マーテルの日常-朝(5)
アスタ「それじゃあ、行ってくるよ母さん」
パテル「暗くならないうちに帰ってくるよ。後のことはよろしくね」
マーテル「はい。気をつけて。行ってらっしゃい。」
山のことは詳しくないけど、2人の仕事が安全なものではないことは私でも分かる。
心配がないと言えば嘘になる。
けれども、そんな素振りを見せてしまえば、逆に2人に心配されてしまう。
私は2人の背中を見ながら、2人の無事を祈りつつ見送る。
2人の姿が見えなくなると、ようやく私は自分のことに取り掛かった。
マーテル「さて、まずはラディさん家に伺いましょう」
私は直ぐさま準備を済ませて、向かいの家を訪ねた。
ラディさんの宿屋は、この村の中では一番立派な建物だ。
マーテル「ラディさん!向かいの家のマーテルです!」
玄関の前で呼びかけるも返事がない。
大きめの建物だから聞こえていないのかと考え、何度か繰り返し呼びかける。
しかし、それでも返事がない。
ドアノブに手をかける。
すると、扉は「ガチャ」と音を立てて僅かに開いた。
マーテル「ラディさん?...お邪魔します」
中に入り、扉を閉める。
同時に感じる違和感。
宿屋の室内は、窓や扉が完全に閉め切られており、少しの光も入って来ないように、カーテンで厳重に遮光されていた。
まだ明るくなって間もない朝だというのに、室内は薄暗かった。
暖かな外の空気とは違い、身を凍らせるかと錯覚するほどの冷気に満ちている。
思わず息を飲む。
薄暗い室内と針のような冷気のせいで、この宿屋には何かがいるのではないかと、嫌な想像をさせる。
その何かに気づかれないよう、自然と小さな声で呼びかける。
マーテル「ラディさん?どこですか?」
いつもなら、カウンターでお客さんがくるのを待っているか、その奥のキッチンで料理の下ごしらえをしている。
私はカウンターの奥、キッチンへと入っていく。
しかし、ラディさんの姿は見当たらない。
火はついていないものの、鍋などの調理器具が、途中で使われていたままで放置されている。
けれども、火が使われていたであろうにも関わらず、変わらない冷気が針のように私の身を刺す。
「ラディさんの身に何かがあったのではないか」と嫌なイメージが脳裏に浮かぶ。
ラディ「おや?マーテルかい?どうしたんだい?」
後ろから声を掛けられる。
声の方を振り向くと、少しふくよかな外見の女性が、片手に野菜を持って立っていた。
マーテル「ラディさん!」
安堵の声が自然と漏れる。
ラディ「今にも泣きそうな顔じゃないか、大丈夫かい」
この優しさ、いつものラディさんに間違いない。
マーテル「ごめんなさい。一応、玄関の前で声はかけたんですけど返事がなくて。鍵も掛かってないし、いつもと雰囲気が違ったので、もしかしてって嫌な想像しちゃって...」
ラディ「あぁ、そうだったのかい。心配させちゃったようですまないね」
マーテル「いえ、無事で良かったです。それにしても、いつもと凄く雰囲気が違いませんか」
私はラディさんに疑問を投げかける。
いつも、旅人に好かれるような雰囲気作りを心掛けてるラディさんが、この異様な空気に気付かないはずがない。
ラディ「それなんだけどね、なんとね、今日はお客さんがいらっしゃったんだよ!」
マーテル「え!」
驚いた。
ここ最近、村を訪れる旅人は全く見かけなくなった。
田舎なのだから、旅人が訪れないことが続くことはあるだろう。
けれども、決まった間隔で村や町を行き来する行商人まで、ここ最近は見かけない。
村人のほとんどは、自給自足や物々交換などをして暮らしているため、みんな何とか生活は出来ているけど、それでも行商人の存在は村人たちにとって大きい。
村人たちは、魔物のせいだなんて噂をしている。
そう言えば、アスタとパテルが、山に動物達が減ったのは魔物の動きが活発化しているからなんて話をしていたっけ。
もしかしたら、何か関係があるのかもしれない。
そんなことがあるので、本当に久しぶりの旅人である。
マーテル「それは良かったですね」
ラディ「ああ、本当に。やっぱり宿屋は、旅人が居てこそだからね」
ラディさんは嬉しそうに笑う。
本来、ラディさんは宿屋をやらずとも、自分の家で作っている野菜で十分食べていける。
また、余った野菜を売ることで、ある程度好きなものを買う余裕もある。
それでも宿屋を経営しているのは、田舎に宿屋がないというのは旅人にとってとても大変なことであるため、少しでも旅人の助けになりたいということ、そして何より、ラディさん自身が人と関わること、人の役に立つことが好きであるからである。
そんなことを以前教えてもらった。
本当に優しい人である。
ラディ「まあでも、その旅人さんが変わっててね」
ラディ「まだ日も昇らない早朝に尋ねてきて、顔も見えないほど深くフードを被ってるんだよ。それでね、眩しいから室内を閉め切ってくれなんて言ってね。旅人さんの部屋だけかと思ったら、宿屋中して欲しいって」
ラディ「普段なら1人のお客様にそこまですることは出来ないんだけど、最近本当にお客様がこないし、どうせ今日もその人だけだろうから特別にってね」
マーテル「ああ、それでこんなに冷えきってるんですね」
なるほど、それで納得がいった。
そんな要望に応えてしまうのも、ラディさんの優しさ故と言ったところだろうか。
それにしても変わった旅人である。
確かに今日は、よく晴れている
陽射しが室内に入れば、明かりをつける必要はない位である。
それなので、眩しいという気持ちは少し分かる。
けれど、宿屋全体を閉め切る必要はあるのだろうか。
自室の窓だけを閉め切っても、扉から漏れる光が眩しいということだろうか。
それはいくらなんでも敏感すぎる気がするけど。
フードを深く被っていたらしいし、もしかしたら病気を患っているのだろうか。
それとも、別の特別な理由が。
それに、窓を閉め切ってカーテンで遮光したからって、宿屋の空気がここまで冷たくなるものだろうか。
疑問が尽きず考えを巡らせていると、ラディが尋ねてきた。
ラディ「そうそう。それで、お客様に出す料理を作ってたら、足りない野菜があったもんで、火を止めて畑に取りに行ってたんだよ。マーテルはどうしたんだい」
マーテル「あ...」
ラディさんに言われるまで、当初の目的を完全に忘れていた。
マーテル「あの、これ。料理を作りすぎてしまって。ラディさんにはいつもお世話になってるから、良かったらと思って」
ラディ「ああ、そうだったのかい。何言ってるんだい。繁忙期には宿屋のお手伝いまでしてもらって、こっちこそお世話になってるよ。いつもありがとうね」
今でこそ、旅人はほとんど訪れないが、以前は、この宿屋は旅人で賑わっていた。
向かいに住む私は、宿屋の忙しさが他の人より見えやすく、1人で頑張っているラディさんを放っておけず、たまにお手伝いをさせてもらっていた。
それでも、ほとんどラディさん1人で出来ていたし大したことはしていないけれども。
我が家も野菜を貰ったりしているし、むしろこちらの方がお礼を言う立場だと思う。
マーテル「いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます」
2人して笑う。
マーテル「良ければ、今日もお手伝いしますよ」
多分、お客様が1人なら私の手は要らないだろうけど、この人のお手伝いは嫌じゃないし、むしろ進んで行いたいと思う。
ラディ「今日は多分、今いるお客様だけだから大丈夫だよ。ありがとうね」
想像していた返事だけど、少し残念だった。
マーテル「わかりました。じゃあ、私はこれで失礼します」
食い下がってもラディさんに悪いので、私はおとなしく帰ろうとする。
ラディ「ああ、ちょっと待って」
行こうとする私を、ラディさんが呼び止めた。
ラディ「美味しそうな食事のお返しだよ」
そう言い、今取ってきたばかりであろう野菜をいくつか渡してくれた。
マーテル「そんな、悪いですよ。いつものお返しなのに」
ラディ「それはお互い様だよ。私とお客様1人だけじゃ余っちゃうんだ。遠慮せず貰ってくれ」
ここで再度断っても、私が遠慮なく貰える理由を考えるほど優しいのがラディさんだ。
マーテル「じゃあ、遠慮なく。ありがとうございます」
ラディ「はいよ。またいつでも来ておくれ」
そう言われ、私はラディさんの宿屋を後にする。
外に出ると、さっきまでの冷気が嘘のように暖かかった。