「近衛経忠の一手(拾)」
近衛経忠との会談を実現させたことで、洞院家は足利に対する約定を果たした。
それに応じる形で、捕らえられていた加賀入道が釈放される。
会談が終わり次第という手筈になっていたので、このあとすぐに解放されることになる。
今回の件についてはこれで決着とし、今後は一切蒸し返すようなことをしない。
そこが、両者の落としどころだった。
「当家の立ち位置は十分に分かったであろう。探りを入れるのはこれでしまいにするが良い」
会談後、重茂の前に姿を現した公賢は淡々と告げた。
洞院家は吉野方とも繋がっている。ただ、積極的に協力しているわけではないように見える。
光厳院に対する背信行為をしているのであれば、そもそもこのような形で会談の場を設けたりはしない。
徹頭徹尾しらばっくれていれば良かったのだ。加賀入道のことも、他にやりようはあっただろう。
あえて胸襟を開いて見せたのは、洞院家のスタンスを足利に対して明らかにするためだと思われる。
「積極的に吉野方に与することはしない。中立を維持しつつ、必要であれば両者の仲介を行う。そういう理解で良いでしょうか」
「良い。吉野方と連絡は取り合っているが、こちらの内情を無断で向こうに流すようなことはない。逆に、向こうの事情についてもこちらに回すことはしない。院も吉野も、その前提で当家とやり取りしている」
極めて危ういバランスの上で成り立っている、グレーな立ち位置。
一歩間違えば双方からの信頼を失いかねない、リスキーな道である。
それを、公賢は何でもないことのようにゆっくりと歩いている。
「難しい道を歩もうとされておられますな」
「別段当家に限った話ではない。生き残るため両朝に繋がりを作っているところなど、他にいくらでもある」
足利が気づいていないだけで、そういう例は少なくないのだろう。
「武家は所領と誇りのために戦うのだろうが、公家は違う。所領と家職――連綿と受け継がれている伝統のために戦っている。違いが分かるか」
「いえ、分かりませぬ」
「公家は、家が滅びれば受け継がれてきたものが未来永劫失われるのだ。ゆえに、家を存続させるため出来ることはなんでもする」
所領は所有者の家が滅びても、どこかの誰かが受け継いで再興する。
武士の誇りや武勇は、個人に帰するところが大きい。滅びたとしても、結果的に残ることすらある。
公家は、それぞれの家で伝わっているものがある。
それは職だったり技術だったりするが――共通して言えるのは、替えが効かないものだということだった。
過去を生きた家の人々が、懸命に維持・発展させてきたもの。それは、家の芯だった。
部分的に他家の人々に伝えることはあっても、本質を理解しているのはその家の者――正当な継承者だけである。
家が滅びれば、伝えられてきた結晶が散逸する。
外に伝えられた情報を元に再構築することもできなくはないが、それはもはや別物と言って良いであろう。
「武家からすれば、公家はなぜ偉そうなのかと疑問に思うところもあるであろう。その理由はいろいろあるが、私はその『受け継いでいるもの』の有無にあると考えている。他所の者には模倣しがたい唯一のものを持っている。それは未来に伝えていかなければならない。それを守り抜いているからこそ偉いのだ」
偉い、というとき公賢は少し自嘲気味に顔を歪ませていた。
どういう感情によるものかは分からない。ただ、家を背負うということの重さに何かを感じているのは間違いないだろう。
「家を残さねばならぬという使命。その点は我にも理解できる」
横から会話に入り込んできたのは邦省親王だった。
普段のような快活さに、少し陰りが生じているようにも見える。公賢が姿を見せた辺りから、少し様子が変わったようだった。
「両朝に通じておきながら我の元には久しく顔を見せぬ、というのは引っかかるところだがな」
どうも、両者の間には剣呑な空気が漂っている。
重茂がどういうことかと少し距離を取ると、堀川具親がこっそりと耳打ちしてきた。
「洞院家は、かつて殿下の後見役を務めていた。しかし、吉野院の御世になられてからまったく顔を見せなくなったのだ」
公賢は、邦省親王に先はないと見限ったのかもしれない。
邦省からしてみると、確かに面白くない話である。
「公賢。飾った言葉は要らぬ。そなたの目から見て、我はどのように映っている」
邦省の思い切った問いかけに、公賢はしばらく黙った。
なんとなく、公賢の中で既に結論は出ているようにも見える。ただ、言葉を選ぼうとしているような感じがした。
「皇位に就かれる可能性はほぼないと存じます。ただ、そう言ったところで諦めるような御方でもないでしょう。そう――そういう点においては、吉野院に近しいものを感じます」
後醍醐は、元々大覚寺統の嫡流・後二条――邦省の父の弟だった。
後二条が長命だったら、一度も皇位につくことなく生涯を終えていた可能性すらある。
様々な壁があったものの、天運と不屈の精神をもって一代の英傑にまで昇りつめた。
邦省親王の置かれている状況は厳しい。父や兄もなく、支持してくれる層もほとんどいない。
しかし、同じくらい厳しい境遇にあった後醍醐のことを考えると、望みがまったくないわけではない。
「もし殿下が皇位につかれそうでしたら、私は再び殿下の下に参りましょう」
「我がそれを受け入れなかったとしたら?」
「受け入れていただけると考えております」
公賢は涼しい顔で言ってのけた。
朝廷を切り盛りするためには、公賢の知見は必要不可欠なのだろう。
皇位につくほどの人であれば、それくらいは理解しているはずだ――公賢は言外にそう言っている。
無論、邦省親王もそれは分かっているのだろう。
滅多に見せることのない冷えた眼差しを向けつつも、公賢の言葉を否定することはしなかった。
「今日は帰る。大和権守、助けが必要なときはまたいつでも呼ぶが良い」
いつもと比べると幾分冷たい雰囲気を醸し出しつつ、邦省親王は静かに去っていく。
邦省の供をしている具親が、少しだけ申し訳なさそうに会釈をしたのが印象的だった。
常に快活で精力的な、ともすれば人間離れしているようにも見える邦省親王。
そんな彼の人間らしさを、垣間見たような気がした。
邦省主従を見送ってから、重茂も洞院邸を後にすることになった。
「大和権守」
門まで来たところで、後ろから公賢が声をかけてくる。
「私は中立の立場だ。吉野方の情報をそちらに渡すことはできん。ただ、それ以外のことであれば教えても良い。必要であればまた来るが良い」
「よろしいのですか。何気ないところから、探りを入れようとするかもしれませぬが」
「そなた如きに隙を見せるほど老いてはおらぬ」
それだけ言って、公賢は踵を返す。
ただ、その直前、かすかに表情に笑みが見えたような気がした。
洞院邸からの帰路、重茂は大規模な武士団を見かけた。
皆、少し恰好が汚れている。どことなく、遠方から遥々やって来たかのような印象を受けた。
よく見ると、その中に覚えのある顔があった。山名時氏・兼義の兄弟である。
建武・延元の乱の折、備中福山城などで共に戦って以来だった。
向こうはこちらに気づかなかったようで、悠々と道を進んでいってしまった。
以前から、吉野方の不穏な動きに対応するため、山名勢を上京させようという話が出ていた。
山陰地方の安定化のためなかなか動けないという話もあったが、ようやく一段落ついたらしい。
「山名勢が来たということは、道誉殿がいなくなっても十分吉野方に対応できるようになった、ということか」
聖恵の尽力もあって叡山との話もまとまりつつあるというし、そろそろ道誉父子の流罪を実行に移すときが近づいているのかもしれない。
近衛経忠の真意がまだ掴み切れていないのが不安だったが、いずれにしても近いうちに状況は動くことだろう。
「何事もないことを、祈りたいところだが――」
重茂の独白は、京の空に消えていく。
胸中には、何か嫌な予感が生まれつつあった。





