第100話「青野原の戦い・後記(結)~建武の終焉」
尾張の足利勢と合流した重茂は、本調子ではないものの、すぐに仕事を再開した。
やるべきことは沢山ある。取り急ぎ必要なのは、軍勢を軍勢として整えることだった。
青野原の戦いは多段的な戦がいくつも発生する形になった。
戦場はかなり混沌とした様相を呈していたし、戦死者も大勢出た。
郎党を引き連れた武士や将の中にも、戦死したり重傷を負ったりする者が少なくなかった。
そうなると、兵をまとめる者が不足する。
主を失った郎党は途方にくれ、軍功の申請もまばらになり、その真偽を検証するための証人までもが不足しがちになる。
これをそのまま放置すると軍勢はばらばらになる。中には賊に身を落とす者まで現れるだろう。それは足利にとっても困る話だった。
「まずは国ごとに人をまとめよう。そこから更に群ごとに分ける。そこで主がいる者は主の元に集まり、いない者は群の集まりの中から代表を決めて軍功を申し出てもらう」
という方針が上杉憲顕の提案で決定したのは良いものの、人はそう簡単に言う通り動いてくれるわけではない。
一度は集まってもまた他所へ移動してしまう者も少なくなかった。
重茂が合流した頃はそれなりに人の整頓が進んでいたが、それでもまだまだ落ち着いているとは言い難い状況だった。
「おお、大和権守殿!」
上総勢の状況を見て回った重茂は、武蔵勢の方に移動した。
そのとき、重茂の顔を見つけて駆け寄ってきた者がいる。
「経之殿か。無事だったようでなによりだ」
山内経之。武蔵国の武士で、北条勢との戦いでは最後まで重茂と共に奮闘した勇士でもある。
ただ、最後の乱戦の中で互いに姿を見失ってしまった。かなりの激戦だったが、彼もどうにか生き延びたらしい。
「最後まで供を全うできなかったのが悔やまれます」
「なんの。経之殿はよくやってくれた。経之殿のような勇猛果敢な坂東武者がいてくれたからこそ、俺は北条と戦えたのだ」
「いえ、私など。――ああ、安保殿も心配していましたよ。薬師寺殿にはもう会われましたか」
「薬師寺殿とは入れ違いになった。動ける者たちを連れて、桃井殿や上杉憲藤らと共に京へ援軍に出向いているらしい」
薬師寺公義は、元々師直の命で上総守護代を務めていた。今回も師直からの下達があったのだろう。
少し様子を見て理解したが、ここに残っているのは大なり小なり傷を負って十全に戦うことができなくなった者ばかりだった。
戦うことができる者は、皆京の援軍として出ている。まだ足利と北畠の総力戦は続いているのだ。
「大和権守殿」
「ん?」
「北条の将を討ち取った功の件ですが、差し支えなければ私が証人となりましょうか」
恵清のことを言っているのだろう。他にめぼしい相手と戦った覚えはない。
そして、恵清も結局首を獲るには至らなかった。その死もこの目で見届けたわけではない。
「気持ちだけいただいておこう。確かに奴は死んだと思っているが、首は獲れておらず、今から遺骸を見つけるのも困難。だから、俺はそもそもこのことを軍功として申し出るつもりはない」
「しかし、それでは大和権守殿は」
「功なしだな。気にするな、重茂武功なしというのはいつものことよ」
それに、と重茂は経之の肩を叩きながら続けた。
「分からぬことを証言するのは不正。それを共に戦った仲間にさせるのは、俺としては忍びない。足利に従う者に恩賞が行き渡るならば、俺はそれで良いと思っている」
経之は不思議そうに重茂を見た。
この時代、武士は功をあげて恩賞を得るために命を懸ける。それが当たり前のことだった。
恩賞を得るため功をでっちあげようとする者もいる。それくらい、武士にとって恩賞は大切なものだった。
命懸けで戦って恩賞を求めないという重茂のスタンスは、武士からすると変人のように見える。
「大和権守殿は、変わったお人だ」
「そうか。俺は変わっているか」
重茂はそう言って、どこか寂しそうに笑った。
軍勢がおおよそまとまりを取り戻してきた頃、京からの使者として高師世が尾張にやって来た。
師世は師泰の子で、重茂にとっては甥にあたる。まだ経験は積んでいないものの、高一族のこれからを担う期待の新星だった。
「久しぶりだな、弥五郎の叔父御。親父殿や五郎の叔父御も、無事だと聞いて安堵していたようだったぞ」
「お前は相変わらず口の利き方がなってないな」
そう言いつつ、重茂も深く咎めたてたりはしない。
いざというときは立ち振る舞いを改める。師世も高一族として、それくらいの教養は持ち合わせている。
「それで、用件だが」
「動ける者から順次撤退、というところか?」
「なんだ、知ってたのか」
「他に考えられる指示が思い浮かばなかっただけだ」
意外そうな顔を浮かべる師世に、重茂はさして面白くもなさそうな表情を向ける。
戦力にならなさそうな者ばかりが集まったこの軍勢の役目は、北畠勢の動きを抑制することにあった。
まともに戦えないにしても、北畠勢が東に撤退しようなどと考えないよう圧をかけることはできる。逆に言えば、それくらいしかできることはなかった。
そして、現在北畠勢は大和を越えて河内・和泉の辺りにいるらしい。
もはやけん制する必要性もなくなっていた。であれば、いたずらに軍勢を留めておく必要もない。
むしろ、逗留地である尾張や留守にしている武蔵・上総等の治安悪化に繋がる恐れがあった。
「北畠勢とずっと戦い続けてきた。最後の最後でその戦いを兄上たちに丸投げする形になったことは心苦しいが、こうなってしまってはやむを得まい。他の諸将と共に戻ることにしよう」
「なんだ、異論の一つや二つ出てくるかと思ってたのに」
「これがもっとも合理的だと思ったのだ。それに」
そう言って重茂は布で巻かれた左腕を右手で叩いてみせた。
重茂の左腕は、ずっと力なく垂れている。恵清に斬られてから、まともに動かせなくなっていた。
「異論を申し出て戦場に出たところで、もはや俺にできることはない」
「その腕、駄目そうなのか」
「力が入らぬ。これでは弓も引けぬし、馬も満足に乗りこなせない。武士としては、もはや終わりかもしれぬな」
自嘲する重茂に、師世は「そうか?」と怪訝そうな表情を浮かべた。
「こう言っちゃなんだが、弥五郎の叔父御は元々武勇に秀でてたわけでもない」
「喧嘩を売っているのか、お前は」
「そうじゃない。叔父御は、どちらかというと筆を手にしているときの方が良い顔をしている。俺はそう思うし、親父殿もそんなことを言っていた。だから叔父御は、まったく終わっちゃいない」
そこまで言って、師世は何かを思い出したらしい。
そういえばと、首を捻り始めた。
「五郎の叔父御からの言伝があったんだ。個人的なものだからと言っていたので、つい忘れそうになっていた」
師直が自分に言葉を送るなど珍しいことだった。
兄弟と言っても、雑談の類などしたことはほとんどない。仕事に関する話ばかりしているような気がする。
「それで、兄上はなんと?」
「――大儀であった」
師世は居住まいを正して師直の言葉を紡ぎ始めた。
先ほどまでの軽々しい雰囲気はまったく感じられない。まるで、師直がその場にいるかのようだった。
自然、重茂も姿勢を正して師世と向き合う形になる。
「よく戦い、よく粘り、よく駆け、よく生き残った。お前が功をあげたかどうかは分からぬが、それは些末なこと。強大な敵を相手に最後まで戦い抜いたお前のことを、私は誇りに思う」
それは、意外な言葉だった。
重茂は結局、ここまでの戦いで功らしい功をあげられずにいた。
何も成せぬまま、おめおめと生き延びてしまった。
他人から認めてもらうどころではない。
まず自分が自分を認めることすらできていない。そんな有り様だったのだ。
師直はさぞ失望しているに違いない。重茂は心のどこかでそう考えていた。
「家長殿、そしてお前たちの戦いは我らが継ごう。必ず勝利を掴み取り、新たな世を切り開く」
師直は――兄は、言ったことを違えるような人間ではなかった。
勝つというなら勝つのだろう。相手が北畠であっても、必ず勝利を収めるのだろう。
北畠の強さを知っているからか、重茂はどこか京での戦に不安を抱いていた。
しかし、その不安はどこかに消えてしまった。
「ゆえに――お前は次の戦の支度に取り掛かれ。新たな世で始まる次の戦には、お前のような者が必要だ」
期待している。
師直からの言伝は、その言葉で締められた。
最後まで師直からの言伝を聞き届けた重茂は、その場で頭を下げ、少しだけ肩を震わせた。
まだ終わってなどいない。
むしろ、これからが始まりなのだ。
重茂には、何を為すべきなのかがまだ見えない。新たな世の形も、そこで始まるという次の戦の姿も分からない。
しかし、それを見据えた人が自分に期待していると言ってくれる。その事実が、僅かな救いとなって胸に沁み込んでいった。
「叔父御。五郎の叔父御への言伝はあるか?」
重茂が面を上げると、元の調子に戻った師世が尋ねてきた。
おそらく重茂が落ち着くのを待っていたのだろう。
言伝と言われても、すぐにまとまるものではない。
ただ、脳裏になんとなく浮かんだ言葉はあった。
「――去りし日に思い忘れて身は重く、されどいつかは花の実を得ん」
歌に込められた意味を、重茂は口にしなかった。
自然と出てきた句だから、自分でもよく分からないところがあった。
ただ、口にしたとき、不思議と心が涼やかになった気がした。
「……それだけで良いのか?」
「ああ。今は、まだ」
他の言葉はなにも出てこない。
今言えるのは、それだけだった。
大和に進軍した北畠勢は、京の足利勢と一進一退の攻防を繰り広げていた。
まず大和から京を目指し、般若坂と呼ばれる地で高師直・桃井直常両将が率いる足利勢と激突した。
敵が精強だったのか、こちらが長征で疲弊しきっていたのか。
この戦いで、北畠勢は青野原での勝利が嘘のように惨敗した。
人も、武具も、兵糧もすり減っていた。皆、とっくに限界を迎えていたのだろう。
それでも顕家は希望を捨てず、楠木正成の影響力が残っていることを期待し、河内に転進した。
そこで軍勢の回復を図り、これを防がんと攻めて来た同国守護・細川顕氏を打ち破った。
敗戦のあとに掴んだ勝利なだけあって、北畠勢諸将の喜びはひとしおだったと言って良い。
般若坂での戦いは本来の力を発揮できなかっただけだと、皆で語り合った。
ただ、語らいつつも顕家はそう考えていなかった。
細川勢は河内をまだ十分に掌握しきれておらず、数もそこまで多くはなかった。
本来の力を発揮できなかったという言葉は、顕氏にも適用できるのである。
足利勢を本調子にさせれば勝ち目はない。
そう判断した顕家は、軍勢の一部を石清水八幡宮に向かわせ、同地を占拠した。京とは目と鼻の先の要害である。
これを危惧した足利勢と何度か戦をした。勝ちを拾うこともあれば、取りこぼすこともあった。
青野原で戦った上杉勢とも再び相見えた。どうやら桃井勢同様、援軍として派遣されていたらしい。
その軍勢を率いていた将を討ち取った。まだ若く、顕家とそう年も変わらない将だった。
北畠勢にとって、それが最後の華々しき戦果だったといえる。
「顕家殿」
夜も更けた折、和泉国の堺にある顕家の陣所に結城道忠が姿を見せた。
顕家が呼んだのである。部屋には他に南部師行・伊達行朝といった顕家股肱の武士がいた。
「三人とも、このような刻限に呼び出してすまなかった。日中だとどうしても目立ってしまう。それを避けたかった」
「何か内々の話でしょうか」
そうだと頷いて、顕家はしたためたばかりの書状を道忠に手渡した。
「これは?」
「道忠。その書状を、そなたの手で吉野にいる帝に届けて欲しい。そして、そこで殿下をお支えして欲しいのだ」
顕家の頼みに、道忠は顔をしかめた。
今、北畠勢は足利勢との決戦に備えて準備を進めているところである。
ここ最近は戦もなく、奥州から付き従ってきた者たちも十分に休息を取ることができた。
河内や和泉の人々が持つ商業ネットワークを利用して、物資を補充することにも成功していた。
美濃から大和の頃に抱えていた不安要素は、もはやなくなりつつあった。ここからが正念場なのである。
そのタイミングでここを離れろというのは、武人にとって許容できるものではないのだろう。
それを承知の上で、顕家は頼んでいる。
「道忠」
「理由を、お聞かせください」
側にいた師行や行朝も、道忠と同じ眼差しを顕家に向けてきた。
顕家の考えを聞いておきたい。彼らの眼差しはそう語っている。
「……確かに我らは本調子を取り戻しつつある。要害である石清水八幡宮も未だ我らの手中にある。勝てる見込みはあるだろう」
しかし。そう言って、顕家は表情を険しいものに変えた。
「敵もまた軍備を整えている。相手も本調子を取り戻しつつある」
「互いに本調子なれば、あとは武と武の勝負。弱気になっていては、勝てる戦も逃すのではありませぬか」
「この顕家、そこまでやわな心根ではないぞ、道忠。ただ――次はない」
顕家の最後の言葉が、室内にいる皆の心胆を寒からしめた。
「補充できる武具も兵糧も既に尽きた。我らだけではない。足利勢も集めていたのだ。もはや集められるだけの物はどこにもない。参戦してくる者も、この数日は皆無だ。勝つにしろ負けるにしろ、次が本当に最後の戦いになる」
もはやリカバリーは効かない。その事実は、これまでにないプレッシャーとして北畠勢に圧し掛かってくる。
「道忠。その書状は、私が想う理想なのだ」
「理想、でございますか」
「そなたたちと追い求めた新たな奥州の形。それを実現するためには何が不足していたのか。私の思いをすべてその書状にぶつけた。至らぬ点も多々あるだろう。父に見せれば笑われるかもしれぬ。それでも、その書状には私のすべてが詰まっている。それは、我が御魂なのだ」
道忠はしばらく書状をじっと見つめていた。
やがて、観念したかのようにそれを懐にしまい込む。
「未練をなくしておきたい。そういうことなのですな」
「直接渡しにいくことができれば良かったのだが、そういうわけにもいくまい」
「然り。これは、この道忠が必ず吉野の帝に届けましょう」
「殿下のことも、くれぐれもよろしく頼む。その書状が私の御魂なら、殿下は我らの夢そのものだ」
「ご案じなさいますな。顕家殿は、ただ御身を大事にしてくだされ」
道忠は少し寂しげに笑う。
「私にとっては、否、我らにとっては貴方もまた夢なのです」
「そうだな。顕家殿が大将だからこそ、我らはここまで来れたのだ」
行朝が道忠の言葉に頷く。
師行は、黙って顕家に笑いかけてきた。
「この長征は、あまりに多くのものを失った。そして、奪ってきた。後の世で悪し様に語られるかもしれぬ。私自身、いろいろと思うところは多々ある」
それでも。そう言って、顕家は道忠たちを見渡した。
「それでも、そなたたちとの旅路は楽しかった。奥州での日々はかけがえのないものだった。ここまでの道のりを、私は良き仲間と歩んでくることができた。それだけは――伝えておきたかったのだ」
それは、建武五年――延元三年五月十五日の夜のこと。
この七日後の五月二十二日、北畠顕家は最後の決戦に臨んだ。
様々な報告が、重茂の頭上を飛び越えて鎌倉へと駆けていく。
桃井直常らの奮戦。
上杉憲顕の弟、あの快活だった憲藤の戦死。
高・細川の諸将と北畠の戦。
そして――北畠顕家の戦死。
重茂が鎌倉に辿り着いたのは、七月の頭頃。
東海道の各地で雑務を片付けながら戻っていたので、かなり遅めの帰還になってしまった。
真っ先に出迎えたのは、一足先に戻っていた上杉憲顕だった。
「大変だったな、重茂殿」
「憲顕殿も人のことは言えまい。……憲藤殿のことは、残念だった」
重茂が合流したとき、既に彼は出立したあとだった。
最後に言葉を交わすことができていればと、今更ながらそんなことを考えてしまう。
「北畠を相手に最後まで懸命に戦ったらしい。殿や直義殿からもお褒めいただいたそうだ。……武士として、立派な最期だったのだろう」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
憲顕にとって身内の戦死はこれが初めてではない。
だが、回数を重ねたからといって慣れるようなものでもないのだろう。
「幸い憲藤には子がいる。あいつが生きてきた証が残されている。ただ、まだ幼子だ。しばらくは私が守らねばならぬ」
話している間に、足利の館へと辿り着いた。
ここは変わらない。重茂が武蔵守護として坂東に来た頃のままだった。
帰還した重茂を労うためなのだろう。館の主である千寿王の側には、鶴岡八幡宮寺の別当である頼仲や、椿の姿もあった。無論、千寿王の母である登子も控えている。
「和州。よく生きて戻った」
千寿王は安堵の笑みを浮かべながら重茂の帰還を喜んだ。
およそ半年。子どもの成長は早いということなのだろうか。少しだけ顔つきが大人びたような気がした。
「さしたる武功をあげることもできぬまま、こうして恥を忍びつつ御前に罷り越しました」
「恥じることなどなにもない。和州は私の命じたことを守ったのだ。だれになにを恥じることがある」
「しかし」
重茂の言葉を遮るように、千寿王は強く声を上げる。
「そなたは言った。戦に負けても生き延びれば勝ちなのだと。だから私は生きろと言った。そして、そなたは戻ってきた」
確かにそんなことを告げた。
そのときの言葉に嘘偽りはない。重茂は本心からそう思っていたのだ。
ただ、言われる側になると辛いものがある。あのときの千寿王は、この痛みを抱えていたのだろうか。
「此度の戦で、私は己が未熟だということを痛いほど思い知った。私は、一人ではなにもできない子どもだ。頼みとする者を犠牲にして生き長らえるのが精一杯だった」
今も、千寿王の中にその痛みは残っているのだろう。
その痛みが、少しだけ彼を大人にしたのだ。
「だからこそ、私は生き続けていかねばならぬ。和州、憲顕。そなたたちも、共に生きて私を支えて欲しい」
千寿王の言葉に合わせて、登子が黙って頭を下げた。思わぬ出来事に、重茂と憲顕は咄嗟に両手をついて頭を垂れる。
言われるまでもなく、彼らの役目は坂東の要たる千寿王を支えることにある。ただ、今のやり取りにはそれ以上の意味があるような気がした。
「義兄上。武蔵に戻られる前に、東勝寺へお寄りください」
千寿王とのやり取りが一段落ついたときを見計らって、椿が声をかけてきた。
師久を失ったばかりの頃は憔悴している様子だったが、今は大分持ち直しているようである。顔に生気が戻ってきていた。
「弥四郎殿と義姉上に無事をお伝えしてあげてください。二人とも、心配なされていたでしょうから」
「……そうか。すまなかった、いろいろと」
「謝るのであれば、私よりお二人に謝られた方が良いでしょう」
ぐさりと刺さる言葉に椿らしさを感じて、重茂は僅かに胸のつかえが取れたような気がした。
東勝寺には一人で向かった。
葵もいない。治兵衛もいない。
ただ一人で歩く鎌倉の道は、静かで穏やかなものだった。
今年の初め、戦火に巻き込まれたとは思えないくらいである。
東勝寺の入り口にいた僧兵に話をすると、境内の一角に作られた位牌堂に通された。
中には先客がいた。新熊野である。
彼は葵の位牌に向かって黙祷を捧げていた。すぐ隣には、師久の位牌も置かれている。
重茂は新熊野にならって膝をつき、無事に戻ったことを心の中で伝えた。
「無事で良かった」
黙祷を終えると、新熊野は静かに告げた。
「俺はこの半年、ずっと考えていました。どうすれば葵殿を死なせずに済んだのか。自責の念は今でも晴れません」
「葵は葵の役目を全うしただけです。新熊野殿が責任を感じる必要はない」
「登子様もそう仰せでした。しかし、理屈と気持ちは別物なのです」
位牌堂から出ると、やや陽が傾きつつあった。
夏風に揺られた木々の音に囲まれながら、重茂と新熊野は並んで歩く。
「千寿王様には、もう会われたのですな」
「登子様と共に、何度かここへ来られています。羨ましいと思うこともあれば、辛そうだと思うこともあります」
兄弟とはいえ、千寿王と新熊野では立場が違い過ぎる。
千寿王に対する感情は、非常に複雑なものなのだろう。
「分からないことはたくさんあります。俺は今後どうすれば良いのか。足利とどう接していけば良いのか」
「……それは、そう簡単に答えの出るものではありませんな」
この先どうしていくべきなのか。それが見えていないのは、重茂も同じだった。
「今は、懸命に日々を生きていくしかないのかもしれません」
「それで良いのでしょうか」
「他にできることもありますまい」
東勝寺の門に辿り着く。
重茂は振り返って新熊野の顔を見た。
千寿王同様、少し顔つきが大人びたような印象を受ける。ただ、それと同じくらい何か危ういものを感じた。
「日々を生きていくということは、簡単なようで大変なことです」
その顔がどうにも見ていられず、重茂は思わず言葉を足した。
「そこで得られるものも、決して少なくない。立ち止まらずに一日一日を生きていけば、人は少しずつ強くなります。強くなられよ、新熊野殿。この重茂も――少しずつ強くなりますゆえ」
強くなる。新熊野はその言葉を噛み締めていたが、やがて大きく頷いてみせた。
きっと彼は強くなる。不思議と、そんな確信めいた思いが重茂の中に湧き上がっていた。
建武五年閏七月二日、北陸で孤軍奮闘していた新田義貞の命の炎が燃え尽きた。
八月八日。光厳院の皇子が親王宣下を受けて益仁親王となる。
八月十一日。足利尊氏は征夷大将軍に就任した。
八月十三日。京の帝――光明天皇の皇太子が、後醍醐皇子の成良親王から光厳皇子の益仁親王に替えられた。
そして八月二十八日。京の朝廷は、元号を建武から暦応に改めた。
鎌倉幕府を打ち倒した後醍醐の時代は名実ともに終わり――新たな時代が始まろうとしていた。





