第97話「青野原の戦い(結)」
各地の戦況が、次々と顕家の元にもたらされる。
伊達勢と小笠原・芳賀勢の激闘は伊達勢が勝利。
次いで生じた北条勢と高勢の戦いも北条勢が勝利。
奇襲を仕掛けようとしていた今川・三浦勢は南部・結城勢が撃退。
届くのは吉報ばかりだったが、顕家は決して楽観視していなかった。
理由の一つとして、損耗が思った以上に激しいということがあげられる。
合流したばかりの、十分に信頼できない者たちが討ち取られるのはまだ良い。
だが実際は、この遠征の途上に着到した者たちだけではなく、顕家が信頼していた奥州の武士も多くの被害を出していた。
「なぜ、そんなに前に出たのだ」
思わず叱責の言葉が口からこぼれる。
報告に来た伝令は言いにくそうな表情を浮かべつつ、仔細を説明した。
急速に膨らんだ北畠勢は、兵糧の問題に直面していた。
それを解決すべく、まだ十分に信頼できない者たちを前線に押し出してしまえ、というのが結城道忠の献策だった。
しかし、前線に押し出された側も馬鹿ではない。
北畠勢の上層部が自分たちを使い捨てにしようとしていることを、それとなく察したのだろう。
彼らは足利勢と申し訳程度にぶつかると、そのままいずこかへと散ってしまったというのだ。
「そのため、結局は我らが前に出ざるを得なくなり――」
顕家は思わず悪口を吐きそうになったが、どうにか自制した。
自分が逆の立場だったらどうだったか。自分に彼らを責める資格はあるのか。
悪辣なのは、こちらとて同じことである。その自覚が、顕家を押しとどめた。
「戦が終わったのち、形勢を見て改めてどちらにつくか決める腹積もりなのだろう。急な進軍だったゆえ、着到状も事細かく取れているわけではない。此度の仕儀について咎めたてるのは容易ではない。それを奴らも見抜いていたのだ……」
吹けば飛ぶような弱小勢力の武士ばかりだった。
しかし、彼らは弱小なりに生き残ることに必死なのだ。嗅覚も知恵も総動員して、自分にとっての最善を選ぼうとする。
今回の顛末の原因は、彼らを甘く見ていた顕家たちにあった。
「も、申し上げます――!」
そこに、別の伝令が必死の形相で駆け込んできた。
「どうした」
「上杉・桃井勢を中心とする足利の軍勢が動き出しました。こ、これまでにない数です!」
顕家は思わず陣幕から出て、高台から遠方を確認した。
まだ各所で散発的に戦は続いている。そんな状況を一気に呑まんとするつもりか、後方に控えていた足利勢が一気に動き出そうとしているのが見えた。
全体としては北畠勢が優勢である。上杉・桃井は劣勢を覆すべく打って出てきたのだろうが、タイミングが実にいやらしかった。
足利勢の奮闘で、北畠勢は予想以上に疲弊していた。加えて、急遽集まってきた者たちの離散もあって士気も低下しつつある。
彼我の戦力差を考えれば、勝つことはできるだろう。問題なのは、勝った後のことである。
顕家たちの目的は、上洛して足利尊氏らを追い落とし、吉野の後醍醐たちを京に戻すことにある。
この戦いの後で、それを可能とするだけの力が北畠勢に残るのか。
西方――近江への入り口には、無傷の高師泰らの軍勢が控えている。
それを越えても、京には足利尊氏・直義兄弟や高師直たちの率いる足利本隊が待ち構えているのだ。
かつて京に攻め込んだとき、顕家には共に戦う仲間がいた。
しかし、楠木正成は湊川で露と消え、新田義貞は後醍醐と袂を分かち、北陸の天地で孤軍奮闘している。
あのときも大遠征で奥州軍は疲労困憊だった。京で待つ仲間のサポートがあればこそ、足利勢を追い落とせたのである。
此度は、誰もいない。
「申し上げます、北方から桔梗紋を掲げた軍勢が動き出しました! こちらに向かって突き進んできます!」
「……あの者が来るのか」
顕家の隣で報告を聞いた宗良親王が、僅かに身体を震わせながら北に視線を向けた。
その手は、調子の悪そうな義良親王をしっかりと抱きかかえている。いざとなれば弟を守ろうというつもりなのかもしれない。
「土岐――頼遠」
かの者は、改めて出直すと言っていた。
後方に控えていた味方と合流し、雌雄を決すべく動き出したということなのだろう。
「……もはや迷ってはおれぬか。こうなれば、顕国殿も動かすほかあるまい」
春日顕国は北畠勢の副将格であり、率いている軍勢の規模は南部・伊達・結城勢をも上回る。
今後の戦いのため温存しておきたかったが、出し惜しみできるような状況ではなくなってきた。
「良いか、顕国殿含め皆に伝えよ。小勢にはもはや構うな、全力をもって上杉・桃井を撃破せよ。ここで負ければ我らの旅路は終わってしまう。それはならぬ。良いか、必ず勝つのだ」
「は、しかとお伝えいたします!」
駆け出す伝令を見送ると、顕家は親王たちに神妙な面持ちで告げる。
「我らはここで土岐勢を迎え撃ちます。お二人は私から離れぬようお願い申し上げます」
義良親王と宗良親王は黙って頷いた。
彼らもとっくに覚悟は済ませている。土岐勢との戦いへの恐怖はあれど、この場に踏みとどまるだけの胆力は備えていた。
顕家は、肩に違和感を覚えつつも馬上の人となった。
いざとなれば、頼遠と再び一騎打ちをするつもりである。
美濃の青野原で繰り広げられた未曽有の大戦は、今まさに決戦のときを迎えようとしていた。
遠くで争いの音が聞こえる。しかし、近くにいる香坂源助の声はよく聞き取れない。
脇腹に突き刺さった刀が痛む。抜いてしまいたい。しかし、抜けばいよいよ血が止まらなくなってしまう。
もう少しだけ、この身体を持たせなければならない。
その一念で、恵清は己をこの世に繋ぎ止めていた。
「……さ……!」
目の前がどんどん暗くなっていく。源助の声も、ほとんど聞こえなくなってきた。
正直なところ、自分がなにをしているのかすら分からなりつつある。
馬に乗って揺られているのか、とっくに降りて歩いているのか、倒れこんで動けずにいるのか。
空の色は見えない。大地の感触もない。だから、きっとまだ倒れてはいないはずだ。
意思は、今も前に向かっている。
在りし日の北条を想いながらも、恵清はずっと先を見て歩いてきた。
見えていたのが実現し得ない夢幻だったとしても、歩みを止めずに生きてきた。
杉太一郎を始めとする多くの郎党を失った。
時行には随分と不自由な生き方を強いることになってしまった。
結局、北条の再興は果たせたのか否か。
最後まで、自信を持って肯定できるようにはならなかった。
だが、広く世を見ることができた。
得宗家の中にいたままでは知ることのなかった世界だ。
苦労の方が多かった。しかし、面白いと思えることもあった。
楠木兄弟や宗良親王のような人々と知り合えたのは、悪くない思い出だ。
大高重成との一騎打ちも、今となっては良い時間だった。
あれほど大力無双の勇士と渡り合えたのは、自慢しても良いことだろう。
河越高重や高坂氏重との戦は必死だった。
いくつもの矢が身体に突き刺さる中を突き進み、無我夢中で首を獲った。
時行の元に駆けつけるためとは言え、首を墨俣川の中に捨てたのは、いささか申し訳ないとも思う。
――嗚呼。
これまでのことばかりが思い浮かぶ。
もはやこれまでなのか。そんな予感が恵清の中に芽生えた。
身体中が冷たい。
目の前はもう真っ暗だ。
一歩も動けている気がしない。
もう、良いのではないだろうか。
「――叔父上!」
何もかもが消えていく世界の中にあって、不思議とその声だけは聞き取れた。
「しっかり、しっかりなさってください! 貴方はまだ死んではいけない。北条には……我々には、まだ貴方が必要なんです!」
いつも言葉が足りていない気がした。
もっと踏み込んで話をすべきだった。
しかし、そうする勇気がなかった。いろいろなものを押し付けたという後ろめたさが、ずっと恵清の中にあったからだ。
「……次郎」
かすれきった声。最後に残った気力を振り絞って、ようやく出せた声だ。
「俺の、北条は、ここまで、だ」
喉元が熱い。身体の中で、そこだけ熱が残っている。
「これからは、お前の北条を、いけ」
古き北条の時代は終わる。
しかし、北条は生きている。時行が――得宗ならざる得宗が新たな北条として生きていくのだ。
かつての栄華が消え失せても、満足のいく再興が果たせなくとも、生きていればそれで良い。
北条が生き続ける限り、恵清の生涯にも、高時たちの生涯にも――意味はあったと言えるのだから。
「い――け」
身体の中にあったものが、すべて消え失せていく。
見果てぬ長い夢の果てに、恵清は――北条泰家は、ようやく安らかな眠りについた。





