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その時。オラフ・クレーマンは自分が立ち上がっていることにすら気が付いていなかった。
「今の話は本当か」
半ば無意識のまま、幅の広い肩を押し付けるように彼は先ほど言葉を発した若者を詰問する。
「な、なんだよ、爺さん、何が」
若者は驚いているような、戸惑っているような声を出した。クレーマンは再び、はっきりとした、明確な言葉で質問を重ねる。
「このレーヴェンザール防衛の指揮官が、17年前の南部襲撃の生き残りだってことは。本当か」
「知らねぇよ、俺は」
「はっきり答えんか!!」
要領を得ぬ若者の返答に、クレーマンは彼を怒鳴りつけた。その声は、営庭に響くにふさわしい下士官の大喝であった。一度でも新兵教練を受けたことがあれば必ずそうなるように、酔っていたはずの若者二人が反射的に背筋を伸ばす。
クレーマンはもはや、下士官以外の何物でもない態度で彼を問い詰めた。
「おい、兵隊! 貴様の名は!?」
「アウグスト・フォーレンであります!」
背の低いクレーマンはフォーレンと名乗った若者の顔を見上げるようにして、ぎりぎりまで顔面を近づけて割れ鐘のような大声で続けた。
「では、フォーレン! 貴様が先ほど口にした言葉は真実か!?」
「分かりません!」
鉄拳が振るわれた。軍では、上官からの質問に対して「分からない」などという返答は存在しない。フォーレンはクレーマンの拳骨を、微動だもせずに頬で受け止めた。
訓練は悪くない。クレーマンは感心した。だが、表には決して出さない。
蛇が蛙をねめつけるように彼を睨む。フォーレンは耐えかねたように言葉を紡ぎ出した。
「じ、自分は、噂で聞いただけで、それ以上のことは、知りません!」
クレーマンは舌打ちをした。フォーレンが肩をびくりと震わせるのも無視して考え込む。
「あの、」
そこへ、彼の横で同様に怯えていた相棒がぼそりと口を開いた。
「なんだ」
「いえ、あの、噂が真実かどうかは知りませんが、噂の出所は知っています。司令に、シュルツ少佐に元々率いられていた部隊の兵たちです。彼らはどうも、その、司令自身の口からそう聞いたと言っていましたが……」
歯切れ悪く言う彼を、クレーマンは確かめるよう片眉をつり上げて睨んだ。
「司令殿が、今の配置に就かれる以前はどのような任務に就いていたか、聞いているか」
「は、最後衛で遅滞戦闘を任されていたとか。それも一度ならずと聞いております」
「そうか」
再び、クレーマンは黙り込む。いや、考えるだけ無駄だとすぐに気付いた。長卓の奥で縮こまっている店主を睨む。
「親父」
「な、なんだい、クレーマンさん……」
店主は、若者たちに対する時とは裏腹に、怯えたように応じた。
彼のそうした態度も無理はない。軍では神に次ぐ存在であったクレーマンも、営庭の外では何かと気に入らないことがあれば、長きに渡る軍隊生活で鍛えぬいた喉を遺憾なく発揮して怒鳴り散らす、偏屈な老人として市民からは距離を取られる存在であったからだった。
またぞろ、何か彼の逆鱗に触れてしまったのではないか。店主は、そう思っていたのだった。彼は言い訳をするように言った。
「言っとくけど、あんたの酒にゃ、水は」
「水をよこせ」
「は、」
唐突なクレーマンからの注文に店主は一瞬、時を止めた。だが、彼にとっては不幸なことに、それこそがクレーマンの逆鱗だった。
「水を寄こせってんだ! 一番でかい酒椀に目一杯注いでもってこい!!」
クレーマンに怒鳴りつけられた店主は、猟犬に追われる兎のような素早さで磨いていた水晶椀を放り出すと、棚に並んでいる中でも最も大きい酒椀をひったくり、店の裏戸から外に出た。
そこには隣家と共有している井戸があった。店主は大急ぎで縄の付けられた小さな樽を井戸の中に放り込むと、水を汲み上げ、ほとんどを無駄にしながら椀の中を水で満たした。
店内へと取ってかえす。長卓の前に仁王立ちで待っていたクレーマンの前へ、水がなみなみと注がれた大きな酒椀を差し出した。
クレーマンはそれを、音を立てて飲み干した。盛大に息をつく。そこからは、先ほどまで飲んでいた酒精の香りがすっかり抜けていた。
やがて彼は酔いの吹き飛んだ目で、直立している若者二人を睨みつけた。
「兵隊がいつまで酒を飲んどる! 明日の訓練に備えて、さっさと寝んか、この馬鹿者が!!」
彼の怒鳴り声に、若者たちは猟銃を向けられた鴨のように店を飛び出していった。店主が代金を求める声を上げたが、鬼に睨まれている彼らの耳には届かない。あっという間に、“灰色の小熊亭”の店内はしんとした静けさに満ちた。
「く、クレーマンさん……」
「帰る。じゃあな」
何かに縋るような声を出した店主にぶっきらぼうに答えたクレーマンは、懐から代金を取り出して長卓の上に置いた。彼の飲んでいた分と、若者たちの分を足しても釣りがくる金額だった。それを見た店主が何か言う前に、クレーマンは何かを決意したような表情をしたまま、店を後にした。
彼の家は“灰色の小熊亭”から大通りを挟んで反対側にあった。
まったくと人気のなくなってしまった旧王都レーヴェンザールの大通りを、彼はずんずんと歩いてゆく。一歩進むたびに、肉体が往年の活気を取り戻してゆくように感じられた。
――17年前の、〈帝国〉軍襲来時の生き残り。
彼にとって、それは何物にも代えがたい価値のある一言であった。
その言葉が彼の胸に、今まで感じたことが無いほどの激情を燃え上がらせている。
そうだ。
彼は自身の不明を悔やんだ。
何を、俺は。こんな時に。あんな場末の酒場で、いじけていたのだ。大馬鹿野郎は俺だ。
そう自分を罵っているうちに、家の前まで来ていた。中へと入った彼は、物入の奥深くで、丁寧に保管されていた包みを手に取った。包みを解き、中に収められていたものを目にした瞬間、彼の中で燻っていた最後の迷いが消えた。
「まさか、こいつをもう一度着るとはな」
呟いた彼の声は、驚くほどの清々しさに満ちていた。
それは五年前に退役したあの日から生涯、身に付けるはずがなかった戒衣。空色を模した、〈王国〉軍の制服。
左胸の位置には、曹長の階級を示す階級章が縫い付けられていた。
“灰色の小熊亭”で起きた小さな出来事から一刻ほど後。
レーヴェンザールの市街中央部、街の残留した市民たちが集まっている建物内は陰鬱とした空気が充満していた。
レーヴェンザールの市街は大きく分けて北、南、西、中央の区に分かれている。その中で守備隊が市民の自由行動を許しているのは中央区のみであり、それ以外に住居を持つ者は守備隊が避難所として割り当てている建物で寝食を共にしていた。避難所として使用されているのはいずれも石造りの頑丈な、大きな建物であった。これには市民の安全を確保する意味と、一所に集めておいた方が何かと面倒が少ないという二つの意味が含まれている。
当然、市民たちからすればまるで囚人のように詰め込まれているという思いがどうしても強い。
半数以上が女性とは言え、ほとんどが故郷を守るために何かがしたいという想い一つで街の残った者たちだった。だが、街を巡る戦闘が始まる以前も、始まってからも、彼らには戦っている守備隊を支援するための何らの行動も許されていない。どのような申し出も、守備隊司令が全て却下したからである。中には、その司令が発した命令により生まれ育った家を取り壊された者までいる。
彼らが街を防衛する部隊の指揮官に対して抱く感情は、もはや憎悪に近いものへと醸成されているのはある意味で当たり前のことかもしれなかった。
「――戦闘が開始されたため、今後は軍が指定した区画以外での自由な外出及び行動を一層、制限させていただきます?」
三十人ほどが詰め込まれている部屋の中で、誰かが今日、守備隊の将校から告げられた言葉をそっくり繰り返した。その一言は湖面に投げ込まれた石のようだった。ひそひそとした不満の囁きが、波紋のように広がってゆく。
「つまり、何もするなってこと?」
「あの司令官は、なんで私たちにも仕事をさせてくれないの」
「街を守るために何かしたいだけなのに」
「おじいちゃんが残してくれた家が……酷い」
他者の行いに不満を抱く人間の多くがそうであるように、批判の矛先はやがて、その人物の人格にまで拡大してゆく。
「あの司令、兵隊さんたちの遺体の横で、笑いあっていたわ……なんて人なの」
心の底から蔑むようにそう呟いたのは亜麻色の髪を帯布で纏めている、可愛らしい少女だった。わずか16歳でこの街に残った彼女、ラウラ・テニエスが勝気な目つきを嫌悪に歪めて発した一言に、周囲の者たちのが賛同するように首を縦に振った。
ラウラの後に続き、彼らがさらなる罵倒の文句を口に出そうとした時であった。
「将校ってのは、それで良いんだ、嬢ちゃん」
がさつな声が、彼女にそう反論した。周囲の目が一斉に振り向く。
果たして。そこに立っていたのは〈王国〉軍の軍服に身を包んだ背の低い、しかしがっしりとした体躯の見知らぬ老人であった。
「自分のすぐ横で、何処の誰が吹き飛ぼうが顔色一つ変えずに命令を出し続けるような奴じゃなけりゃ、指揮官なんぞ務まらん」
「クレーマンさん……?」
その声から、目の前の人物が誰であるのかを悟った老婆が驚きの声で老人の名を呼んだ。
「おう」
と、クレーマンはその呼びかけに対しても、やはりがさつに応じる。周囲のざわめきが不平不満から、驚きに変わっていった。
世捨て人のように生やしていた髭をすっかり剃り落とし、その下に眠っていた武骨な顔面を露わにした偏屈な鍛冶屋は、その反応を無視して彼女たちを睥睨した。
「ど、どうしたんですか、その恰好……?」
ラウラが代表して尋ねた。先ほどまで顔に浮かべていた嫌悪の表情は今、戸惑いに変わっている。彼女からの質問にクレーマンは何食わぬ口調で答えた。
「どうしたって? なぁに、故郷の大事だ。楽しい隠居生活を一旦終わりにして、御国のために再度ご奉公しようと思ってな」
一層の驚きが周囲に走った。クレーマンが軍服を着ていることについてではない。〈王国〉国民の男で軍服に袖を通したことのない者などいない。それは驚くほどのことではなかった。
彼女たちの驚きは、この老人にそのようなことを口にするほどの諧謔味があったのかという、その一点に尽きていた。
「御国のためって……守備隊に志願するんですか? 義勇兵として?」
彼の言ったことを理解したラウラは、顔を翳らせて尋ねた。クレーマンは不愛想に頷いた。
「そうだ」
「なんで、今さら」
「今さら、だからだ」
いや。もう一つ理由はあるが。
クレーマンは内心で呟いた。だが、口に出そうとは思わなかった。彼の胸で渦巻いている想いは、決して彼女たちには理解できないだろうと知っているからだった。だからか、代わりの言葉を口にした。
「お前さんらが、守備隊の司令をよく思っていないってのは分かる。だが、ここは戦場だ。もう俺たちの故郷じゃない。これまでの常識は何一つ通用しない場所だ。だからと言って、司令を人として好きになれってわけじゃないし、受け容れろとも言わん。ただ、戦場にはそういう人間が必要なんだ」
言い終えた後で、クレーマンは目の前の少女を見た。
彼女は懸命にクレーマンの言葉を咀嚼しようとしていた。だが、納得はできないという表情だった。
それにクレーマンは、まぁそうだろうな、とだけ思った。彼は言葉だけで何もかもが伝わるなどとは、微塵も考えていないからだった。
クレーマンはラウラの周囲に集まっている者たちの顔を見回した。兵役の適齢年齢にある者は全て守備隊へ徴用されたから、当然と言えば当然だが、そこに居たのはほとんどが女性か、あるいは老人だった。確かに彼らに敵と戦えというのは酷かもしれない。
だが。クレーマンが何よりも気に入らないのは、彼らは口々に文句を言いつつも、誰一人として戦おうとする意志を見せていないことだった。
彼は憤然として息を吸い込んだ。そして建物中に響き渡るような、朗々とした大音声をあげた。
「お前ら、一体何をしとるんだ」
それは殴りつけるような声だった。
「お前らは、何のためにここに残ったんだ? こんな場所でじめじめといじけて、〈帝国〉軍に皆殺しにされるのを待つためか。なんで戦わん。なんで何もしようとしない」
「それは……」
すぐ近くにいた女性が反論するように、か細い声を出した。女としての人生を半ば終えたような年齢の女性だった。彼女の息子は守備隊へ義勇兵の一人として加わっている。
「私たちも、何とかしたいとは思っているけれど、」
「あの司令官が、何もさせてくれないから」
後を継いだのはラウラだった。クレーマンに負けず劣らず、憤懣と鼻を鳴らしている。クレーマンはそんな彼女の鼻先を叩くように怒鳴りつけた。
「馬鹿もんが!」
突然、怒鳴られた彼女たちは意味が分からず、目をきょとんと丸くしていた。
「軍の第一義は、国民を守ることだ! その指揮官が市民を戦闘から遠ざけようとするのは、当たり前じゃねぇか!!」
老人の大喝に、ラウラはさらに混乱していた。周りを囲む女性たちも同様だった。
彼女たちの多くはこれまで自身の境遇に悲観することはあっても、相手の事情まで考えてはこなかったからかもしれない。だからと言って、別に批判されるべき思考では無い。
それこそ女が先天的に備えて生まれてくる、生物的な強さの一つであるからだ。
だが、今の状況でそのような女々しさは不要だった。今、彼女たちに必要とされているのは、我が子のためならば如何なる残酷な現実に対しても決して屈することのない猛然とした母親としての雄々しさであった。
「それじゃあ、ええと、クレーマンさん、私たちにどうしろって……」
戸惑ったまま、ラウラが口を開く。それにクレーマンは突き放すような声で告げた。
「勝手にやればいい」
「え?」
「司令が持っている権限は隷下部隊将兵への指揮権のみで、市民に対して強制力のある命令は発せない。だから、勝手にやればいい」
彼は言った。
「守備隊は今、あちこちで人手不足のはずだ。部隊は戦うだけが任務じゃねぇからな。飯を作るのも、怪我人を治療するのも、全部自前でやらにゃあならん。まともな部隊なら、問題はない。だが、今この街にいるのは友軍と完全に切り離された部隊だぞ。何もかもに手が回るわけがねぇ。そんな状況なのに、守備隊の連中はお前らに泣きつくこともなく、お前らを守るために懸命になってる」
沈黙が下りた。誰もが、クレーマンの言葉について考えている。
「司令からの許可が下りない? なんだ、下らん。そんなもん無視しちまえ。兵士だってな、同僚の作った飯より女の作ったもんを嬉しがるはずだ。怪我の治りだって、むさくるしい男に包帯巻かれるよりも女から優しく介抱された方が早いってもんよ」
全てがそうだとは限らないが、事実ではあった。数多の新兵を鍛え上げてきたクレーマンは男が如何に単純であるかを知っている。無論、彼もその例外ではない。ただし、もう少し若ければの話ではあるが。
黙り込んでいた女たちの瞳に、これまでとは違う光が宿りだした。
それを見たクレーマンは満足げに口元を捻じ曲げると、兵に最後の発破をかけるように言った。
「ここは俺たちの故郷だ。その故郷を奪いに来た連中に、思い知らせてやれ。ただじゃ済まさねえと」
次回は来週、水曜日。




