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負傷者の運び込まれるレーヴェンザール市街中央の広場に敷かれた白い石畳の上は、昨日までとは比べ物にならぬほどの赤が塗りたくられていた。全周30ヤードほどの、円形の広場に寝かされているのは、もはや自分で立つことすらままならぬほど傷ついた者たちばかりであった。砲弾の炸裂によって腕や足を吹き飛ばされた者。飛散した弾片によって眼球を抉られた者。全身の皮膚が目の粗い金ヤスリで削がれたかのようにずたずたに引き裂かれている者。人としての形を失ってなお、肉体と言う牢獄に囚われ続ける生命の悲惨さを物語るために描かれた絵画のような光景。
広場に面している白石造りの教会の内部もまた、同様の地獄絵図が広がっていた。治療施設として開放されている教会の講堂には、神からの赦しでも情けでもなく、肉体的な救いを乞う羊の群れがひしめき、苦悶の呻きを上げている。礼拝の際に信徒が座る木製の長椅子の上には全身の至る処に血の滲む包帯が巻かれている兵が寝かされ、神父が説教を行うために立つ聖壇の上には即席の治療台として使われている長机が三つ、血を滴らせながら並んでいる。狭い通路内を軍医と療傷兵たちが慌ただしく駆け巡り、痛みを訴える絶叫の下へ向かっていく様は戦場と何ら変わることが無い。
治療台の上に、新たな負傷兵が運び込まれてきた。屈強な体躯の男で、療傷兵が三人がかりで台の上に持ち上げる。胸と腹に空いた穴から夥しい量の血が流れだし、もはや自身では痛みも訴えることができないようだった。
「軍医殿!」
彼の血によって空色の軍服を真っ赤に染めた療傷兵の一人が、近くを通りかかった軍医を呼び止めた。新しい包帯や鈍く光る治療器具を両手に引っ掴み、患者の下へと急いでいた軍医が迷惑そうな顔を彼に向ける。
「どうした」
軍医はその療傷兵、若い、未だ青年にもなっていないような兵に向かい、剣呑な声を発した。
「彼を診てやってください! 胸と腹に破片を受けていて、止血を試みましたが、血が、血が止まらないんです!」
泣き出しそうな顔で縋る療傷兵の顔から目を逸らした軍医は、治療台の上に寝かされている兵の顔色と傷口をさっと確認した。諦めとも、疲れともとれない吐息を漏らす。その後で顔を上げた軍医は、さほど広いとは言えない講堂を見渡した。空いている一角を見つけ、片手で指し示す。
「あそこに寝かせておけ。その台には先約がいる」
彼の一言に、若い療傷兵は顔面を蒼白にさせた。
「ですが、彼は放っておけば一刻も持ちません! このままでは……」
喚きだしそうになった療傷兵を黙らせるように、軍医は持っていた包帯の束を床に投げ捨てると乱暴に彼の胸元を掴んだ。そのまま、療傷兵の瞳が自分以外を移さないほどの距離にまで顔を引き寄せる。
「いいか、そいつ一人を助けている間に五人が死ぬぞ」
それは周囲に聞こえぬよう小さく抑えられてはいるが、医術に従事する者の口から出るにはあるまじき鋭さがあった。
「で、ですが……自分と彼は、同期で、」
「だから何だ。助かるかどうかも分からない奴のために助かる奴らを見殺しにするのか。え? そんな価値があるのか、そいつには」
「いい奴なんです! 同じ月に入営して、銃兵に向かなかった自分が療傷兵に転科してからも、馬鹿にせずに付き合ってくれて、こんな、こんなところで死ぬような……こんな死に方をするような奴じゃ……」
なおも縋る療傷兵の瞳からは滂沱の涙が溢れていた。軍医は彼の胸元を掴む手に力を籠めると、治療台の上に寝かされている彼の同期と顔を突き合わせ、言った。
「じゃあ、お前助けられるか? 見ろ、胸の傷は大したことないが、腹のほうは大きめの破片が食い込んでいるらしい。内臓がいくつかやられているはずだ。出血量から見て、動脈も切れているだろう。ここまで壊れた人間はもう戻らん。少なくとも、俺の腕じゃ無理だ」
軍医の残酷な宣告に、療傷兵はゆっくりと輝きを失いつつある同期の双眸を覗き込んだ。半ば幽界へと踏み入れた彼の唇がわずかに動く。
「なんだ」
療傷兵が尋ねた。しかし、死の淵から響く声は死神以外の誰にも聞き取れはしない。それでもなお、何かを伝えようと動いていた口がやがて脱力した。失神したようだった。恐らくは、二度と醒めない夢の中へ落ちた彼を羨めばいいのか、憐れめばいいのか、軍医は判断が付かなかった。
療傷兵が泣きじゃくりだした。軍医は彼を投げ出すように離した。傍に控えていた、残る二名の療傷兵を怒鳴りつける。
「何をぼさっとしている。さっさと治療台の上を空けろ! 貴様も、いつまでも泣いているんだ! 怪我人はそいつだけじゃない! 任務を忘れるな! シャキッとしろ、療傷兵!!」
怒鳴られた二人は、弾かれたように動いた。治療台の上から兵を引き起こす。その際、ぼたぼたと傷口から塊のような血液が零れた。立ち昇った濃密な鉄の香りに、今更のように胃酸が込み上げる。へたり込んでいた療傷兵がその傷口を必死に押さえつけながら、叫ぶような鳴き声を上げていた。通路を鮮やかに濡らしながら運ばれてゆく彼はもはや半刻と持つまい。
畜生。
軍医は叫び出しそうになった。
分かっている。分かっているんだ! 俺だって、できることなら助けてやりたい!
だが、無理なんだ。
人手が足りない。薬が足りない。包帯も、必要がなくなった者から剥いで、洗いなおして使わなければとてもでは無いが数が足りない。一寸でも時間を無駄にすれば、瞬く間に死人の数が跳ね上がるこの状況で、全ての命を平等に扱うことなどできない。
軍医は床に投げ捨てた包帯の束を拾い上げながら、奥歯を噛み締めた。
畜生。俺は、こんなことをするために医者になったわけじゃないぞ。人の命に値札をつけるような、こんな。
しかし、現実はどこまでも残酷だった。救うべき命には優先順位がある。手当てし、しばらく休ませれば戦線に復帰できそうな兵の治療を優先するように、という命令も受けている。命の価値は常に等価であるとは限らないのだった。
いや。
軍医はふと思った。
そもそも、命に価値などあるのか。
東門陣地での必要事項の確認や指示を一通り終えたヴィルハルトは再び市街まで戻ってきていた。亡者の呻きが満ちる、冥界の入口のような広場へ一歩踏み入れた彼は、対面から自分へ向かってくる影を認めた。周囲に焚かれた篝火や、教会から漏れてくる明りだけではその顔を見て取ることはできないが、頑強な体躯とずっしりとした歩みを見れば、誰なのかなど問うまでもなかった。
「司令」
独立捜索第41大隊から引き続き、レーヴェンザール守備隊でも最先任下士官を務めているヴェルナー曹長はヴィルハルトの前に立つとすっと背筋を正し敬礼を送った。答礼を返したヴィルハルトは、気安い口調で彼に尋ねる。
「ご苦労。予備隊の訓練はどうだ、曹長」
「射撃に関しては、どうにか様になりました。ですが、それ以外については正直、責任が持てません」
誤解の余地を残さないヴェルナーからの報告に、ヴィルハルトはむしろ微笑みを浮かべて応じた。
「白兵は?」
「義勇兵に望むのは酷ですな。レーヴェンザール衛兵隊にしても、彼らが今まで相手にしてきたのは酔った暴漢が関の山です。とても〈帝国〉兵相手に立ち回れるとは。どこまでまとめて使うしかないでしょう」
「それでは困るな。彼らは後備えだ。投入される頃には市街戦になっている可能性が高い」
「では、使い方次第でしょうな」
自分は門外漢だとばかりに、ヴェルナーは話題を打ち切るように言った。その遠慮容赦ない口振りに、ヴィルハルトは喉の奥を低く震わせた。
使い方次第、か。つまりは俺が立派な指揮官ぶりを示すよりないと。まったく。兵にはいい迷惑だろう。まさか旧王都、城塞都市レーヴェンザールの防御指揮官が、たかが少佐に任されるとは。いや、まぁ。
そこまで思ったところで、どうして自分はここまで非常識な軍命にも、忠実に従っているのかという疑問が過ぎった。すぐにそんなことを思い浮かべた自分を嘲笑う。
何を馬鹿な。今更。あの状況で他にやりようもなかったではないか。
いや。
ヴィルハルトには分かっていた。自分が、心のどこかでこうなることを望んでいたことを。
そして、自分が現状を心の底で楽しんでいるということも自覚していた。無論、今自分が立たされている立場を理解していないわけではない。
籠城した都市の全周を20万から成る圧倒的な敵軍に囲まれ、撤退も降伏も許されず、どう考えたところで生還の望みは皆無。
だというのに。
これからどうなるだろうか。そう考えるたびに、心がどうしようもなく躍るのだ。
間違いなく悪戦になるだろう。苦戦になるだろう。そしてどこまで足掻いても勝利など望むべくもない。だが。ただ殺されてやるつもりはない。そんな気は毛頭ない。
〈帝国〉軍。皇帝。地上における神権の代行者か。よろしい。素晴らしい。最も頼みにするものが暴力であるところが何よりも。
であるならば、俺が同じ手段をもって愚行を演じたとしても、一体だれが非難できるというのだ。
ただ追い立てられ、追い詰められ、家畜のように屠殺されてゆくなんて絶対に嫌だ。たとえ、このレーヴェンザールを地上から消し去ることになっても。たとえ、この身が塵と帰しても。誰も彼もに思い知らせてやる。
――何を、馬鹿な。
深みへとはまり、次第に先鋭化していく思考が唐突に切れた。己が今、何を考えたのかを自覚したからであった。
時を同じくして、広場の一角から悲鳴が上がった。いや、それは悲鳴ですらなかった。意味をなさぬ高音の羅列と言った方が適切だった。
ヴィルハルトは声のした方向へ顔を向けた。そこにあったのは血みどろになった両腕をばたばたと降りながら、奇怪な絶叫を上げ続ける兵の姿だった。どうやら先ほどの悲鳴は、全身を苦痛に苛まれていた彼の精神が崩壊した音であったらしい。
暴れている兵の下へ、療傷兵たちが慌てたように駆けよった。数人がかりで暴れる肉体をどうにか押さえつけようと必死になっているが、恐慌に陥った兵の腕力は凄まじい。暴れたせいで傷が開いたのか。瞬く間にその足元が新鮮な赤で染まってゆく。やがて、療傷兵たちは一人、また一人と諦めたようにその場を後にした。
しばらくすると、広場には再び淀んだ静けさが戻ってきた。この世での最期を恐怖と苦痛によって看取られた、哀れな男の遺体の傍らで、一人残っていた療傷兵がゆらりと立ち上がった。
「予備隊の訓練もそうですが。どこも手いっぱいのようですな」
酷く疲れた足取りで歩く療傷兵の背中を、憐れむように見ていたヴェルナーがぽつりと言った。ヴィルハルトはただ頷いた。
人手が足りないのは当然だった。
日々、失われゆく物資。日々、喪われゆく人員。目減りはしても、増えることだけは決してない。ありとあらゆるものが、殺戮のためだけに投じられてゆく。今、戦友の命を救おうと懸命になっている軍医や療傷兵たちの努力ですら、そうした流動の一環であった。
命の価値が暴落した戦場で、その価値について考えることほど虚しいことはない。
本来、経済とは人や財貨の流動と循環によって付加価値を生み成長するものであるにもかかわらず、戦争が大規模な経済活動だと定義される理由は偏に、その高級品が大廉売されるという一点に尽きるのだ。
戦争の本質とは無意味である。勝敗ですら、当事者たちの漠然とした認識と損害の多寡によって判定されるのだ。そうして生み出されるものは悲劇のみであり、そこで失われる命にはやはり意味もなければ価値もない。
だが、どこかでそのことを理解してはいても、彼らはその無為に耐えるより他にない。
この世は未だ、理想郷とは程遠いのである。
本年最後の投稿になります。
拙作をお読みくださいました読者様方、評価やブクマ、感想を頂きましたみなさまに心より感謝を。
来年もどうか、拙作にお付き合い頂ければ幸いです。
次回更新は、一月の2週目くらいなるかと。
では、よいお年を。




