第164話「近衛経忠の一手(漆)」
重茂から事情を聞かされた公賢は、特に声を荒げるわけでもなく、いつもと変わらぬ様子だった。
とは言え、流石に急なことだったのだろう。
「これから本件にどう対処すべきかを考える。明日にでも使いの者をそちらに向かわせるゆえ、しばし待つが良い」
無駄を嫌う公賢も、話を聞いて即座に方針を決めることはできなかったらしい。
重茂としては、この状況に対する負い目もある。承知しましたと答えるしかなかった。
その日は、あまり眠れなかった。
加賀入道等への尋問はどうなっているのか。洞院家はどのように出てくるのか。
京での生活にも慣れてきた重茂だったが、自分自身がこういう問題に直面するのは初めてだった。
選択肢を誤れば、己の進退にも影響が出てくる。
さすがに首が飛ぶことはないと思いたいが、あまり楽観視する気にもなれない。
翌朝起きて加賀入道等の状況を確認したが、未だにどちらも口を割っていないとのことだった。
「もう一人の侍も、身分は分からないままか」
「ええ。かなりきつく吐かせようとしましたが、駄目ですね。あれは死ぬまで口を割らない類の男だと思います」
家人に尋問をさせていた重教が、辟易とした様子で所感を述べた。
締め上げられている方がきついのは当然だが、締め上げる側も疲弊する。
重茂は重教に少し休むよう申し付けると、師直のところに顔を出して今後の相談を始めた。
それから程なく、訪問者が来たことを家人が告げてきた。
通されたのは、洞院家にいた丹波守光綱である。
「武蔵守殿にはお初にお目にかかります。私、洞院家に仕えております丹波守光綱と申します」
「ご丁寧に痛み入ります。私は武蔵守師直と申します」
形式的な挨拶を終えると、光綱はすぐに切り出してきた。
「早速ですが、主から言伝を預かっております」
「お聞かせいただけますか」
では、と前置きして光綱が語った内容は、重茂・師直にとって想定外のものだった。
市中で問題を起こして加賀入道が捕らえられたとのことだが、それは方便で、実際は洞院家調査の過程で捕まったのだろう。
その男を捨て置くことも考えたが、それなりに使えるところもあるため、身柄を返してもらうことにした。
無論無条件で返せとは言わない。足利が望んでいるもの――近衛経忠の動向を知る機会を提供しよう。
それが、光綱から告げられた公賢の意向だった。
想像していたより、ずっと足利に譲歩した内容と言える。
「その機会というものについて、具体的な話をお聞かせいただきたい」
「洞院家にて、近衛経忠卿と会談できるよう取り計らいます」
「――」
事実上、公賢が近衛経忠と何らかの形で繋がりを持っているということを自白したようなものだった。
でなければ、このような提案はできないはずである。
「ただし、会談は経忠卿と足利方の一名のみ。いかなる武力行使も許可することはできません。また、当家への出入りは我々に一任させていただきます。会談の前後に不測の事態が起きれば、場を設けた当家の信用にかかわりますので」
会談中に経忠を捕らえたり、会談後に経忠を尾行するようなことは駄目ということだろう。
「当家は京にも吉野にも縁を持っており、我が主も出来る限り中立の立場を維持したいとお考えなのです。どちらの味方でもあり、どちらの味方でもありません」
「だからこそ、吉野のことであれこれと探りを入れられ、家人まで捕らえられるのは困る――ということですか」
師直の問いかけに、光綱は「その通りです」と頷いた。
吉野のこと、近衛経忠のことを知りたいなら、回りくどいことをせず本人から問い質すが良い――それが公賢の考えなのだろう。
「しかし良いのでしょうか。ご提案の内容は我らにとってありがたいものの、吉野からすれば迷惑千万に映るはず。中立の立場を維持したいということなら、あまり良い方針ではないようにも見えますが」
重茂の質問に対して、光綱はにっこりと微笑んだ。
「お気遣いは無用でございますよ、大和権守殿。既にこの件は経忠卿にも打診しております。そして、経忠卿はこれを『良い機会』とお考えのようでした」
「良い機会?」
「はい。つまり、此度の会談は経忠卿も望んでおられる、ということです」
近衛経忠の真意はまだ分からない。
経忠がこの会談を望んでいるというのも、どういう受け取り方をすれば良いのか、重茂は量りかねていた。
それも含めて、会談で聞き出すしかないのだろう。
「一つ、こちらからも条件を提示させていただきたい」
「なんでしょう、武蔵守殿」
「こちらは近衛経忠卿の顔を拝見したことがない。会談の場に来られているのが本当に経忠卿なのか確認する必要がある」
言い方は悪いが、経忠の偽物を公賢が用意している可能性もある。
足利と洞院家の間には、今のところ十分な信頼関係がない。
なんらかの形での保証が必要だった。
光綱は不快を示すようなこともなく、「ごもっともです」と頷いた。
「いかなる方法でご確認されるおつもりでしょうか」
「経忠卿の顔を知っている御方を立会人としたい。無論、誰を立会人とするかは予めご連絡いたします」
「足利の御方でなければ、中立といえる御方であれば問題ないかと存じます」
師直は「異存なし」と応えた。
足利内部に、近衛経忠の顔を知っている者などいない。必然的に外部の誰かを頼るしかなかった。
「それでは、立会人が決まり次第ご連絡ください。その後、日程を合わせて会談を行いましょう」
「それまで加賀入道はこちらでお預かりしてもよろしいか」
「構いません。私どもとしてはなるべく穏当な扱いを望みますが、判断はそちらに委ねます」
光綱が去った後、重茂は師直と膝を突き合わせて話し合った。
「立会人ですが、兄上はどなたに頼むつもりですか」
「頼みやすさでいうなら聖恵上人だが――弥五郎、お前、邦省親王にこの件を頼むことはできるか」
師直は意外な人物の名を持ち出してきた。
確かに、邦省親王は足利に友好的な姿勢を示しているし、妙法院の歌会で経忠のことに気づいていた。近衛経忠かどうかの真贋は見極められるだろう。ただ、それは聖恵にも同じことが言える。
親王という立場にある邦省は、本来足利がそこまで気楽に接することのできる相手ではない。
聖恵も似たような立場ではあるが、俗世から退いて半ば隠居状態にある。頼みやすいのは圧倒的に聖恵の方だろう。
「なぜ邦省親王に?」
「関係性を強化しておきたい。ついでに言えば、それを院にも認識させておきたい」
近頃の光厳院は、雑訴法を定めて所領問題の解消を図ったり、朝議を積極的に実施しようとしたり、とにかく意欲的に活動している。それ自体は結構なことだが、時折足利の想定していない動きを見せることもあった。
「このまま院が力をつけすぎれば、やがて武家の扱いは昔のようになりかねない」
すなわち、朝廷の――皇族や公家の走狗として使われる扱いということである。
「直義殿はとにかく朝廷との関係を強化しようというお考えのようだが、盲目的に院に従うばかりでは駄目だ。足利は足利で、その立場を強化していく必要がある」
「そのために、院とは別の皇統である邦省親王と関係を持っておきたい――ということですか」
場合によっては、足利は邦省親王側に乗り換えることもできる。
そういう可能性を院に対して示しておく、ということである。
「そうだ。場合によっては吉野との関係改善も考えて良いだろう。ただ愚直に朝廷に従って吉野を打倒すれば良い、という話ではない。足利が鎌倉将軍家を超える武家の棟梁にならねばならん」
どうやら兄は、自分などより遥かに広く物事を見ているようだった。
改めて師直の器量を感じながらも、重茂は「委細、承知いたしました」と頷いた。
「では、私の方から殿下に頼んでみます。その後に会談ということになりますが、兄上はいつなら空いていますか」
重茂としては、近衛経忠のような雲の上の存在と立ち会うのは、当然兄の師直だと考えていた。
しかし、重茂の問いかけに師直は答えない。
ただ、じっとこちらを見据えている。
なにやら、嫌な予感がした。
「今、足利に近衛経忠卿の顔を知る者はいない」
「はい」
「これは経忠卿という吉野の要人の顔を覚える、絶好の機会でもある」
「……ええ、まあ」
「ならば、一度見た顔を忘れぬ者の方が適任であろう」
嫌な予感は、もはや確信に変わりつつあった。
「経忠卿との会談に臨むのはお前だ、弥五郎」
目を伏せながら、師直は静かにそう言い放った。





