胡蝶の夢
その日、僕は夢を見た。
夢の中で僕は次郎左衛門という名の農民だった。特筆するような特技もなく人畜無害でごく平凡な男、それがおれという人間だった。
農家の次男として生まれ、物心ついた頃から田畑を耕す日々。そんな生活に特に不平も不満もなかった。あの浪人と出会うまでは……。
浪人はおれに様々なことを教えてくれたんだ。農民から天下人になった太閤さんの話なんかは目玉が飛び出るほどに驚いたもんだ。なんせおれと同じ農民が天下様なんだからな。腕っ節や才覚さえあれば殿様にだってなれる。なんとも胸が熱くなる話じゃないか。けど、それも今は昔。この徳川様のご時世、天下太平の世の中では夢のまた夢の話だった。浪人は「もう大きな戦は起こらないだろうな」なんて寂しく笑っていたな……。
そんな浪人が、ある日「仕官を諦めて郷里に帰る事にした。だから、その路銀として腰の刀を買ってくれないか?」とおれに話を持ちかけてきた。だからおれはふたつ返事で浪人の話に乗ったんだ。この浪人には世話になったし、なによりもおれが自分の刀を持ってみたかったんだ。まぁ男の夢を買ったって訳だ。
その刀は実に立派で素人目にも業物とわかる程に素晴らしい刀だった。
そして鞘から抜いたその刀身はため息が漏れるほどに美しかったんだ。
『チッチチチチッ』
と何処かで鳥の囀る声がしていた。
何時からかおれはその刀の刀身を眺めるのが日課になっていた。
ずっと見ていても全然飽きない。あの浪人はこの刀は『村正』だと言っていた。それは籠で作った釣瓶が水滴を留められないように、水も漏らさぬほどの切れ味なんだと。なるほど、まさに名刀だ。
『チチチチッ』
とまた鳥が囀っていた。
最近一日が過ぎるのが早い気がする。ぼ~っと刀を眺めながら思う。
『ちちちちぃち』
あぁ鳥が鳴いている。
おれは今日なにをしてたっけ……。頭に霞がかかったみたいになんにも思い出せない。
『ちちちっちぃち血』
……いつも聴こえる。
あぁ……綺麗だなぁ……刃が紅いやぁ。きっと良く……切れるだろうなぁ。
『ちち血血ち血血血……ホシイ』
そうだなぁ、そうだよなぁ……もっと紅くしないとな。
おれは気づくとそこに立っていた。……ここはどこだ?
『血ちち血……ホシイ……スイ、タイ」
あぁ、ここは吉原かぁ……。……なんで?
『血ぃ血……キルキル斬るぅぅう』
うん。そうだ。そうだったなぁ~~。
おれは腰に佩いていた刀をすらりと鞘から抜いた。
そして、目に付いた見ず知らずの男を……斬った。
視界で赤い鮮血が飛び散っていた。……ぱぁっと紅い花が咲いていた。
「きれいだなぁ」
おれは刀を振るった。花魁を斬った。そのお付の女も斬った。
「ちちちっちちいぃぃい」
切るたびに振るたびに綺麗な花が咲いては散った。
「斬るきりきるるる斬り斬れ斬るぅぅ」
男を斬った。その娘も斬った。おれは斬った。キッタキッタキッタ。
「ぁあ……良く斬れる刀だなぁ」
いつの間にか役人に囲まれていた。だからおれはその役人たちも斬ったんだ。
おれは無我夢中で沢山の人を斬り殺した。そして……。
「汝、下野佐野の百姓、次郎左衛門は吉原において白昼堂々と狼藉――」
おれは後ろ手に縛られ、その役人の言葉を他人事のように聞いていた。
おれは何をしたんだ。おれは悪いことをしたのだろうか……?
「――しかして12人を惨殺するにいたった。……相違ないな」
おれ……が? 殺した……のか。あぁ……そうだった。おれがこの手で……やったんだ。
「……へい」
おれは声を搾り出す。……でも……でもよぉ。違うんだよ。
「――よって打ち首獄門に処す」
違う! 違うんだよ。おれだけど……おれじゃないんだ。
おれはおれはおれはっ!! おれは……わるくない。
「何か言い残すことはあるか?」
正座し頭をたれるおれの背後から役人の声が聞こえていた。
「なぁ、若いお役人さん。おれが狐狸妖怪にとり憑かれてやった。って言ったら、あんたは信じるかい?」
ほんとうに狐にでも化かされたような気持ちだった。何が原因か分からないけど、おれは自分の意識で意思で人を斬ったとは少しも思っていない。
「……」
背後から返事はなかった。まぁそうだわな。何を言ってもおれが手を染めたって事実だけは変わらないだからな。だから、おれは悪いんだけど悪くないんだ。……へへっ、最後の最後におれは何を考えてんだかなぁ。
おれの右肩に刀の峰がぽんと置かれた。無意識に視線が右肩の刃に向けられる。
「……赤い……刃が真っ赤だ……」
まだ誰も斬っていないはずなのに赤く染まった刀身が見える。一点の曇りもなく染まった紅の刀……そうだ!? そうだったんだッ!?
「いざ……参るっ!!」
そこでおれの意識は途切れた。ぷつんと全てが真っ暗になってなにも聴こえないなにも見えないなにも感じない……おれの一生はそこで終わった。最後に真実と後悔と無念と恨みを抱きながら、おれは死んだんだ。
そこで僕は目を覚ました。
これは僕の見た夢の話。
最低で最悪な気分にさせられた夢の話である。