第160話「近衛経忠の一手(参)」
「重茂殿。私はあまり公家社会に詳しくないので、洞院公賢という方について教えていただけないでしょうか」
夢窓疎石の元を辞して洞院家に向かう道すがら、師秀が素直な問いかけを投げてきた。
京にいても公家社会と武家社会は、意識的に交わろうとしない限り、なかなか接点がない。
洞院公賢について師秀が知らないのも無理はなかった。
「洞院家というのは知っているか」
「いえ、少し聞いたことがあるくらいで。五摂家――ではないのですよね」
公家社会の中でも頂点に位置するのが、藤原氏の中でも屈指の勢力を誇る五つの摂関家、略して五摂家である。
洞院家の家格は五摂家に及ばない。
「武家社会に馴染みのあるところでいうと、西園寺家に近い」
同道していた上杉重季が答えた。
さすがに彼らは洞院家について知っているらしい。重茂は説明を任せてみることにした。
「西園寺家は朝廷と鎌倉を結ぶ関東申次として、家格は五摂家に及ばないものの、五摂家を凌駕するほどの勢力を誇った。もっとも先代の公宗殿が北条泰家と組んで吉野院の暗殺を目論んだことで、今や見る影もなくなったがな」
「弟の公重殿が密告したのですよね」
「よく知っているな。そうだ。もっとも、公重殿も生粋の吉野派というわけではなかったようだが。吉野には向かわず、京で院のご機嫌を窺っているようだ」
説明の仕方からすると、重季はどうやら西園寺公重のことが嫌いらしい。
話に出てくるたびに悪感情を向けられているので、重茂は一周回って妙な同情心が湧いてきた。
「そんな西園寺家の分家が洞院家だ。分家といっても家格にさほど差はない。帝の外祖父になったこともあるし、大臣職に任じられることも多い。武家にとってそこまで馴染みはないかもしれんが、有力な家の一つと言って良い」
「確か、当代の公賢殿も大臣になられたのですよね」
「そうだ。相当な博覧強記で有職故実に精通しているという。だからか、両統迭立の中にあって持明院統・大覚寺統どちらからも重用された」
「有職故実ねえ。それってそんな大事なのか?」
重教が首を傾げた。
有職故実とは、過去の先例に基づいたしきたりなどのことを指す。
武士にも無関係ではないが、そこまで馴染みがあるわけではない。
「ド阿呆、大事に決まっているだろうが。どういうときにどうすべきなのか、それが有職故実だ。お前は大方儀礼に関する作法とか、そういうところだけを想像したのだろうが、そんな小さい話ではない。朝廷における活動、そのすべてに通じる基礎。それが有職故実と言える。有職故実に通じているというのは、武士でいえば武芸の腕前が凄いとか兵法に通じているとか、そういうのとまったく同じ話なのだ」
重季が口を尖らせて重教に指を突きつける。
最後の例えでいろいろと腑に落ちたのか、師秀は「なるほど!」と手を叩いた。
「つまり、公賢殿は畠山重忠殿のような方ということですね!」
畠山重忠というのは、源頼朝と同時代に生きた鎌倉幕府創業時の武士である。
頼朝に従って平家と戦い、頼朝の死後も勢力を誇っていたが、最後は北条氏と戦って敗れ去った。
その武勇と生き様は坂東武者の鏡とされ、今に至るまで武士層には重忠のファンが多い。
洞院公賢は、そんな畠山重忠のようだという。
「……なぜ畠山重忠?」
「畠山氏は坂東においてそれなりの勢力を誇る家柄でしたし、重忠殿は坂東武者の誰もが認める強き武士でした。公賢殿は、重忠殿を公家にしたような方……ということではないのでしょうか」
合っているのかどうなのか、重茂と重季は揃って微妙な反応をするしかなかった。
公家、それも大臣職経験者を坂東武者に例えるというのがまず予想外である。
ある意味怖いもの知らずな発言だが、これが今の若い武士層の持つ感覚なのかもしれない。
「まあ、確かにそう捉えることもできなくはないが、本人の前では絶対に言うなよ」
「なぜです?」
「俺たちはともかく、普通の公家は坂東武者に例えられても喜ばん。むしろ侮辱と取る者もいる」
えぇっ、と師秀が不満そうな声を上げる。
もしかすると、師秀の中で畠山重忠は万人共通のヒーローなのかもしれない。
「まあ、凄いという意味では確かに重忠のような人かもしれないが、重忠のような人だと期待するのはやめた方が良い」
視界に、洞院家の邸宅が見えてきた。
門前に一人の侍が立っている。
単なる門番という雰囲気ではない。おそらく出迎えの者なのだろう。
重茂たちが近づくと、その侍は恭しくお辞儀をした。
「ようこそお出でくださいました。大和権守殿でございますね」
話し方も所作も、立ち振る舞いすべてが洗練されている。
主である公賢の影響によるものだろうか。その辺を歩いている武士とは、空気感が違って見えた。
「私、丹波守光綱と申します。皆さまを案内するよう、当家の主から承っております」
思わず、重茂は姿勢を正してしまった。
磨き上げられた礼法というのは、特殊な圧を生み出すものらしい。
その圧に、重茂は耐えかねた。
見ると、他の皆も同様のようだった。重教ですら恐縮した様子を見せている。
「どうぞ、こちらへ。我が主がお待ちです」
「ほう。そなたの弟は洞院家に出向いているのか」
二条邸の庭園。
葬儀を終えて人の気配が少なくなった中、良基は師直の話を聞いて目を細めた。
「近頃は吉野方の調略が盛んだと聞く。洞院家にもその手が伸びていた、ということか」
「いえ、まだ具体的な証拠が出たというわけではありませぬ。ただ、洞院家は」
「吉野との繋がりが多過ぎる、ということだな」
扇子で自らの手を軽く叩きながら、良基は師直の方に振り返った。
どこか、今の状況を楽しんでいるようにも見える。
「今の吉野を取り仕切っている代表者は何人かいるが、あちらの帝の母・阿野廉子はかの御仁の養女。吉野院からあちらの帝のことを任されていたという話もある。なぜ吉野に行かず京に残っているのかが不思議だ」
「今の院からの信頼も厚いとお聞きしております」
「知識は本物だからな。朝議にかかわる事柄に関する知見において、あの御仁に勝る者はそういないであろう」
良基の言い方には、そこはかとなく悪意があるような気もした。
気のせいかもしれないが、もしかすると公賢との間に何かあったのかもしれない。
振る話題を間違えたかと僅かに後悔したが、師直としては今更話を変えることもできない。
「そなたの弟――師泰だったか」
「師泰は兄でございます。弟は大和権守重茂と申します」
こういう訂正をするのは初めてではない。
足利が武家の代表格となり、その執事たる高一族の地位は大きく向上したが、公家社会においてはまだ馴染みがない。
一族の代表である師直のことは知られているが、他の者については無名に等しかった。
「重茂。その者は、聡いか?」
「武士の中では、比較的頭が回る方かと思います。武勇よりもそういうところで評価されています」
「そうか。であれば、まだ可能性はあるか」
良基は扇子で口元を隠しながら目を細める。
「かの御仁は愚か者を嫌う。無作法な輩も嫌う。内情を探るにしても、一度嫌われれば二度と相手にされないかもしれぬ」
師直はごくりとつばを飲み込んだ。
重茂は足利の者として出向いている。
もし彼がしくじれば、重茂だけではなく足利そのものが公賢に相手をされなくなるかもしれない。
軽く様子を見に行かせるだけのつもりだったが、洞院家に対しては、もう少し慎重に臨むべきだったのだろうか。
「大和権守重茂。さてはて、上手くいくのか否か――少しばかり気になってきたな」





