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凄惨といえばこれ以上無いほど凄惨な仕事を終えた後で、ヴィルハルトは己の顔を濡らしているものを服の袖で拭った。
もちろん、汗では無い。
空色を模した軍服の、拭った部分は真っ赤に染まっていた。
言うまでもなく、彼から流れ出たものでもなかった。
乱れた呼吸を整えていると、部隊の確認を済ませたらしいヴェルナー曹長が歩み寄ってきた。
「曹長、損害は?」
「戦死16名であります、大隊長殿」
ヴェルナーは囁くような小声で報告した。
「ウォーレン少尉殿がお怪我なさっていますが、それほど深い傷ではありません」
ヴィルハルトは頷いた。
16人、死んだ。
だが、仕方が無い。
〈帝国〉軍砲兵たちもただ大人しく皆殺しになっただけではないし、何よりもその前に鋭兵大隊とぶつかり合ったのだから。
それにしても、ヴィルハルトは思った。
考えてみれば〈帝国〉軍とまともな戦闘を行ったのはこれが初めてだということに気が付いたのだった。
ドライ川での戦いでも、似たような逆襲を行ったことがあるにはあるが、あの時は味方からの手厚い援護と、何よりも相手は疲れ切っていた。
ならば、16名の損害は多いのか、少ないのか。
畜生、分かるものか。
ヴィルハルトは自分を罵った。
一体、何を下らない事を考えているのだ。
死なせた部下への言い訳のつもりか、馬鹿野郎。
「大隊長殿」
同じく、敵砲兵の惨殺という仕事を終わらせた第2中隊長のアレクシア・カロリング大尉が、部下を率いてやって来た。
彼女個人の戦果を証明するように、その軍服はヴィルハルト以上に多くの返り血で染まっている。
騎士になるべくして幼い頃から訓練を受けて来たアレクシアの剣技は、ヴィルハルトなど比べ物にならないどころか、大隊一随一のものだった。
だが、血に染まってなお、美貌を輝かせているとは。
いや、血に染まっているからこそかも、とヴィルハルトはちらっと思った。
あまりにも馬鹿げた思考を弄んでいる自分に、思わず口元がにやけた。
「第2中隊、損害はデーニッツ中尉を含む、戦死21名です」
彼女の口から放たれた、努めて平静を装ったその報告に、ヴィルハルトは口元の笑みを消して素早く頷いた。
自分が認めていた者。自分に好意を持っていた者。
誰もが彼もが死んでゆく。無意味に、無価値に。
そして、感傷に浸っている暇も与えられない。
残された者は、さらに生き残るために次の行動に移らなければ。
まさに戦争。まさに現実。
「砲兵からの射撃が止んだ原因について、敵の前衛部隊が気付く前に敵前線を突破する。その前に、敵の持っていた火薬を爆破しろ。そうしなければ、すぐ別の敵に陣地を引き継がれる恐れがある」
アレクシアの報告の内容については触れずに、ヴィルハルトは次の命令を下した。
「ただし、すぐに火はつけるな。導火線を適当な長さに切って、そうだな、俺たちが駆け足で前線に着く頃合いを狙え」
「陽動を狙うにしても、目立ちすぎるのでは?」
ヴィルハルトの命令に頷きつつも、アレクシアが意見を口にした。
「それはどの道だろう。ならば、より大きな衝撃を敵に与える機会に合わせた方が良い」
「了解しました」
アレクシアは部下を何名か呼びつけると、手早く指示を飛ばした。
ヴィルハルトはそれを確認した後で、未だに後方警戒の配置についている第2中隊へ向けて怒鳴った。
「第41大隊、集結!!」
大隊長の怒鳴り声を聞きつけた兵たちが、弾かれるように駆けてくる。
「第2中隊、損害はありません」
隊の最前列へ進み出たエルンスト・ユンカース中尉が、当たり前の報告をした。
ともすれば、ヴィルハルト以上の狂気の持ち主であるかもしれない彼の表情は、やはりにこやかなものであった。
「大隊長殿、ご命令通り、火薬の爆破準備整いました」
アレクシアがそっと告げた後で、整列している自分の中隊の最前列へ向かう。
「うん」
ヴィルハルトは自らが指揮する大隊を見渡した。
たったの三日ですっかり薄汚れてしまった兵たち。
国を救うための任務を断念し、圧倒的な敵軍の真っ只中へ取り残された哀れな兵隊。
しかし、その誰一人として絶望などしていない。
今この瞬間に彼らの目に灯っているのは、大隊長と同じ戦意よりも残酷な光だった。
「よろしい」
ヴィルハルトは凶悪な顔を笑みで捻じ曲げると、実に満足げに頷いた。
さっと右腕を持ち上げると、その先を指し示しながら口を開く。
「諸君、前線はまさに地獄だ」
ヴィルハルトの伸ばした腕の先にあるのは、緑と赤の人間、そして鉄によって満たされた、圧倒的な暴力の川。
彼は軍剣を抜き放つと、地獄への渡し守のような態度で大隊へ告げた。
口元に浮かぶ笑みを隠そうともしていない。
「それでは。生きていたならば、あの対岸で会おう」
ヴィルハルトはゆっくりと、櫂を漕ぎだすように一歩目を踏み出した。
寄り添うようにヴェルナーが、すぐ後ろからはそれぞれの軍剣を握りしめたエルヴィン、アレクシア、ユンカースの三名が続く。
そして、彼らに引き摺られるようにして428名の兵が動き出す。
ヴィルハルト・シュルツを先頭にした〈王国〉軍独立捜索第41大隊は、すぐに最高速度へと達し、〈帝国〉将兵の川へと向けて進撃を開始した。
砲兵隊からの支援砲撃が途切れたことに誰よりも早く気付いたのは、〈帝国〉軍前衛部隊だった。
〈王国〉軍が立て籠もる丘の上に構築された特火点を目指し、その麓まで到達した途端に今まで自分たちの身を守っていた鉄弾の壁が喪失したのだから、当然ではある。
「どうしたってんだ! なんでいきなり砲撃を打ち切りやがった、あの間抜けども!!」
〈帝国〉軍最先鋒を受け持っていたトルクス自治領軍第1猟兵旅団は、先日での損害が大きく、現在は後方で待機させられている。
代わってその任を命じられた〈帝国〉西方領軍第66猟兵師団隷下、第177猟兵連隊に所属する軍曹の一人が、滑るように地面に伏せつつ罵声を上げた。
すぐ傍で、彼ほど早く対応することのできなかった兵の一人が、真っ赤な命を飛び散らせて斃れた。
砲撃が止むとともに、丘の上にいる〈王国〉軍部隊が一斉射撃を行ったからだった。
「砲撃地点の移動では?」
彼に従ってきた兵の一人が、やはり草むらに身を丸めつつ叫んだ。
「俺たちがまだ、敵に肉薄すらしてねぇのにか?」
軍曹は銃声にも負けぬ怒鳴り声で応じた。
大きく息をしたせいで、夏の地面から立ち昇る濃厚な草の臭いが口一杯に広がる。
思わず嘔吐感を覚え、奥歯を噛みしめた。
周囲に響く〈王国〉軍からの防御射撃が、ますます激しさを増してゆく。
沈黙しかけていた野砲も、どうやら据え直しつつあるようだ。
丘の上で一門の野砲が火を噴き、砲弾が彼らの頭上を越えて飛んでいった。
「畜生……」
敵はよほど慌てたのか、見当違いの方向へと飛んでいった砲弾にほっと胸をなでおろしながらも、地面に縫い付けられた軍曹が歯噛みした時だった。
彼らの背後で、砲弾一つ分にしては大きすぎる衝撃が、彼らを襲った。
「なっ……」
あまりの轟音に、咄嗟に振り向いた軍曹は絶句した。
彼らの背後にある草原から、勢いよく黒煙が噴き出している。
「あの、軍曹」
兵が怯えるような声を出した。
どうして、そんな小さな声が戦場で聞き取れるのか軍曹は不思議に思った。
すぐに気付く。
敵陣からの射撃が止んでいるためだった。
どうやら、驚いているのはあっちも同じらしい。
本来ならば、この上ない好機とばかりに躍進すべきであった。
だが、それは出来なかった。
放心しているのは敵も味方も同じであるからだった。
兵が震える声で続けていた。
「あの方向って、第82独立砲兵大隊が砲列を敷いているあたりじゃ……」
彼は最後まで言えなかった。どこかで、叫び声が上がったからだった。
「敵だ! 後ろから敵が来てるぞ!!」
続きは2日後。




