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王宮の一室で、国家重鎮たちによる国防会議が行われていた頃。
リトガー・ルイスバウムは、王都の表通りを酷く疲れた足取りで歩いていた。
よれよれになってしまっている着衣から突き出すように伸びる首の上に載っている、ただでさえ血色の悪い顔と、数歩踏み出すごとに足を縺れさせて晋彼の有様はさながら重病人のようであった。
しかし、不思議と往来を行く人々の視線が彼に集まることはない。それはリトガーが周囲に溶けこむよう自身を演出する術に長けているからであった。でなければ、彼は二度と生きて祖国の地を踏むこともなかっただろう。今の彼は一見する限り、大都市であれば一人は居て然るべき人生の落後者として周囲に認知されるよう振舞っていた(ふらつく足取りが本当に演技かどうかは別として)。
大通りに面した白石造りの建築群の中で、リトガーが足を止めたのはとある商会の社屋として使われている建物の前であった。木製の、大きな両開きの扉の上にはその商会の屋号が刻まれた看板が掲げられている。彼は眼鏡の下にある切れ込みのような細い目で、その“クロイツ商会”と書かれた看板を一瞥すると、押し入るように扉を開けた。
クロイツ商会は、〈王国〉でも有数の大商会である。元々は商会ではなく、石工職人たちの寄り合いに過ぎなかったのだが、それが今や、本職である石材加工はもとより、鉄鋼品の製造や販売、流通に始まり、為替に至るまで、ありとあらゆる商いに手を伸ばす大商会となったのは、現会長フェルディナント・クロイツの熱意と尽力、そして何よりも〈王国〉の先王が推進した平民に対して幅広い権利を認める政策による賜物であった。特に、彼らの事業拡大を大きく後押ししたのは貴族により独占されていた市場の開放、中でも他国商人との商取引、つまり交易を行うことが平民出身者にも許されたことだろう。彼らがここまで大きく事業を拡大させた第一歩は、石材の交易によるものであったからだ。
言わずもがな、〈王国〉は大陸世界の北半分にある国家群の中で大河に橋を建造した唯一の国家であった。無論、〈西方諸王国連合〉も〈帝国〉も大河に橋を架けるための架橋技術がないのではなく、政治的な理由によって不可能なであることは語るまでもないため、それが〈王国〉の架橋技術が他国よりも優れているという証明にはならない。だが、石工の石材加工技術という点に絞ってみれば、その意味は異なる。
技術とは即ち、経験と実践の積み重ねに他ならない。全長一リーグ半にも達する巨大な石橋を作り上げるまでの二十余年、ひたすら石を切り出し、研磨し続けてきた〈王国〉の石工職人たちの技術は、大陸世界随一と呼ばれて恥じることのない境地へと達していた。
さらに城や聖堂などの建材として好んで用いられる白石の中でも、〈王国〉北東部の山々から産出されるものはその上質さを周辺国に広く知られていた。そこに彼らの高度な技術を加えた石材は買い手に事欠くことがなかった。
こうして一財を成した彼らだったが、しかし当時はまだ石工職人の組合に過ぎなかった。だが、その時期に父の後を継ぎ会長へと就任したフェルディナント・クロイツの商才と手腕が相まったことにより、クロイツ商会は貴族が出資している商会と比べても何らの遜色もないほどの規模へと急成長を遂げたのだった。
クロイツ商会の本部社屋の扉をくぐったリトガーは、受付の男性に警戒するような顔をされながらも(今の彼の身なりは金策に失敗した田舎商人か、ろくでもない商売のために融資を無心しにきた輩にしか見えないからだった)、一人の人物を呼び出した。その名前を聞いた受付の男性は、さらに顔を怪訝そうに顰めたが、リトガーがその人物との関係を説明すると、一瞬でその相好を崩した(同時に、彼が安堵を浮かべていたこともリトガーは見逃さなかったが)。
やがて、リトガーの呼び出しに応じて建物の奥から姿を見せたのは福々しい体格の男であった。彼は、リトガーを一瞥するなり酷く不機嫌そうな顔になった。
「お呼び出し頂いた、クロイツ商会本部長のテオドール・クロイツですが。本日はわたくしになんの御用でしょうか」
口にした言葉以外には微塵の敬意も礼節も含まれていない口調で、彼、現会長のフェルディナント・クロイツの一人息子であるテオドール・クロイツはリトガーに言った。
「酒をくれ。安くていいから、度が高い奴を」
リトガーは彼のそんな態度を気にする風もなく、着衣の物入れを探り銅貨を数枚取り出すと、投げつけるようにテオドールへと渡した。それに、彼はさらに顔を渋くする。
「そう申されましても。御覧の通り、ここは商店ではなく、我が商会の本部施設であるので。商品の仕入れや発注、倉庫にある商品の管理などと言った業務のみを担当しており、小売りは行っていないのですが」
答えたテオドールの声は、恐ろしいほどに感情の含まれていない棒読みであった。
「客の求める品をなんでも用意してみせるのが商会の仕事だろうが」
それに横暴そのものの態度で応じたリトガーに対して、彼は遂にこらえきれないとばかりに肩を怒らせながら息を吐き出すと、態度と表情を一変させた。それなりに端正な面立ちに博労のような野卑さを浮かべ、リトガーに着いてこいと顎で示すと社屋の奥へ向けて歩き出した。それがこの友人であるテオドール・クロイツの本性だと知っているリトガーは、特に驚きもしなければ気分を悪くすることもなく彼に従った。
「我が商会に貴様の不景気な面を見せるなと、何度も言っているだろうが」
商会社屋の奥まった一室にリトガーを案内したテオドールが、剣呑に喉を鳴らしながら彼を睨みつけた。
そこは本来、商談などを行うための部屋であるらしく、さほど広くない正方形の室内には背の低い机を挟むように革張りの長椅子が一対置かれている。リトガーはテオドールからの罵るような言葉にもとりあわず、長椅子の片方に全身を投げ出すようにして座ると言った。
「いいから、何か酒をくれ」
「おい。貴様、ここが酒場にでも見えるのか」
「どうせ、一本、二本なら用意があるだろう」
彼の兎にも角にも、まずは酒だと呟いた彼に、テオドールは憤懣やるかたなしといった様子で鼻を鳴らす。リトガーはそんな彼に向けて、だらけきった姿勢のまま懇願するような声を出した。
「頼むよ。祖国のために一命を賭した任務に臨んで生還したばかりの士官学校同期生を労ってやろうというくらいの心意気はないのか」
それを聞いたテオドールの顔から、険しさが消えた。興味深そうな表情になる。
「そういえば、貴様と会うのは二年ぶりか。どこに行っていたんだ?」
「酒」
テオドールからの質問には答えず、リトガーは遂に全身を長椅子に埋めんばかりに倒れ込むと片手を振り上げながらそれだけを答えた。テオドールはすっかり怒気の晴れた顔つきのまま、ふむと顎を揉んだ。やがて、入ってきた扉とは反対側、この応接室からさらに奥にある一室へと入っていく。そこは彼の執務室だった。テオドールは入って右手の壁側に据えられた棚に置いていた酒瓶と水晶椀を二つ持ち上げると、応接間へ戻った。
失神したように長椅子の上で伸びているリトガーの前へ水晶椀の一つを奥と、酒瓶から琥珀色の液体を注ぐ。芳醇な蒸留酒の香りが室内に立ち込めるなり、リトガーの頭が弾かれたように持ち上がる。液体が杯を十分に満たした途端、獲物に飛び掛かる海鳥のような俊敏さでリトガーはそれに飛びついた。音を立てながら、あっという間に飲み干すと水晶椀を机に叩きつけるようにして置いた。
「足らん」
「おい。こいつは西方諸国の多くで王室御用達に選ばれている酒だぞ。もう少し味わって飲んだらどうだ」
無遠慮にも過ぎるリトガーからの一言に、呆れたような声で言いながらテオドールは酒瓶を差し出した。その銘柄は、先ほど自分が投げつけた銅貨数枚などではとても足らないと知っていつつも、リトガーは酒瓶をひったくるように掴むと再び杯を酒で満たす。やはり、一息で飲み干した。長く息を吐きだす。
「で、どこに行っていたんだ?」
ようやく落ち着いたらしい彼に、テオドールが尋ねた。
「帝都だ」
リトガーはそれにさらりと、短く答えた。
「父上たってのご要望でな。帝都にある我が国の領事館に、交易局からの出向という形で赴任していた」
「なるほどな」
無論、彼の家の名が示すようにそれは表向きの理由である。その程度のことは知っているテオドールは、ただ頷いただけであった。どのような商売であれ、他言できぬ事柄もあることくらいは理化しているからだった。
「戦争が始まって、命からがら〈帝国〉領から落ち延びた後は、西方諸国領を散々回り道して今朝ようやく王都に着いたばかりだ」
「で、帰ってきてみたら祖国は滅亡寸前か。それはご愁傷様」
三杯目を水晶椀に注ぎながら言ったリトガーに、テオドールはさして付き合いもない隣人の不幸に一言述べるようなそっけなさで応じた。
「で? 何しに来たんだ一体。まさか、本当に酒を飲むためだけに来やがったのか」
「そうだよ」
リトガーは、今度は舌の上で酒を転がして味を楽しみながら、恥じる様子もなく頷いた。
「俺が収集した情報はすべて、父上に報告してきた。職責という点から見れば、すでに十分以上に果たしたはずだ。昼から酒の一杯くらいひっかけたところで、誰からも文句は出ないはずだ」
言いつつ、三杯目も飲み干す。久々に酒など飲んだせいか、或いは疲労故か、すでに好い加減になってきていた。彼は細い目をぼんやりとさせながら、対面に腰を下ろしたテオドールを見て、ふと思い出したようにこの場にはいない同期生の名を口に出した。
「そういえば、シュルツの奴はどうしている?」
続きは日曜日までには何とか……




