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あけましておめでとうございます。
遅くなりましたが、今後も拙作にお付き合いいただければ幸いです。
たとえ、街が二十万の敵兵に囲まれていようとも人の営みは続く。
レーヴェンザールの表通りから二本ほど外れた路地にひっそりと店を構えている酒場“灰色の小熊亭”は、ほとんどの住人が街を去った後でも営業を続けていた。
とは言え、店主は別に百万の敵兵何するものぞという豪胆な気質の男であるわけではない。年季の入った長卓の奥で煤けたように曇る水晶椀を磨く老人はただ己の人生の日々、その変化を受けいれることができないだけの凡庸な男であった。
彼がこのレーヴェンザールの裏路地で30年近くも営んできた酒場はそうでなくとも普段から活気溢れる酒場ではなく、店とともに年月を経てきた常連たちが世に抱く不平と不満を吐き出すために顔を出すような場所であった。一日中、街が砲声に怯え続けた今となっては、店内の雰囲気は場末も場末。世の果てとすら錯覚するほどにうらびれた空気が満ちている。
にもかかわらず、今夜は席の半分が客で埋まっていた(半分といっても、六席しかないのだが)。
どうやらレーヴェンザール守備隊に志願した義勇兵であるらしい若者が二人、酔いの回った濁声で笑い合っている。その奥では頭頂部まですっかり禿げ上がった老人がひっそりと、大きな木製の酒椀に満ちた麦酒を煽りながら座っていた。
老人と言っても、それは吹けば折れてしまうような枯木のような人物ではない。
低い背をさらに縮めるように背を丸めてはいるが、酒椀を握る指は太く、ごつごつと角ばっており、ところどころに油染みの目立つ安い綿布の服は筋肉で膨らんでいる。禿げ上がった頭部とは反対に、ふさふさとした白い眉の下にある瞳には力すら感じさせるほど強い光が灯っていた。
酒椀を呷り、眉よりもさらにぼうぼうと伸びて垂れ下がっている顎髭に酒を滴らせながら、まるでこの世の何もかもが気に入らぬとばかりに顔を顰めている彼の様は一見する限り、童話に登場する鍛冶精霊を彷彿とさせた。
それは当たらずとも遠からず、彼、オラフ・クレーマンはこのレーヴェンザールでも名の通った鍛冶屋であった。ただし、名の通っている理由は鍛冶屋としての腕が格別優れているからではなく、今の彼の様子を見れば分かるように偏屈な老人としてであった。
「おい、親父。この酒、なんか味が薄いぞ、水でも混ぜてんじゃねぇのか?」
静かに酒を舐めている彼の横で、景気よく杯を干した若者の一人が長卓の上に椀を叩きつけながら店主に突っかかっていた。紅潮した頬と、下の回り切っていない発音からは、味が薄いと言いつつも相当酔っているように見える。
「味が薄いくれぇで、文句を言うんじゃねぇよ。今がどんな状況か分かってんのか? 酒出してやってるだけ有難いと思えねぇのか、若造」
それに、店主が陰気な声を上げた。いじけたようにぼそぼそとしゃべる男だった。店主の態度に、若者は椅子を蹴り倒すようにして立ち上がる。
「なんだ、この爺!! 俺は命を賭けてこの街を〈帝国〉軍から守らんとする、レーヴェンザール守備隊の義勇兵だぞ!! その俺様に水を混ぜた酒を出すなんて、随分と感謝の心が足りてねぇんじゃねぇか!?」
「うるせぇ、うるせぇ。一体、いつ、誰が手前に守ってくれなんて頼んだよ」
怒鳴る若者に、店主は影に引きこもるようにして曇った水晶椀を磨きながら、口をもごもごと動かした。その口調はもはや対話と呼ぶよりも、陰口を呟いていると言ったほうが近い。
「だいたい、守れるわけねぇじゃねぇか……手前は街の外を見てねぇのか? あんな大軍相手に、どうやって街を守るっつうんだ? 手前なんか、〈帝国〉兵に会ったら、あっという間に殺されて終わりよ。殺されちめぇ、この馬鹿が」
店主の声には呪詛の響きがあった。
ふりまかれた悪意は際限なく拡大する。若者はさらに激高した。頬だけでなく、額まで真っ赤に染めた彼は、長卓を挟んで店主へと詰め寄った。
「まずは手前からぶっ殺してやろうか、この爺!!」
「おい、よせよ、馬鹿」
彼が拳を握りしめたところで、隣にいたもう一人が止めに入った。彼に付き合って飲んでいたはずだが、顔と声には理知が残っている。
「こんな場所で、市民相手に暴行騒ぎでも起こしてみろ。連帯責任で今後、お前の班全員の自由行動が制限されるぞ」
相棒を止めた彼の言葉は淡々としていた。
「恨まれるぜ。もしかしたら、〈帝国〉兵と戦う前にあのおっかねえ曹長殿にぶっ殺されるかもな」
感情を忘れたような口調でそう言い終えた彼は、苦しそうに酒精のたっぷりと混じった息を吐き出した。どうやら、酔っていないわけではないらしい。酔えば酔うほど醒める性質なのかもしれない。
相棒の態度に立ち上がっていた男は面白くもなさそうに舌打ちをすると、転がした椅子とは別の席にどっかりと腰を下ろした。
「まぁいいさ。爺、いじけたいなら、好きなだけいじけてろよ。だが、一つだけ良いことを教えてやる。いいか、秘密だぞ。俺が言ったなんてことは絶対に誰にもいうなよ?」
腰を落ち着けた途端、酒に酔った者特有の素早い感情の切り替えを見せた男が得意げな声で、もったいぶるようにそう言った。酔客の相手に慣れている店主は、心底面倒くさそうな表情を浮かべながら、彼を無視し続けている。当然のように、彼はそれでも話を続けた。
「いいか、俺たちがあと一月、ここで持ちこたえればな、援軍が来る。そうなれば、あの街を囲んでいる〈帝国〉軍なんざ一網打尽だ。知ってるか? この〈王国〉には80万の予備役がいるんだぜ?」
彼が自信満々にそう言い終えるとともに、店主が失笑を漏らした。その横で酒椀を呷っていたクレーマンは、思わず吹き出しそうになる。
援軍? 来るわけねぇだろ。馬鹿が。
クレーマンは吹き出したい気持ちを懸命に抑えながら思った。彼は80万の予備役をたちどころに動員する魔法がこの世にあると信じ込めるほどに純粋ではない。
軍がレーヴェンザールに籠城してから、もう一月だぞ。その間にあのいけ好かねぇレーヴェンザール侯爵から何かしらの発表があったか? 何もない。つまり、何の報せも届いてねえってことだ。上級司令部からも、王都からも。あったとしたら、隠す理由がない。どうせこいつは、上官殿がまことしやかにささやいたことを信じ切っているだけだろう。それが兵の士気を保つための演技だとも知らずに。
市民に教えない理由? 簡単だ。こいつみてぇな馬鹿が勝手に吹聴して回ってくれるからだ。
「おい、馬鹿野郎」
相棒が焦ったような声を出した。
「お前、それは絶対に他言するなって言われてたろ。司令直々の命令だって」
クレーマンは心の中で、腹を抱えて笑った。信じている馬鹿がもう一人いたからだった。
こういう馬鹿真面目は嘘に信憑性を加えるのに役立つ。実際、長卓の向こう側にいる店主は微妙な表情を浮かべ始めていた。権威と言うものは、事情をよく知らぬ者に嘘を信じ込ませる時ほど強く働く。だが、その店主の反応が予想よりも淡泊だったのか、白けたような顔になった若者は、相棒に向けてどうでも良い話題を振った。
「ところでよ、その司令殿を見たか、お前」
「ああ、思ったより若くて驚いたよ。階級は少佐らしいが、優秀なんだな、たぶん」
それに、酷く納得したような表情をしながら答えた彼へ対して、クレーマンは憐れみに近い感情を抱いた。
クレーマンは鍛冶屋になる以前は、軍に下士官として籍を置いていた。であるからこそ、軍がどれほど規律と伝統を重んじるのかをよく知っている。その規律と伝統を守ることこそが、彼の軍での仕事であったからだ。彼が知る軍の常識に当てはめてゆけば、現在レーヴェンザールが置かれている状況について、ただ兵役を終えただけの一般人などより遥かに精確に理解できた。
そもそも、かつては要塞であった(いや、軍事的に見れば現在でも要塞に違いないのだが)旧王都、レーヴェンザールの防衛司令に少佐を据えた時点でおかしいのだ。よほど人手が足りない限り、法制度と規律によって成り立つ組織は前例のない人事や決定を嫌がるものだ。
だが、そこに〈帝国〉軍主力による完全包囲下という現状を付け加えると、驚くほど単純な話に見えてくる。
つまるところ、彼らの司令とやらはよほど要領の悪い奴か、そうでなければ嫌われ者。そんなところだ。
クレーマンはそう決めつけた。
大体、本当に人望がある将来有望な将校ならば、こんな十中八九死ぬだろう任務に駆り出されなどしない。可哀そうな奴だ。その司令も、こいつらも。こんなところでくたばるなんてな。
そこまで考えたところで。
そういえば。
クレーマンはふと思った。
何故。俺は残っているのだろうか。
その自問があまりにも下らないものだったせいか、本当に吹き出してしまった。慌てて店主と一方通行のやり取りをしている若者に目を走らせる。誰も自分を見ていない。老人が酒を喉に詰まらせて咳きこんだだけ。そう思われたらしい。
ほぅと息をついたクレーマンは、口髭に隠れている口角をつり上げたまま、ぬるい酒を喉に流し込む。髭を伝って、気のすっかり抜けた麦酒が滴る。
ああ、そうだ。全ては今さら。後悔は常に遅い。下らねえ。
笑い出したい気分になった。王都では恐らく貴族たちがしかめっ面で向かい合いながら、ああだこうだと、どうでも良い議論に時間を費やしているだろうことが確信できたからだった。
そうだ。いつだって奴らは遅い。ようやく腰を上げた頃には、何もかもが手遅れだ。いや、手遅れだった。今回もどうせ。
クレーマンの耳にその言葉が届いたのは、彼がこの世の全てを嘲るような笑みでぬるい麦酒を飲み干した時だった。
「後は、おっかない目つきの人だった。まるで、この世の何もかもを恨んでいるみたいな……」
「それだがな」
司令の凶相を思い返したのか、身震いをした相棒に向かって、先ほどまで店主とやり合っていた若者が得意げに指を立てながら、やはりもったいぶったような口調で言った。
「あの司令、噂じゃあ、17年前の南部〈帝国〉軍襲撃から生き残った一人らしいぜ」
「なんだと」
彼の一言に応じたのは、目の前の相棒ではなかった。重々しく底響きのする、力強い声であった。店内にいた誰もが、その声の主に振り向いた。
それまで店の隅で酒を啜り続けていた老人が、矍鑠と背筋を伸ばし立ち上がっていた。
禿頭の下にある、白い眉と髭に包まれたその顔には、驚きと深い懊悩が浮かんでいた。




