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読者のみなさま、常からのご愛読、誠にありがとうございます。
大変申し訳ありませんが、今回の話をもちまして一週間ほどお休みさせて頂きたいと思います。
来週始めぐらいには投稿再開できると思います。
何卒、ご容赦を。
翌朝、誰よりも早く起床したヴィルハルト・シュルツによって強制的に夢の楽園から帰還させられた〈王国〉軍独立捜索第41大隊の将校たちは、東部方面軍司令官、アーバンス・ディックホルスト大将の不在とその理由について知らされると、一様に渋面を作った。
「お見事ですね。こうも鮮やかに祖国が滅びる一手を打たれるとは。それも、〈帝国〉軍にではなく、まさかの身内から」
皮肉たっぷりにそう言ったのは、エルンスト・ユンカース中尉だった。取りあえずとして用意されている木机に着いた彼の対面に座っていたアレクシア・カロリング大尉が、その言葉を諌めるように咳払いをする。
「では、現在、防衛線の指揮を執っておられるのはシュトライヒ少将であると」
彼女の問いかけに、ヴィルハルトは頷いた。
「そうだ。閣下はロズヴァルド、トゥムラー両中将より遅滞防御部隊指揮官を命じられている。我々も、その指揮下に入ることとなるだろう」
「後方にはまだ第三次線が残っておりますが、そちらに居る部隊はどうなるのですか?」
「一部の部隊が損害の穴埋めとして送られて来る他は、どうやら最終防衛線まで後退するようだ」
「その最終防衛線はどうなっているのですか」
アレクシアが、怒気の籠った声で尋ねた。
「第3師団はいまだ健在な筈でしょう。それに東部方面軍には、中将があと一人いらっしゃいます。第6師団のオイゲン中将閣下は、」
「ディックホルスト大将を戦地から追いやったあの二人が、同じ平民出身者である中将を放っておくとでも思うのか」
いきりたつアレクシアを、ヴィルハルトが淡々とした口調で遮った。
「恐らく、閣下とともに王都へ送られたのではないだろうか。でなければ、シュトライヒ少将に命じた者の中にオイゲン中将の名前が無い事の説明が付かない。元々、第6師団は各防衛線に隷下部隊を振り分けていたからな。第三次線で指揮を執っていたオイゲン中将の周りに味方は少なかったはずだ」
彼は木机を指で叩きつけならば、計算式を解くような表情で続けた。
「それに、いくらシュトライヒ少将が遅滞防御部隊指揮官に任じられているとはいえ、閣下以上の階級にある者へ命令はできない。とにかく、分かっているのは現在、東部方面軍における最上位の指揮権を有しているのはあの二人の中将だということだ。そして、彼らが積極的にシュトライヒ少将を支援するとは思えない」
「苦労人ですねぇ。シュトライヒ閣下も」
大隊に残った唯一の少尉であるクリストフ・ラッツにすら椅子が与えられている中で、一人だけ立ちっぱなしだったエルヴィン・ライカ中尉が同情するような溜息を洩らした。
文字通り泥のように眠っていたところを、ヴィルハルトによって文字通り叩き起こされた彼は、三日三晩の激務の後であっても睡魔からの誘惑をあっさりと跳ね除けたらしい上官を見て、「この人、本当に人間か」という余計な言葉を口走ったため、椅子を取り上げられていた。
「ともかく。俺たちはディックホルスト閣下が向かわれた三軍司令官の協議とやらが終わるまで、ここで可能な限り〈帝国〉軍の足止めをせねばならない。これは決定してしまった状況だ」
ヴィルハルトが決めつけるように言った。
「戦争が始まってから、そんな任務ばっかりだ」
エルヴィンが肩を落とした。
「負けているからな、我々は」
ユンカースが当然の事実を口にした。
天幕内に重苦しい沈黙が満ちた。
「シュルツ少佐」
沈黙を破ったのは天幕内の誰でも無かった。
ヴィルハルトを呼ぶ、そのぶっきらぼうな声は天幕の外から聞こえた。
声の主が誰であるのかをすぐに悟ったヴィルハルトが急いで外へ出ると、そこにはやはりライナー・シュトライヒ少将が立っていた。
完全武装の出で立ちで、周囲には参謀たちを引きつれている。
もっとも、将官ともなれば完全武装などといったところで、せいぜい軍剣を腰に吊っている程度のものなのだが、それでもシュトライヒの覚悟はヴィルハルトに伝わった。前線へ赴くつもりなのだろう。
「閣下」
ヴィルハルトは背筋を正し敬礼を行った。やはり、ぞんざいな答礼でシュトライヒが応える。
「今日は朝から〈帝国〉軍どもの動きが活発でな。そろそろ、わし自身が出向いて指揮を執らねば、士気が崩壊しかねん。まったく、後方の第三次線から送られて来る増援を待っとる暇もない」
「はい。自分の大隊もお供いたします」
ヴィルハルトは素早く応じた。
シュトライヒからの返答を待たずに、背後に並んでいる部下たちへ頷きかけた時だった。
彼の予想を裏切る言葉が、シュトライヒから発せられた。
「いや、貴官の大隊は後退せよ」
「閣下?」
ヴィルハルトは顔から表情を消すと、尋ねた。
まるでお気に入りの玩具を取り上げられた子供のような彼の態度に、シュトライヒは居心地が悪そうに身体を揺すった。
「何故です、閣下。閣下には今、一兵でも多くの戦力が必要でしょう。それに、閣下には周辺の友軍全将兵を指揮下に加える権限があるはずでは」
ヴィルハルトが詰め寄るように質問を重ねると、シュトライヒは頷いた。
「無論、その権限は在る。だが、それを行使するかどうかの判断はわしに委ねられておる。であるならば、隷下部隊の一つや二つ、指揮下に加えずに後退を命じたところで命令違反にはならぬ。そう、わしは遅滞防御部隊指揮官というこの任務をそう解釈しておる」
そこで一度言葉を切ると、彼はふっと小さく呟いた。
「何故、か。何故だろうな」
そしてシュトライヒは、ヴィルハルトの質問に独白するような口調で答えた。
「正規編成でもない実験部隊だった大隊一つで、ここまでやってのけた。貴官と部下たちは求められた責務を完璧以上に果たしたはずだ。というのが、まず一つ」
そして、後悔しているような感情を顔に浮かべながら、その老将は続けた。
「もう一つは、まったく個人的な感傷以外の何物でもないが、長く過ごした祖国が滅びる様をただ黙って見ていたくはない」
シュトライヒは固まっているヴィルハルトへと顔を向けた。その凶悪な、この世の全てを呪っているような目つきを正面から見据え、言う。
「わしの旅団の生き残りを貴官に付き添わせる。一個連隊しか残っておらんが、連隊長は既に戦死している。大隊長の生き残りが二名いるが、階級上の面倒が無いようにわしが言い含めておいた。彼らを連れて、レーヴェンザールまで後退せよ」
ヴィルハルトは成金から賄賂を押しつけられた役人のような顔になった。シュトライヒから向けられている、得体のしれない好意にヴィルハルトは戸惑っていたのだった。連隊一つを預けるなど、果たしてこの上官が自分に何を求めているのかが分からなかった。
「ですが、閣下。自分はただの少佐に過ぎません……」
「少佐!」
食い下がったヴィルハルトに、シュトライヒの後ろに控えていた参謀の一人が鋭い小声を出した。
「閣下のお気持ちが分からんか!」
彼は、自分の腰に吊っている軍剣に触れながら言った。従わなければ斬り殺すと言わんばかりの剣幕であった。
「しかし、中佐殿。友軍を見捨てて逃げるような真似は」
それでもなお、ヴィルハルトが引き下がらずに何かを言おうとした時だった。
「わしは無能だった」
シュトライヒの、乾いた呟きが聞こえた。
それは己の人生、その全てを総括するかのような独白であった。
「わしは無能だ。今まさに滅びんとする祖国の為に、この一命を捧げる以外の方法が思いつかない。別に望んで今の地位に就いたわけでも無かったが、とても将軍閣下などと呼ばれてよい人間では無かった」
静かに言った後、彼はヴィルハルトを力強く見つめた。
「だが、貴官は違うとわしは思う。たったの三年でこれほどまでに精強な大隊を作り上げ、地の利があったとは言え、あのトルクスの大英雄、ラミール・アルメルガーを相手に遅滞戦闘を成功させた貴官ならば。貴官に、その才覚に見合った地位と戦力を与えられたならば。わしとは違う方法を、わしとは違う結末を、この〈王国〉に齎すことが出来るのではないだろうかと、わしは思う」
その告白に押し黙っているヴィルハルトへ向けて、シュトライヒは穏やかな微笑みを浮かべると尋ねた。
「どうだ。シュルツ少佐。この国はもう駄目か?」
上官からの突然の問いに、ヴィルハルトはほんのわずかに逡巡するように視線を彷徨わせた後、酷く暗い表情を浮かべながら、しかしはっきりとした口調で答えた。
「まだ、やりようはあると思います」
その返答に、シュトライヒは実に満足げに頷いた。
ライナー・シュトライヒは大いなる充足感とともに、己の人生を振り返っていた。
確かに人よりも苦労の多いものだった。
士官学校で同期になって以来の友人に散々引っ掻き回されたせいで、本来の器量以上の地位に引き立てられ、責任ばかりが大きくなった。
それでも軍務に精励したおかげで、恋女房だった妻にも逃げられたし。
結果、こんなところで撤退の許されない絶望的な戦場に臨まねばならなくなった。
しかし、何故だが今の彼は、良かったことしか思い出せなかった。
出会った瞬間から「俺は大将になる」という大言壮語ばかりを吐いていた同期。
ようやく平民の入校が許されたばかりの士官学校で、何も馬鹿なと思っていたのだが、ひょんなことからこの〈王国〉で最も尊い血を引いた若き騎兵将校と知り合ったことがその運命の始まりだったように思う。
民草に分け入ることを好んでいた彼は、才能ある者たちが軍民問わず出自を理由に一定以上の職責を与えられない、平民たちの境遇に心を痛めていたらしい。
聞けば、士官学校が平民を受け入れ始めたのも、彼が父王に進言したからだった。
そして彼は野心と才能をたっぷり持った平民出身の将校と出会い、そこから始まったのは崇高な理想を掲げた馬鹿な若者たちの、一国を巻き込む馬鹿騒ぎ。
もう二度と手が届かないからこそ、決して汚される事の無い青春の日々。
そうした馬鹿騒ぎの果てに、今こうして平民どころか出自も確かではない孤児の出である、将来有望な青年将校が立っているというのは、中々どうして大したものじゃないか、わしの人生も。
この国は良い国だ。
この〈王国〉ほど、平民の権利が認められている国は大陸世界の何処にもない。もう少し、あと少し、〈帝国〉軍の侵攻が遅ければ。〈王国〉は大陸世界で初めて貴族も平民も無い、全国民が共通の義務と責任を負う代わりに、自由と平等を得る国になっていたはずだ。
その志半ばで果てたあの騎兵将校の娘が、必ずそれを成し遂げただろう。
そうなれば、この戦争も。ディックホルストも。ここまで始末に負えない事態にはならなかったはずなのに。
だが、良い。これで良い。仕方が無いとは言わない。最後に、祖国の未来を託して後悔しない人物に出会えた。次の時代は、次の世代に任せよう。
「貴官は後退せよ、シュルツ少佐」
シュトライヒは良き日々の思い出から、現実に目を戻すと言った。
「貴官は、こんな老人の自殺に付き合う必要はない。頼む。行ってくれ」
そして、この〈王国〉を。
その心の声は口にしなかった。
「閣下」
ヴィルハルトが背筋を伸ばした。
もはや、何を言ってもシュトライヒの決意は変わらないだろうと悟ったのだった。
シュトライヒは表情を正すと頷いた。
「わしが死んだ後は、貴官が遅滞防御指揮を引き継ぐのだ」
「承りました、閣下」
「さぁ、行け。急げ。何時まで持ちこたえられるか分からん。だが、誓って貴官がレーヴェンザールに辿り着くまでの間は守ってみせる」
ヴィルハルトは純粋な敬意のみで応じた。
シュトライヒに軍礼則上完璧な敬礼を送ったのだった。彼のその顔に浮かんでいるものは、唯一それだけは信じているものへの、心からの敬服に他ならなかった。
ヴィルハルト・シュルツはライナー・シュトライヒに対して、己が信仰する全てを見出したのだった。
シュトライヒは彼に、丁寧な答礼で応じた。
なおも激しさを増す〈帝国〉軍の攻勢の前に、風前の灯火だった〈王国〉軍最後衛の防衛線にシュトライヒ少将以下の司令部参謀たちが合流したのは、その日の昼過ぎであった。
最期の晩年、遂に完成を見たシュトライヒの指揮統率能力により、我が身を焼かんばかりに燃え上がる士気を取り戻した防御部隊は、〈帝国〉軍が主要侵攻経路として定めた本街道に戦力を集中。事前に構築された陣地やありとあらゆる地形障害を徹底活用し、押し寄せる〈帝国〉軍20万の濁流を〈王国〉東部の草原でせき止めた。
そして、実に半月に渡る激戦の末。
大陸歴1792年。
盛大な陽光が大地をねめつける真夏の到来とともに、ライナー・シュトライヒ少将以下20,362名の〈王国〉将兵は最後まで戦い抜き、そのほとんどが玉砕した。
辛うじて生き延びた者や、捕虜となった者が極少数いたことは確認されているが、〈王国〉軍側の戦死、行方不明者の正確な内訳を示す資料は存在していない。
だが、彼らがこの戦いで挙げた戦果は、図らずも敵によって歴史に記される事となった。
後年、〈帝国〉軍務省により編纂された〈帝国〉軍史より抜粋。
大陸歴1792年、第307次遠征。
皇太子ミハイル・ニコライヴィチ・ロマノフによる〈王国〉親征戦の初期段階、〈王国〉東部における戦いでの損害数。
戦死者、10,566名。
負傷者、21,251名。
行方不明者、4,706名。
後に〈帝国〉軍史上最優最良の将軍と謳われたリゼアベート・ルヴィンスカヤが、人生で初めて経験した数的敗北であったのではないかと主張する後世の歴史家まで出現したほどの戦いであった。
〈王国〉軍がみせた戦いぶりは、果敢な指揮官により率いられた士気の高い少数がどれほどの戦力を有するかを証明する歴史的資料として、この後長きに渡り大陸世界の軍の教書で取り上げられることとなる。
だがしかし、この後に起こる大事件が大陸世界の歴史に対して与えた影響に比べれば、それすらも年表に記される些細な一文と成り下がってしまうのだった。
第二幕もこれにて閉幕。
お楽しみ頂けたでしょうか?
続きは、作業用ノートPCがお亡くなりになったので、執筆がままならず。それでも来週中には。
更新を止めてしまい、本当に申し訳ございません。




