第135話「日向の地にて(伍)」
子どもの姿が見えた辺りまで登ってきたところで、重茂は国富荘の風景を目にした。
実りの秋はとっくに過ぎているため、広がっている田畑はどこか元気がなさそうに見える。
「厳しいのはどこも同じか」
日向国は静謐な状態になった。
しかし、立て直しにはもうしばらくの時間がかかるだろう。
まずは戦乱を終わらせる。それを最優先で考えなければ、何事も進まない。
そんなことを考えながらしばらく歩いていると、山中にぽつんと建っている小屋を見つけた。
集落からはやや離れているが、行き来できないほど遠いわけでもない。
何か特別な用途で用いる場所なのだろうか。
ややきな臭いものを感じながらも、重茂は「もし」と声をかけて中の様子を窺った。
そこにいたのは、一人の女性だった。
体調が優れないのか臥せっている。ただ意識はあるようで、「はい」と重茂の声に応えた。
上半身を起こそうとする女性を、「無理はせずとも良い」と制止する。
女性は重茂たちの姿を認めると、僅かに表情を強張らせた。
領主である足利の家人だと伝えて名乗ってみたものの、その緊張は解かれない。
この人も北条の縁者なのかもしれない。
名乗っても特に反応がなかったことから、重茂の名も把握していた可能性がある。
「我々は所領の視察をしている。戦乱続きだったゆえ、実情を一度把握しておかねばらない、ということでな」
「それは、お勤め御苦労様でございます」
「そのため話を聞きながらこの辺りを歩いていたのだが、途中、山中に子どもの姿が見えたのだ。一人のようだったから危ないのではと思って足を運んだのだが、何か知らぬだろうか」
話を聞いている最中、女性の表情は険しさを増していった。
先ほどまでも緊張感はあったが、今はその比ではない。
「それは、おそらくうちの娘です。この辺りのことは十分把握している子なので、御心配には及びません」
あの子には関わるな。
そう言わんばかりの、強い口調だった。
「……そうか。心配無用ということであればそれで良い」
見たところ、小屋の中には生活に必要な最低限のものしか置いていないようだった。
田畑からも距離があるため、農耕をしているとも考えにくい。
もしかすると特殊な仕事をしているのかもしれないが、率直に言って、かなり苦しい生活をしているように見えた。
「邪魔でなければ、少し休ませてもらって良いか。ああ、何か所望したいわけではない。少し足を休めたいので、軒先だけ借りたいのだが」
「……はい、それでしたら」
断る理由が浮かばなかったのだろう。
渋々といった様子ながら、女性は重茂の頼みを聞き入れた。
郎党を休ませながら、重茂は入り口付近に腰を下ろした。
まだ警戒を解いていないのか、女性はじっとこちらを睨みつけている。
重茂はあえてそれに気づかぬふりをしながら、雑談を持ち掛けた。
「そなたは娘と二人暮らしなのか」
「ええ。本当は私が働かなければならないのですが、近頃は身体を壊してしまいましてね」
口には出さなかったが、生活の様子を見ると、それは満足にものを食べていないからではないか、という気がした。
女性はかなり痩せこけている。国富荘の他の人々も全体的に痩せ気味ではあったが、それと比べても女性の体躯は細かった。
今の生活を続けていけば、遠くないうちに命を落とすのではないか。
そう思ったが、重茂は口に出さなかった。
彼女が北条の縁者でこちらの素性を把握しているのであれば、何を言っても疑念を持たれてしまうだろう。
「……俺は、ここの前領主だった北条泰家と何度か戦場で戦った」
突然話題を変えた重茂に、女性は訝しげな眼差しを向けた。
「同じ相手と何度も戦うというのは、ありそうでいて意外と珍しい。元々何かしらの縁があったわけでもない。ただの偶然で、あの男とは何度も相まみえた。互いに手勢を討ち取り、討ち取られた。恨みがないと言えば嘘になるが、それとは別に、奇妙な縁も感じている。あれは良き武士だった」
これは、重茂の素直な心境でもあった。
北条勢によって葵が命を落としたことは、今も重茂の心に深い傷として残っている。
しかし、恵清――泰家に対する怨恨の情はない。互いに必死で戦った。敵としては申し分のない男だった。その点では敬意もある。
「足利の御方様は赤橋流の出身ゆえ、北条の生き残りのことを気にかけておられた。困っている者がいれば手を差し伸べたいと仰せであった。それを俺に言われても、というのが正直なところではあるが、その姿勢は良いものだとも思っている」
「私は、北条の縁者ではありません」
「そうであっても、そうでなくても、どちらでも構わぬ。ただ、そなたの知己に北条の縁者がいるなら、足利を頼っても構わぬと伝えておいてくれ。無論、足利に敵対する北条とは縁を切らねばならぬだろうから、無理にとは言えんがな」
登子が北条を保護しようとしているのは、単純に気にかけているというだけでなく、反足利の北条勢の力を削ごうという意図もあるのだろう。そんなことは一言も言っていなかったが、単純な慈善の精神だけでやっているはずはなかった。登子はそこまで平和ボケした女性ではない。
北条残党にとって足利を頼るというのは非常に難しい選択になる。
感情的に許し難いというだけではない。今までの同胞を敵に回しかねないのだ。
だからこそ、無理強いだけは絶対にしないと決めていた。
「邪魔をしたな。そろそろお暇させてもらう」
「はい」
滞在先を告げるときも頑なな表情を崩さなかった女性に一礼して、重茂はその場を去ろうとする。
そのとき、近くの木陰に一人の少女の姿が見えた。
興味深そうに、そして警戒するようにこちらをじっと見つめている。
先ほど麓の方で見かけた少女のようだった。
どことなく気まずさを覚えて、重茂は少女に気づかぬふりをしたまま歩き出した。
言うべきことは一通り言ったが、彼女たちが足利を頼ってくるようなことはないだろう。
最低限、やるべきことをやった。それで良いではないか。
そう自分自身に言い聞かせながら、重茂は重教たちとの合流地点に向かうのだった。
その日の晩。
日中に重茂たちが訪れた小屋で、女性は少女と二人、質素な食事を取っていた。
「なずな、大丈夫?」
少女の声で、なずなと呼ばれた女性は我に返った。
昼間のことで、少し物思いに耽っていたらしい。
「ええ、大丈夫ですよ。委渡様、気にかけてくださってありがとうございますね」
「ううん。……考えごと?」
委渡の問いかけに、なずなは息を呑んだ。
聡いところのある子だった。自分が何に悩んでいるのか、気づいているのかもしれない。
なずなの旦那は、青野原で泰家に従って戦死した。
昼間訪れた高重茂という男は、ある意味でなずなにとって仇と言える。
しかし、昼間重茂が言っていたように、それは戦場でのことだ。
なずなの旦那も、どこかの誰かを手にかけていたのかもしれない。
お互い様と言われれば、何も言い返すことはできないのだ。
委渡は主家――北条泰家から託された、彼の一人娘だった。
最初は義務感から預かっていたが、一緒に過ごしていくうちに情も湧いた。
自分の子ではないが、それに等しい愛情を持って接している。
だからこそ、自身の体調が悪化するばかりの現状に危機感を覚えている。
自分が意地を張って死ぬのは自業自得だから、それは良い。
しかし、その結果委渡が路頭に迷うのは駄目だった。
申し訳が立たないし、なによりなずな自身、委渡をそのような境遇にさせたくないという思いを持っている。
そういう意味で、重茂の提案はある種魅力的だった。
無論、そう簡単な話ではない。
「委渡様は、この先どうしたい、というのはありますか?」
「どう、って?」
質問が漠然としていて、委渡にはなずなが何を聞きたいのかが分からなかったらしい。
実際、なずな自身も何を聞きたいのか、まだ自分の中で答えがまとまっていなかった。
「御免」
そのとき、小屋の外から男の声がした。
昼間の男――重茂の声ではない。それとは別の声である。
このような時間にやって来る以上、普通の来客ではないのだろう。
なずなは委渡を自分の背に隠しながら、「どちら様でしょうか」と気丈な声をあげた。
「夜分遅くに申し訳ない。私は工藤二郎という。得宗家に仕えている者だ」
警戒させまいとしているのだろう。
工藤二郎と名乗った男は、中に入らず、小屋の入り口のところで立ち止まっていた。
鎌倉幕府滅亡後、得宗家は事実上瓦解している。しかし、その跡を継いで今も足利に抗っている者たちがいた。
それが、信濃を拠点にしている北条時行一派である。
得宗家に仕えているということは、この男はその一派に違いない。委渡の父・北条泰家も、その一派だった。
「突然のことで驚かれるかもしれぬが、私は泰家殿の御息女を迎えに来た」
「迎えに……それはどういうことです?」
泰家は委渡を戦火に巻き込むことを嫌って、なずなに預けたのである。
迎えに来るとすれば、それは北条の復興が果たされたときだと、そう言われていた。
しかし、現状復権が果たされたとは到底言い難い。
時行一派は今も活動を続けているが、信濃の片隅で足利にどうにか抵抗を続けているという状況だと聞いている。
工藤二郎が本当に得宗の者だとして、その来訪には何か嫌なものを感じた。
「泰家殿は時行殿を側でよく支えておられた。若く経験も浅い時行殿だけでは、かつての得宗家の一党をまとめることができなかった。まとめられていたのは、泰家殿の御力があってのことだった」
「……まさか、泰家殿の務めていた役割を委渡様に背負わせようというつもりですか?」
他に、委渡を連れて行こうという理由が見当たらない。
「さすがに泰家殿ほどの重荷を背負ってもらおうという考えはない。だが、今は得宗家の結束力を強めるための象徴が必要なのだ。時行殿だけではない。得宗家の血筋を引くもう一人の象徴が」
工藤二郎の声には熱がこもっていた。
それだけ、信濃の情勢は思わしくないのかもしれない。
北条時行は吉野方について足利と戦う道を選んだ。
しかし、楠木正成・新田義貞・北畠顕家といった英傑を失ったことで劣勢に追い込まれている。
「そういうことでしたら、得宗家に仕える方の御言葉でも頷くわけには参りません。私は泰家様から、委渡様を戦火から離して健やかに育てよと命じられております。お引き取りください」
なずなはきっぱりと答えた。
それが、彼女なりの得宗家への忠義である。
「どうしても、駄目か」
「はい」
「……やむを得んな」
二郎はさっと手を挙げた。
彼の後ろに潜んでいたのだろう。複数人の男が小屋の中に入り込んできて、なずなから委渡を強引に引きはがした。
「委渡様!」
委渡も抵抗しようともがいていたが、子どもの身で鍛え上げている大人相手に敵うはずもない。
なずなはなずなで抵抗できないよう、完全に身体を押さえつけられていた。
「そなたは立派な忠義者だ。その点において私は敬意を表する。だが、譲れないこともあるのだ」
「委渡様を、離しなさい……!」
「丁重に扱うと約束する。我らにとっては主筋にあたる御方だ」
そう言い残し、二郎たちは委渡を抱えて去っていった。
しばらくして、なずなを取り押さえていた男も後を追いかけていく。
一人残されたなずなは、呆然としたまま小屋の外に出る。
男たちの姿は、もはやどこにも見えなかった。見えるのは、月が照らし出す僅かばかりの山の風景のみである。
「――嗚呼」
せめて放っておいて欲しかった。
嘆きの念が込み上げてくる中、なずなはふらふらと歩き出した。
手遅れになる前に行かなければならない。
その脳裏には、一人の男の顔が浮かんでいた。





