第165話「近衛経忠の一手(捌)」
重茂は今、洞院邸の一室で威儀を正しつつ座っていた。
それなりに修羅場をくぐってきたが、今回のような経験はなかったので、なかなか緊張が解けない。
五摂家の当主クラスの人間と一対一で会談する。それは、重茂のような出自の者からすると本来は起こり得ない話だった。
青野原での一大決戦のときより、今このときの方が緊張していると言っても良い。それくらいの出来事なのである。
近衛経忠はまだ来ていない。どうやら重茂の方が先に通されたらしい。
京に潜伏している経忠の動向が掴めないように、という配慮だろう。
おそらく会談終了後は経忠の方が先に帰されるはずだ。
不意に、大きく戸が開かれた。
完全に閉められていた部屋に風が入り込んできて、少しだけ涼しくなる。
「待たせたな、大和権守!」
入ってきたのは近衛経忠――ではなく、邦省親王だった。
側には僧形となった堀川具親の姿もある。
これからやって来る近衛経忠が本物かどうか見極めるため、足利から正式に依頼を出して来てもらったのだ。
「本日はご助力いただき、まことにありがとうございます」
「気にするな。もし助けが必要と感じたら声をかけてくれ、と言ったのは我の方だからな」
邦省親王はただ善意で動いているわけではない。
助力することで足利に接近し、いずれは皇位を掴もうという狙いを持っている。
そういう前提はあるが、それでも重茂からすれば頭が上がらない存在だった。
親王殿下と五摂家当主に挟まれるのは、国司の権官でしかない足利の家人である。
自分自身でも場違いとしか思えない。もう帰っていいですかと周囲に告げたい気分だった。
そのとき、誰かが歩いてくるような足音が聞こえてきた。
特別うるさいわけでもないが、静かというわけでもない。
自然体で歩いている。そんな印象を受ける足音だった。
やがてその足音は、隣室の中へと入っていく。一人分の人影が見えた。
「――近衛経忠である」
声が聞こえた途端、重茂は思わず頭を下げた。
対面しているわけではない。隣室から声がかけられただけ、ということは理解している。
それでも、五摂家の主から――人臣の頂点にいると言っても良い人からの声には、抗いがたいものがあった。
「大和権守殿」
いつの間にか、こちらの部屋に丹波守光綱がいた。
彼はいつも通りの落ち着いた様子で、軽くこちらに頭を下げてきた。
「礼を失する形式となってしまいまことに申し訳ございませんが、本日の会談はこの状態で実施させていただきます」
この状態というのは、部屋一つを隔てた状態で、ということだろう。
経忠と重茂の身分差を考えれば、ある程度距離を置いて会談が行われるのは自然なことだった。
しかし、隣室とこちらの部屋の間は開かれていない。これでは、経忠の顔が確認できなかった。
「大和権守。そなたは一度見たものは決して忘れぬという、大変な記憶力の持ち主と聞いている。それゆえ、私の方からこの形式を希望させてもらった。異存はあるまいな」
ないわけがないだろう。
そう言いたかったが、口に出すことはできなかった。
本来、このような場が設けられること自体が異例のことなのである。
重茂は文句を口に出せるような立場ではなかった。
「経忠卿。我はそちらの部屋に行って良いか」
「先日の歌会以来ですな、邦省殿下。ええ、勿論構いません」
邦省親王はスッと立ち上がると、一旦外に出てから隣室へと入っていった。
重茂からは、中の様子はほとんど見えない。二つの人影が向かい合っているのが、薄っすらと分かるのみだった。
やがてこちらの部屋に戻ってくると、邦省親王は重茂に向かって大きく頷いてみせた。
近衛経忠で間違いない、ということだろう。
顔を見ることが許されぬ形ではあるが、自分は今間違いなく近衛家のトップと向き合っている。
その事実が、重茂の胃をずしんと重くした。
「おそらく、足利としては私の動向が気になっているところだろう。まずはそちらから問うが良い。二つまでならば許そう」
近衛経忠が早速切り込んできた。
先手をこちらに譲るかのような口振りだが、話の主導権を手放すまいという意図を感じる。
二つ。そんなに悠長に考えている余裕はなかった。
敵対関係にあるとはいえ、高位の相手をあまり待たせることはできない。
「……近衛卿御自身がこの京まで来られた理由を、お聞かせいただけますか」
あまりに直球過ぎる問いかけは、答えてもらえない可能性が高い。
なので、経忠の狙いを推測するための材料を集めることを意識する。
それは、事前に師直と打ち合わせて決めていたことだった。
「誰かを遣わすことも出来たはずなのに、敵地とも言えるこの京まで近衛卿自らが直接来られている。それはなぜですか」
「端的に言うならば、吉野は京から遠すぎるからだ」
「遠い?」
「そうだ。京の社会は常に変化し続けている。吉野からでは対応しきれないことが多い。例えば、この洞院邸の主が京と吉野、どちらに傾きつつあるのか――そういう機微は、吉野からでは分からない」
京にいる人々の動向を確認しつつ、即時性を求められるような何かをしたいということなのだろう。
近いうちに何か大きなことが起きる。その予想は、おそらく間違っていない。
引き合いに出された洞院家の人間である光綱は、表情をピクリとも動かしていない。
公賢が現在どのような考えなのか、それも今一つ読めないところだった。本当に中立という立場なのか、まだ分からない。
「では、次に。先日妙法院の歌会に参加されていたとのことですが、その理由をお聞かせいただけますか」
京に来た理由は分かったが、それだけなら経忠自身が直接各所に顔を出す必要性はない。
あの歌会に参加したというのは、何か具体的な理由があるはずだった。それが、ずっと重茂の中で引っかかっている。
素直に答えるとは思っていないが、経忠の反応は見ておきたかった。
経忠はすぐには答えなかった。
こちらの意図を図りかねているのかもしれない。
少し、押してみた方が良さそうだった。
「当然ながら、あの歌会に集まった方々に会うのが目的だっただろうとは思っています。おそらく吉野方のためになるような話を、あの中のどなたかに通そうとしていたのだろう、と」
「より具体的な話を聞きたい、ということか」
「いいえ。私が知りたいのは、近衛卿が知己の前に顔を出した理由です」
あの場に集まった者は、吉野方と何かしらの縁がある者が多い。
しかし、その上でなお京に残っている人々でもある。経忠に味方する者ばかりとは限らない。
現に、邦省親王は近衛経忠が参加していたことを足利に伝えている。
「そのような場所に顔を出すのは、かなりの危険性を伴う行為かと存じます。最悪、密告によって御身が捕らえられる可能性もある。それでも近衛卿は顔を出した。その真意が知りたいのです」
重茂の問いに、経忠は「ほう」と興味深そうな声を上げた。
「大和権守。そなたはどのように考えている」
「御自身が在京していることを、京にいる多くの者に伝えようとしているように見えます」
「おかしな話だ。私は身を潜めている。それはそなたも認識しているであろう」
「はい。だからこそお聞きしたいのです。その矛盾を解消するために」
潜伏しつつ、絶妙に目立つような行動を取る。
経忠のような者が、ミスをしてこのようなことをするとは考えにくい。
そこには何かしらの意図が――目的があるはずだった。
「そうだな。私はある目的のため、あの歌会に参加した」
経忠はゆっくりと語った。
その話し方に重茂は意識を傾けた。不自然な点や動揺がないか、見極めなければならない。
「一つは参加した者たちと話をつけること。これは思わぬ乱入者のせいで失敗したが、そちらはさして重要ではない。重要なのは、本当に重要なのはもう一つの目的だ。こちらは既に果たされている」
経忠は淡々と話している。その口振りに、今のところ揺らぎのようなものは感じられない。
「果たされているとは、どういうことでしょうか」
「今のこのような状況を作ることが、私の目的だった。足利との接点を作り、秘密裡に会談を行う――という状況だ」
歌会に参加することで、経忠の存在は京の要人たちに知られることになる。
経忠を放置しておこうという者はいないだろう。皆、何かしらの動きを見せるはずだった。
その動きこそが、経忠の待ち望んでいたものなのだという。
「手荒な手段に訴えてくるようであれば身を隠し続けるのみだったが、公賢卿からそなたの人となりは聞いていた。話の通じる者だと見込んで、今日この場に足を運んだのだ。ひとまず、その期待は裏切られなかった」
「……分かりません。我らと話し合う場を設けたいということでしたら、なぜこのように回りくどいことを」
「吉野にも、私がそなたらと会談することを反対する者たちがいる。表立って動こうとすると、そういう者たちの邪魔が入るのだ」
経忠の言葉に少しだけ熱がこもる。
今のところ、嘘偽りを言っているようには見えない。
「近衛卿は、この会談を通して何をされようとしているのですか」
吉野の中にも反対意見が出るような目的。
それを、経忠は静かに告げた。
「――和平だ」
出てきたのは、予想していなかった言葉だった。
横でずっと話を聞いていた邦省親王や具親も、突然のことにやや呆然としている。
「和平、ですか」
「そうだ。いつまでもこの不毛な争いを続けるわけにはいかない。この争乱を終わらせる。それが上に立つ者たちの役割だと、この近衛経忠は考えている」
争乱を終わらせ、太平の世を取り戻す。
単純なきれいごとではない。長く続く争乱に、皆が疲弊してきている。
いい加減この長きに渡る戦いを終わらせなければならない。それは、為政者たちが皆意識している問題だった。
「大和権守よ、私と手を組め。足利と吉野の間で和平を結び――この戦いを終わらせるのだ」
こちらからは見えないはずなのに、重茂には自分に差し出された手が見えたような気がした。





