第139話「日向の地にて(玖)」
北条泰家の最期を確認したい。
そんな思いから出た重茂の問いかけに、工藤二郎は顔をしかめた。
彼からすれば、教える義理などない。
重茂と彼は敵対関係にある。予想外の事態に戦いの手を止めているが、本来悠長に語り合うような間柄ではなかった。
だが、そんな彼の視界に委渡の姿が映った。
彼女は何も口にしていない。ただ、実父の最期に関心があるのは誰の目にも明らかだった。
「……青野原の戦も収まりつつある頃、泰家殿は時行殿の元に戻られました。度重なる激戦で全身が傷だらけになっており、もう長くないということがすぐに分かりました。それほど激しい戦場だったのです」
重茂ではなく委渡に語り掛けるという体で、二郎は口を開いた。
青野原が過酷な戦場だったことは、重茂も身に染みて理解している。
治兵衛を失った。河越・高坂の当主も討死した。他にも数えきれない者が命を落とした。
重茂自身、一歩間違えば命を落としていただろう。生きて戻れたのは、半ば奇跡のようなものである。
「もはや目もほとんど見えていない様子でしたが、泰家殿は時行殿の元まで歩み寄り、そこで倒れました。最後に時行殿と何か言葉を交わされたようですが、どんなやり取りだったのかは聞こえませんでした。時行殿も、そのことは誰にも語ろうとしません」
それは、余人が立ち入れない領域の話なのだろう。
北条氏再興のため最後まで戦い抜いた男と、これからも戦い続ける男にしか許されない。そんなやり取りがあったに違いない。
話を聞きながらも、重茂は注意深く襲撃者たちの様子を見ていた。
相手は軽装備の武士の集団に見えた。
人数は、重茂の手勢と二郎の手勢を足した程度である。
そこまで大人数というわけではないが、もっと少数の重茂たちからすれば、十分脅威だった。
口元に布を巻きつけて、なるべく顔を出さないようにしている。
身元の手掛かりになりそうなものも見当たらなかった。正体を隠そうという明確な意志が感じ取れる。
じりじりと迫り来る相手に、二郎が死角から矢を射かけた。
一人が倒れる。しかし他の者たちは慌てることなく、二郎のいた辺りに反撃の矢を射込んできた。
その矢は、委渡の顔のすぐ側をかすめていった。
その場にいた全員が硬直する。しかし当の本人は俯いていたからか、自らの命の危機に気づいていないようだった。
「……父上は、どのような最期でしたか。私に、何か言っていましたか」
今はそれどころではない。周囲の大人は皆そう思っていたことだろう。
だが、委渡にとっては切実な問いかけなのかもしれない。
敵に集中しようとする二郎だったが、面を上げた委渡も視線を外さない。
二人が話しやすくなるよう、重茂も右手で転がっていた石を敵に投げつけた。
「委渡様に対する言葉は、ありませんでした。時行殿は何か聞いたのかもしれませんが、俺は聞いていません」
「……そうですか」
委渡の表情が沈む。
父にとって自分はなんだったのか――それを知るための答えはもうない。
そんな娘が不憫に思えたのか、二郎は「いや、ただ」と言葉を繋いだ。
「泰家殿は一度だけ話していました。自分が北条再興のため命を懸けることができているのは娘がいるからだと。自分が志半ばで命を落としたとしても、娘がいれば自分の生きた意味は失われない。だから遠慮なく動けるのだと」
その心情は、重茂も多少理解できる。
仮に自分の行動がすべて失敗したとしても、託せる相手がいればその生涯に意味を見出すことはできる。
重茂には成し遂げない宿願もなければ、後事を託したいと思うような相手もいない。
それでも泰家の心情を察することができるのは、戦場で本気の彼と戦ったからだろう。
もっとも、その辺りの機微を委渡はまだ理解できないようだった。
二郎の言葉の意味をどう受け取れば良いのかと、戸惑いを見せている。
「そなたの父は、そなたに生きていて欲しかったということだ」
敵に何度も石を投げつけながら、重茂は委渡に語り掛ける。
「あの男は常に強かった。自分の宿願にすべてを賭していたからだ。だが、普通の人間はそこまで自らの何もかもを夢のために投げ打つことはできない。大きな願いというのは遠いものだ。辿り着けないかも分からない。そんなものにすべてを懸けるというのは、かなり難しい」
見果てぬ夢は人を突き動かすが、いつまでも追い続けられるほど人間はタフではない。
遠い理想より身近な幸福の方を選んでしまう。それは恥ずべきことではなく、当たり前のことだった。
だが、恵清には――北条泰家にはそういうところがなかった。
「あの男は、身近な幸せに心を動かすことなく、北条再興という大願にすべてを懸けていた。おそらくそれは、そなたがいたからこそできたことなのだ」
「私が……?」
「あの男は既に身近な幸せを得ていたということだ。そなたや、おそらくそなたの母君によってな」
そして、それをすべて委渡に託した。
その上で、泰家は委渡に「生きろ」と告げたのだ。
「そなたの父は、宿願以外のすべてをそなたに預けたのだろう。だからこそ生きろと言ったのだ。何も期待していないのではない。適当にただ生きろと言ったのではない。そなたが言われた『生きろ』という言葉は、想像しているよりずっと重いものだ」
当て推量といえばそれまでだが、重茂は不思議とこの考えに確信を持っていた。
襲撃者たちとの距離が狭まっていく。
こちらには、もはや矢も石もない。あとは白兵戦を挑む以外になかった。
「これから俺たちは奴らに飛びかかる。その間に、そなたはどこか離れたところへ逃げよ。それくらいの時間は作る」
委渡の肩に手を置きながら、重茂は静かに告げた。
二郎も口を挟まない。こうなったら嫌でも何でも共に戦うしかない、ということが分かっているのだ。
「なぜですか」
重茂にとって、委渡は敵の子である。
そんな相手をなぜ命懸けで逃がそうとするのか、理解できないのだろう。
「なずな殿に頼まれたというのもある。だが、そうだな――そなたの父が良き敵だった、というのもあるかもしれぬ」
「良き敵……?」
「分からぬか。しかし参った。どうも、この感覚ばかりは説明できんな」
重茂は北条勢との――泰家との戦いで多くのものを失った。
葵。治兵衛。武士として十全に戦う力。この先の武功。多くの、共に戦った仲間たち。
しかし、泰家はそれに見合う敵だった。そんな男の最後の敵になれたことは、凡庸な武功百にも勝る。
そういう男の縁者の前で、みっともない姿を見せるわけにはいかない。
言ってしまえば、つまらぬ男の見栄というものである。
上手く説明することなど、できるはずがない。
腹に力を入れながら、敵との距離を慎重に見極めようとする。
相手は一歩ずつ近づいてくる。もはや、普通に語り掛けられるくらいのところまで来ていた。
そのとき、不意に甲高い音が鳴り響く。
襲撃者たちが、一斉に動き出した。
奇襲の初手は失敗したが、敵を囲い込むことには成功した。
あとは、包囲を狭めつつ相手を殲滅するだけ。すべて順調と言えるはずだった。
畠山直宗の元にその報告が届いたのは、まさに重茂暗殺の成功が見えてきたときだった。
相応の数の集団がこちらに迫っているという。
集団の中には騎馬武者も混じっている。武士団であることは間違いないとのことだった。
「どこの手の者だ」
「それが、畠山の旗を掲げておりまして」
直宗は顔を歪ませた。
暗殺決行のため旗などは掲げていないが、畠山は他ならぬ自分たちである。
他に畠山の手勢を動かせる人間といえば、この日向においては直顕しかいない。
「叔父上にこの件は告げておらぬ。鉢合わせするのはまずい」
重茂が邪魔という点で、直顕は直宗と同じ立場だった。
ただ、直宗が積極的に重茂を排除しようとするのに対し、直顕は消極的な姿勢を取っている。
結果的に重茂が死んでくれるならありがたいが、積極的に自分の手を汚そうとしない。
それは弱腰だと、直宗は内心不満を覚えていた。
「しかし、なぜ叔父上が今このときここに来るというのだ。くそ、あまりに間が悪い」
「いかがいたしましょう。力押しをすれば、敵を討つことはできると思いますが」
「愚かなことを申すな。一歩立ち回りを誤れば将来をふいにすることになる。あんな男一人のために、そこまでするか!」
直宗はそう毒づくと、すぐさま口笛を吹いた。
撤退の合図である。
入り江の中に踏み込んでいた配下は、その音を聞いて一斉に散り始めた。
直宗自身も、迫り来る直顕の手勢から離れるようにその場を後にする。
「くそ、なぜだ。叔父上も手の者を使って探りを入れていたのか。それとも、誰かが情報を流したのか」
腑に落ちないものを感じながら、直宗は駆け続けた。
襲撃者が撤退していった後も注意深く様子を窺っていた重茂たちの元に、義父上と呼びかける重教の声が聞こえてきた。
重教たちを先頭に、武士団が入り江に入り込んでくる。皆、畠山の旗を掲げていた。
直顕への援軍要請が成功したのだろう。「不穏分子がいるらしい」と説明して直顕の助力を得ろと、事前に言っておいたのだ。
「今度は、そちらの援軍か」
二郎は苦々しそうに表情を歪ませる。
さすがに畠山の手勢相手に逃げ切るのは無理があった。窮地としか言いようがないだろう。
最後の抵抗を試みるつもりなのか、二郎は刀に手をかけようとする。
「待て、工藤殿。逃げたければ逃げるが良い」
「なに?」
「先に俺が出て、敵は皆死んだと言えばこのまま引き上げるであろう。その後で日向を離れるなら、後はもう追わぬ」
工藤の動きを抑えるように、ゆっくりと静かな声で提案する。
「どういう風の吹き回しだ」
「礼だ。おぬしにそんなつもりはなかったのかもしれんが、あの男の最期を聞けて、俺の中でようやく終わった気がする。多くのものを失った、長く苦しい戦いが。……それに対する礼だ」
そして、重茂は委渡に視線を転じた。
「そなたも、好きな道を選ぶが良い。工藤殿と共に行くなら止めはせぬ。なずな殿には、良きように説明しておこう」
「……」
「決められぬか」
委渡は小さく頷いた。こんな状況では無理もないだろう。何もかもが急過ぎる。
「ならば、もっとも失いたくないものを思い浮かべよ。それを手放さずに済む方を選ぶが良い」
「……」
「すべきこと、成し遂げたいこと、他人から期待されていること、いろいろあるだろうが、今は一旦すべて忘れて良い。一番手放したくないものを手放さなければ、他のことはそのうちどうにかなる」
弟や妻、親代わりの郎党も失い、本来目指していたものへの道も断たれた。
それでも、失ったものに対して恥ずかしい生き方はしたくなかった。
成し遂げたいことがあるわけではない。誰に何を期待されているかも分からない。
それでも、みっともない生き方はしたくない。その一念だけは手放さないようにして、今一つの区切りをつけることができた。
自分ばかりが生き長らえて良かったのかと思うこともあったが、今なら「悪くない」と言える。
理不尽な境遇に振り回されている委渡も、いずれそういう風に良かったと思えるときが来るかもしれない。
「……私は」
委渡はゆっくりと顔を上げる。
その眼差しからは、先ほどまでの揺らぎが消えていた。





