56
空を包んでいた黒色が群青へと移り変わり、やがて地平から頭を覗かせた朱に染まりつつある草原。
そこで全てを知らされた〈王国〉軍独立捜索第41大隊大隊長、ヴィルハルト・シュルツ少佐は、静かに瞑目した。
あと少し。
そんな言葉が、胸に浮かんだ。
あと少しでも、彼と話し合っていたならば。
理解が得られたとは限らない。
だが、もしかしたら納得はしてもらえたかもしれない。
歯を食いしばる。
馬鹿か、俺は。何を今さら。
己があまりにも無駄な事を考えている事に気付き、彼は目を見開いた。
既に手遅れになってしまったことに想いを馳せている暇は無い。
ヴィルハルトは大隊長であり、彼らは軍人。
そして、ここは戦場だった。
オスカー・ウェスト大尉の死を、ただこの場の指揮官としての態度で受け止める以外の自由は彼には無かった。
「成程。そうか。まさに現実。まさに戦争だな」
ヴィルハルトは、ただそうとだけ呟いた。
空を仰ぐ。既に、東の方は青く澄みだしつつあった。
彼にウェストの死を告げた兵の顔が、何かを誤解したように歪んだ。
暴虐なまでの勢いで胸の内を荒れ狂う感情をねじ伏せると、ヴィルハルトは視線を元に戻した。
現実へと思考を向ける。これからどうするべきかを考える。
どれだけ思考を弄んだところで、現状は最悪だった。
何もかも無駄になった。作戦は失敗した。
いや、初めから成功など在り得なかったのだ。
何もかもが無駄だった。
唯一と信じた勝機は、祖国の滅亡を決定するだけのものだった。
大隊の目的は喪失し、そして今、20万の敵軍の中で孤立している。
本当に、そうだろうか。
今からでも敵の後を追い、大隊の全滅と引き換えに〈帝国〉軍総司令官を、〈帝国〉皇太子のその一人を討ち取ってしまえば。
そんな事を一瞬夢想したヴィルハルトは、すぐに首を振った。
駄目だ。そんな事をすれば、〈帝国〉を本気にさせてしまう。
そうなれば、こんな〈王国〉などあっという間に圧殺される。
そもそも〈帝国〉軍500万という数字は、戦時体制すら取っていない常備兵力だけを指すのだ。
では、その予備は?
〈王国〉軍が有する予備役はおよそ80万程だ。
無論、現実問題として国費や兵站などの理由から、一度にその全てを動員できるわけでは無いが。
こんな小さな国でもそれくらいの数は用意する事が出来るのだ。
ならば、この大陸世界の過半を支配し、世界人口のおよそ半数を擁する〈帝国〉における、軍の予備役とは果たして一体どれほどの数になるのだ。
一千万か、二千万か。
無論、〈帝国〉の国庫とて無限では無いだろう。
だが、小国一つを消滅させるくらいの蓄えは確実にある。
そうなってしまえば、本当の本当に、彼が死んだ意味が無くなる。
かくなる上は〈帝国〉が飽き果てるまで永遠に、〈王国〉は悪戦を継続するより他になくなった。
まったく、酷い話だ。
そんな悲壮な想いを抱きつつ、しかしヴィルハルトの心境はやけに澄んでいた。
そして、静かに決断した。
「作戦を中止する。全部隊は一度、行動始発点の森まで後退。合流の後、司令部へと帰還する」
「大隊長殿」
口を開いたのはエルヴィン・ライカ中尉だった。
兵站担当士官は戦闘中、その記録係にもなるため大隊本部と行動を共にしていた。
「本気ですか」
普段の冗談交じりな態度をかなぐり捨てた口調だった。
「本気だ。君も士官学校で学んだはずだ。〈帝国〉という国が、皇帝の威信を保つためならばどれほどの無茶を許容してきたかを。流石に俺も、祖国の死刑執行に判を押せるほど度胸のある男では無い」
ヴィルハルトの飾らない言葉に、エルヴィンは唇を引き結んだ。
「ヴェルナー曹長」
「は」
ヴィルハルトは黙り込んだエルヴィンから目を離すと、その隣で石像のように控えていたヴェルナーを呼んだ。
応じた彼の態度もまた、何かを言いたげであった。
だが、無視する。聞いている時間すら惜しい。
誰が何を言おうと、状況は確定してしまった。
「聞いていたな?」
「……は」
全ての反論を押し潰すようなヴィルハルトの口調に、ヴェルナ―は背筋を伸ばした。
「すぐに伝令を送れ。俺の命令を、全部隊に速やかに伝えるのだ」
任務が遂行できない以上、大隊長である自分が果たすべきことはただ一つ。
一人でも多くの部下を、生きて還す事だとヴィルハルトは信じていた。
たとえ、その先に彼らを待っているものが同じ地獄だったとしても。
だが、ヴェルナ―は彼の命令に従わなかった。
「大隊長殿、その必要はないかと」
ヴィルハルトの喉が嫌な音を立てた。
積み上げてきた信頼が打ち崩されたと思った。
だが、それは彼の勘違いだった。
ヴェルナーは草原の一点を示すと、言葉を続けた。
「ウェスト大尉が先んじて伝令を送った為、既に隷下部隊は大隊本部を目指しております」
「そうか」
ヴィルハルトの顔から一瞬で険しさが消えた。
信仰する何かを目の当たりにしたような表情を浮かべている。
彼の心の中で行われていたのは、死の間際にまで己の責務を果たし続けた士官学校同期生への、心からの感謝と謝罪だった。
確かに。状況は最悪だ。
だが、最低では無い。
今のところ、本作戦における大隊の損害は一名のみだ。
その数字の意味するところは、今は忘れておくことにした。
ヴィルハルトはすぐに命じた。
「では、直ちに行動を開始。日の出前までに、森へと辿り着くのだ。すぐにでも〈帝国〉軍の追手が迫っているかも知れない。捕捉されれば、あっという間に全滅しかねない」
大隊本部へと合流し、再び作戦始発点の森まで戻ってきた彼の部下たち、その指揮官たちは一様に、エルヴィンが示したものと同じ感情をヴィルハルトへと向けた。
そして、ヴィルハルトによってエルヴィン同様に黙り込まされる。
誰もが納得も了承もしていないというその態度。
まぁ、当然だなと思っているヴィルハルトは、彼らへ向けて冗談のような慰めを口にした。
「元々、俺たちは司令部直轄の独立“捜索”大隊だ。その意味で言えば、本来の任務は果たしていると言えなくもない」
詭弁と言えば、これ以上の詭弁は無かった。
そもそも、この大隊に“独立捜索”という名が与えられた理由も、方面軍司令部直轄の捜索、要は偵察部隊として予算を何とか確保する為だけの方便に過ぎないのだから救いが無い。
確かにヴィルハルトの言う通り、敵総司令官がどのような人物であるかを掴んだ事は、この戦争で今まで任務に従事してきた他の〈王国〉軍偵察部隊と比べても十分に引けを取らない戦果だ。
だが、国を救うはずの作戦が中止になった理由としては、あまりにも酷いものだった。
それでも、ヴィルハルトにはそれぐらいの事しか言えなかった。
「何より。ウェスト大尉が命を賭して持ち帰った、我々唯一の戦果だ。無駄には出来ない」
無理矢理続けた彼の声には、思わず息を飲むほど辛い響きがあった。
ヴィルハルトのその態度に、誰からの反論も無かった。
大隊の後退そのものは、作戦の最終段階として想定されていた案を採用した。
それは、まずはドライゼ山脈の麓から広がる大森林、その樹木線を沿うように森の中を北上、その後草原を4リーグ程西へ進み、第一防衛線の司令部があるレシュゲンの町へと向かうという計画だった。
あらかじめ全員が了解していた道順、そして何よりも〈王国〉東部領は彼らにとって三年間をひたすら駆け回った庭のようなものだ。
後退は速やかに進捗した。
要した時間は、一日半ほどだった。
彼らがレシュゲンの町へと帰り着いたのは、作戦が始まってから三日目の朝であった。
誰もが一様に、呆然としたような絶望を顔に浮かべていた。
任務失敗の報告をしなければならぬから、では無い。
その報告すら出来ない事を知ったからだった。
辿り着いたレシュゲンの町には司令部が、いや、町そのものが、既に存在していなかった。
在ったのはただの残骸だった。
〈王国〉軍東部方面軍、第一防衛線司令部の置かれていたレシュゲンの町は今や、黒煙を上げて燃え盛る廃墟と化していた。
続きは2日後。




