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国境守備隊司令部が、〈帝国〉の国章を掲げた気球の飛来と言う情報を受け取り騒然としていた頃。
「国境守備隊司令部へ向かう」
頭上を通り過ぎて行く気球船に、〈帝国〉の国章が描かれているのを目にしてから半刻。
〈王国〉軍東部大演習場に隣接されている兵舎の一室で、ヴィルハルト・シュルツ大尉は集めた大隊将校たちに向かい、そう言い放った。
彼の言葉を聞いて何人かが顔を顰めている中で、一人だけ面白そうな表情をしていたエルヴィン・ライカ中尉が口を開いた。
「うちは総司令部直轄ですが」
「ああ」
ライカの言葉に、ヴィルハルトは素直に頷いて見せる。
「だが、総司令部のあるレーヴェンザールまで80リーグは離れている」
そう答え、入り口の横に控えているヴェルナー曹長へちらりと視線を送った。
「早足でも、十日は掛かるでしょう」
ヴェルナーは、上官の意を汲んで、そう言った。
ヴィルハルトは頷いた。
「そうだ。今から向かっても、間に合わない」
「間に合わないとは?」
ヴィルハルトはその声の主に目を向ける。
すっと整った中性的な面立ち。
強い意志を感じさせる双眸。
白銀のような髪を肩口で切りそろえた、芸術作品のような美しさを持つ大尉がそこに立っていた。
アレクシア・カロリング大尉は、大隊唯一の女性士官だった。
〈王国〉の国民皆兵制度は女性にまで兵役を義務付けてはいないが、志願による入隊は認められていた。
望むのならば、士官教育を受ける事も出来る。
当然、兵役の義務がある男に比べれば圧倒的に少数であるし、士官として任官しても後方部署への配属が一般的である為、本来ならば第41大隊のような実戦部隊(まぁ、名目上ではあるが)に女性士官が居るというのは異常だった。
その理由は、彼女の生家に在った。
カロリング家と言えば、代々〈王国〉王室を警護する王宮近衛騎士団にその名を連ねる騎士の家系であり、幾度か騎士団総長も輩出している名家であった。
その扱いは、半端な貴族とは格が違う。
本来ならば、大陸世界における騎士の階級とは貴族の最下位に位置付けられているが、〈王国〉ではこれが逆転する。
国祖ホーエンツェルンが国民皆兵国家を建設した際に、その中心となったのが彼らであるからだ。
騎士は、〈王国〉における貴族の象徴に他ならなかった。
跡取りの男児を希望していた、生粋の騎士の家に生を受けてしまった彼女は父親から男として育てられた。
身体の儚い母は、二度目の出産に耐え切れぬであろうと医者から宣告されていたから、父親にとっても苦渋の選択であったのだろうが。
彼女を徹底的に男として扱い育てたその父は、貴族の果たすべき義務として軍に入隊した娘を後方勤務などに甘んじさせるつもりは無く、あらゆる手を打ったのだが、余りに破格過ぎるその家名が逆に災いしてしまった。
結局の所、家の中でどれほど男として扱われていようとも、傍から見ればアレクシア・カロリングは良家の令嬢に他ならなかったのだ。
軍の訓練は、下手をすれば死人を出す事もある。
戦闘を目的とした何処の部隊も、良家の令嬢を傷つけてしまうかもしれない危険を受け入れたがりはしなかった。
結果、こんな末端の実験部隊へとやって来た。
余りの将校不足に来るもの拒まずの部隊はここだけだったからだ。
と言うのが、ヴィルハルトが彼女について知っている全てであった。
そんな大層な家に生まれついて、何故軍隊などに入る必要があるのかだけが甚だ疑問だったが、まぁ、実力はあるので文句は無い。いささか、生真面目過ぎるきらいもあるが。
彼女には第3中隊長を任せていた。
「君は何を言っているんだ」
その育ちから美男にも美女にも見える雰囲気を纏った彼女を眺めて、ヴィルハルトは蹴飛ばすように言った。
「もちろん、〈帝国〉軍の攻撃に、だ」
余りにも簡単な問題を理解できない生徒に対して、怒りを抑える教師のような口調で彼は断言した。
「あの気球に描かれていた紋章の意味を知らないとでも言うのか」
そのあまりにあからさま過ぎる態度のヴィルハルトに、アレクシアは眉を顰めた。
「紋章の意味は理解しています。そして、あの気球が我ら〈王国〉領の領内へと降り立ったことも。しかし、風に流されてしまっただけかもしれません」
「五隻も引き連れて、ドライゼ山脈の唯一の空の隙間を潜り抜けてか?」
反論したのはオスカー・ウェスト大尉だった。
「それにあの気球は明らかに空を航行していた。……いや、飛行、とでもいうのか。この場合は」
余りにも非常識な光景を目にした後で、その事実を冷静に分析する同期を見てヴィルハルトはちらりと笑みを見せた。
当然、ウェストはそれを無視したがヴィルハルトは気にしない。
彼の言葉を引き継ぐように口を開く。
「そうだ。ウェスト大尉の言う通り、あの船は明らかに人為的に動いていた。この事から予測される事実は一つ」
「陽動だな」
ウェストが先に言った。ヴィルハルトは首肯する。
「だからあれほど派手に乗り込んできた」
彼らは目にしただけの事実を材料に、ここまで断言して見せた。
「さて。空から飛来した気球が陽動だとしたら。今後、敵の取りうる行動は?」
士官学校の教官のように、その場に居並ぶ少尉中尉達を見回してヴィルハルトが尋ねる。
「先だって侵入した一隊が可能な限り我々の目を引き付けている間に、我軍の隙を狙った本隊による奇襲」
答えたのはライカだった。
彼の言葉を聞いた若い少尉たちは死刑台に臨んでいるような顔になった。
「その通りだ、ライカ中尉。分かったかな、カロリング大尉?」
彼女はふっと諦めたように溜息を吐いた。
「大隊監督官殿の意見は分かった。しかし、未だ憶測の域を出ていないとだけ」
「うん」
一転して、ヴィルハルトはその事を素直に認めた。
「もちろん。今の話の全てが真実であるとは言わない。だからこそ、まずは情報が欲しい。十日もかけて総司令部へ向かうよりも、二日と離れていないハンザの街にある国境守備隊司令部へ顔を出した方が手っ取り早い」
だろう? とアレクシアを促す。
彼女は、そうですねとだけ答えた。
ヴィルハルトやウェストのように物事を極端に捉えるのはどうかという表情だった。
やはり、生真面目過ぎるなとヴィルハルトは思った。
ヴィルハルトは楽観的な甘い見通しと悲観的な最悪の予想の内、後者にこそ重きを置く男だった。
それがこの世に生きるという事だと信じている。
「よろしい。ただし、ひとまず今日の所は兵を休ませる。演習直後で疲れ切っているだろうからな。明朝、払暁後に行動を開始する」
「上官風を吹かすな」
ウェストがふんと鼻を鳴らした。
言葉とは裏腹に、彼は腰を浮かしかけている。
「大隊に関する書類はどうする?」
彼は短く尋ねた。朝までに書類を仕分けして不要なものは焼かねばならない。
「部隊運営に不可欠なものを残して、すべて焼く。後で俺も手伝う」
ヴィルハルトは答えた。
彼が命じたのは兵士の休養であり、当然将校はその例外だった。
「ライカ中尉。残っている物資から必要なものを纏めろ。食糧は三日分を計算して各自に持たせる」
「弾薬は?」
「一交戦分。砲は諦める」
「どの道、旧式の臼砲しかないですからね」
彼らは当たり前のように言葉を交わし合い、行動準備を完成させていった。