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それは作戦開始から間もなく、深夜にすら届いていない時間だった。
前衛警戒と索敵を任されたオスカー・ウェスト大尉率いる第1中隊は、分隊毎に分かれつつ本街道へと接近した。
そこで彼らは街道を進む一団を発見した。
当初、ウェストはそれが敵の輸送部隊だろうと思った。
だが、望遠筒を覗き込み、隊列の中を進む豪奢としか形容しようのない一台の馬車を目にした時に、その判断が誤りである事を知った。
馬車の上部に月光を受けて翻るのは、司令官にある者がそこに居る事を示す金縁の刺繍が成された〈帝国〉旗。
総司令官が何故、こんな時間に移動しているか。
その疑問に回答を得る前に、その馬車を取り囲むように進む者たちが松明に照らし出された。
瞬間、ウェストはこの作戦の失敗を悟った。
その護衛の兵たちが、純白の布地に銀糸の刺繍と縁取りのなされた軍装に身を包んでいたからであった。
〈帝国〉軍親衛隊。
それは500万の将兵から成る〈帝国〉軍のその頂点、帝室直属の近衛部隊。
規模こそ一個師団に満たぬものの、その練度と戦闘能力はもはや神話の域にまで達して語られている。
本来の任務が皇帝と帝室の警護であるために、実際の戦闘に参加する事は稀だが、彼らが登場した後で歴史に刻まれるのは、ただ勝利の二文字のみであった。
その〈帝国〉親衛隊がこの場に居る理由は、考えるまでもない。
つまり、あの馬車に乗っている人物は帝室に籍を置く、皇帝直系の誰かという事だった。
「いかん。この作戦は中止だ」
ウェストは望遠筒から目を離すと、身を焼かんばかりの焦燥を込めて呟いた。
「中隊長殿?」
すぐ傍で、ウェストとともに敵情を探っていたファルケ軍曹が愕然とした声を出した。
「何を仰っているのですか……作戦はまだ始まったばかりで、目標を発見できたというのに」
「良いから、すぐに大隊本部へ伝令を出せ。作戦は中止だ。敵の総司令官は〈帝国〉の帝室直系の者だと伝えれば、それで奴は分かる。急げ」
ファルケの疑問を押しつぶすように、ウェストは命じた。
「他の部隊とも連絡を取れ。即座に撤退し、大隊本部へと合流せよと」
有無を言わさぬ口調だった。
ファルケは不承不承ながらも、それに従った。
手近に確保していた兵の数人にウェストからの命令を伝え、伝令を走らせる。
手早く命令を実行した後で、なお敵の隊列を睨み続けているウェストの横へと戻った。
「ご命令通りに致しました。大隊本部へ伝わるまでは一刻ほど掛かるでしょう」
不服そのものの口調で、ファルケは報告した。
それにウェストは罵るような唸りで応じた。
「一体、どうしたというのですか、中隊長殿」
ファルケは眉間に皺を寄せ、不安に焦がれている様子の上官に、それまでの感情を投げ捨てて尋ねた。
「軍曹、貴様、あの馬車に誰が乗っていると思う」
「は」
しかし、尋ねたはずの彼の方が逆に聞き返され、ファルケは戸惑ったような声を出した。
「親衛隊が警護に就いているとは言え、皇帝自ら出征などという事はあるまい。こんな小さな国に出張ってくる理由が無い。恐らくは三人いる皇太子の中の誰かだ。くそ、誰だ。誰であっても同じだ。何故、こんなところへ」
「〈帝国〉の皇太子様が敵の総司令官だとして、何故作戦を中止しなければならないのですか。見たところ、敵の数は一個連隊ほど。今ならば、大隊を集結させた後に伏撃を仕掛ければ、殲滅する事も可能です」
ファルケは掴みかからんばかりの勢いで、ウェストに進言した。
そうだ。今ならば。
敵の総司令官に手が届く。二度とないかも知れない好機。
このまま、敵の主力と合流されてしまえばもう手が出せない。
何故、それを見逃すのか。
わけが分からないと言いたげなファルケへ、ようやくウェストが顔を向けた。
「かつて、〈帝国〉に侵攻されたある小国が全滅覚悟の猛反撃の末、皇太子である帝族の一人を討ち取った事がある」
ウェストの瞳は月明かりを吸い込む暗い穴のようだった。
「そしてその後、その国はこの大陸から姿を消した」
全軍全滅覚悟の猛反撃の末、帝族の一人を討ち取ったその国はその後、皇太子の死という事実に阿鼻叫喚となった〈帝国〉軍司令部の混乱のお陰で一時的に戦況を立て直す事に成功した。
しかし、速やかに再編された〈帝国〉軍(当然、再編前の司令部に所属していた者は一人残らず本国へと更迭され、皇太子の後を追わされた)は、もはや戦争そのものに必要十分以上の軍勢を投入した。
一説には300万。風の噂を信じるならば、〈帝国〉全軍。
それなりに信憑性のある当時の資料を紐解き、概算したとしても、少なく見積もって100万を超える。
ともかく、〈帝国〉軍は大陸史上最大規模の動員数をもって、一国そのものを包囲したという事だけは間違いのない史実だった。
そして、その後に行われたのは戦争などでは無かった。
虐殺という言葉すら生易しい、それは絶滅を目的に行われた掃除だった。
そして、その国は大陸から消えた。
滅んだのでは無く、消えた。
〈帝国〉軍はその圧倒的な、過剰なまでの戦力を用いて、その国の全ての城壁を打ち崩し、一つ残らず村を灰塵に変え、そして国民一人残すことなく、この世から消滅させた。
「包囲をどうにか突破し、国の外へ逃れた者の居たと聞く。だが、それすらも過酷な弾圧と追跡の末に捕えられ、処刑された。逃げ込んだ国ごと滅ぼされた事もある。女も子供も、赤子に至るまで。国があった場所に残ったのはただの大地だ。もはや、その国は名前すら残っていない」
ウェストは、最後のそう締めくくった。
ファルケの顔からは表情と血の気が失せていた。
「だから、作戦は中止だ。皇太子を手にかければ、戦争どころではなくなる。その時点で〈王国〉は滅ぶ」
ウェストは苦痛に近い声でそう言った。
「ならば、我々は……」
ファルケが絶望を口にした。
「ともかく。大隊本部と合流する。その後、速やかに得た情報を司令部へと持ち帰る。そして……」
そして、どうするのだろうか。
途方にくれたような想いがウェストの胸を締め付けた。
彼には分かっていた。
もう、どうしようもない。
総司令官の抹殺が叶わぬ以上、あとは正攻法しか残されていない。
20万の軍勢相手に、打ち勝つより他に道は無い。
そして相手は〈帝国〉軍。勝てるはずがない。
もはやこの〈王国〉は、いつか〈帝国〉に飽いて捨てられるその日まで、貪り続けられるより他にない。
本当にそれだけか。クソ。考えろ。どうにかできるはずだ。
どうにかせねばならん。
己の祖国が滅ぶさまを、ただ唯々諾々と受け入れる事だけは断じて出来ない。
俺は将校なのだ。妻の為にも。奴は――。
ウェストの脳裏に、ヴィルハルトの凶悪な顔が浮かんだその時だった。
「誰だ!!」
銃剣の切っ先のような〈帝国〉語が、夜の静寂を切り裂いた。
ウェストはハッとして顔を上げた。
二名の〈帝国〉親衛隊の兵が、彼らの潜む場所から10ヤードにも満たない距離に立っていた。
「しまった……!!」
ウェストは歯を磨り潰さんばかりに食いしばった。
かつて無い程、己を呪う。
街道を進む隊列に気を取られるあまり、周辺捜索を行っていたらしい〈帝国〉親衛隊の歩哨が近づくのを見落としていた。
「ファルケ、撤退だ!」
ウェストは起き上がると叫んだ。
親衛隊の兵はウェストたちが武装している事を認めたらしい。
「敵襲! 敵襲!!」
兵の一人が上げた、絶望そのものの大声が、豪奢な馬車を囲む者たちの耳に届く。
指揮官らしき人物が抜刀する。
「殿下をお守りせよ!!」
号令一下、月光の下であってなお白色に煌めく集団が恐るべき速さで戦闘態勢へと移行する。
一息つく間も無く築かれた銃の壁には、微塵の揺らぎすら見て取れない。
流石、〈帝国〉親衛隊。
芸術的な域まで達している彼らの部隊行動に、ウェストは舌打ちを漏らした。
だが、今は敵に対する称賛も、己の不甲斐なさに絶望している時間も無い。
「ファルケ、退くぞ!」
「無理です、中隊長!!」
ファルケが喚くように言った。
狂いなく、一音に重なった銃声が響いた。
銃口から吐き出された火花が、一瞬だけ夜の闇を明るく照らす。
ウェストはファルケを引き倒した。ファルケの顔に、生暖かいものが滴った。
「中、隊長……」
「後方に、待機している部隊を集め、大隊本部へ連れ帰るのだ、軍曹」
無数の弾丸に全身を打ち砕かれてなお、彼の上官は立っていた。
目だけが月明かりを反射して、奇妙な明るさに燃えている。
「行け。軍曹。部下、を。だ、い……大隊長に、知らせるのだ」
臓腑からせり上がる血塊を飲み下し、ウェストは最後の命令を口にした。
しかし、ファルケは動けない。
大陸が七つに裂ける滅びを目の当たりにしているかのように、絶望のみが彼を覆ってゆく。
それを。
「軍曹!!」
それを弾き飛ばすような、ウェストの声。
どうしてそんな声が出るのか。
それは営庭に響いていたものと何ら変わる事の無い、オスカー・ウェスト大尉の声だった。
ファルケは立ち上がった。
「大尉殿、申し訳ありません」
彼は言った。
「お世話になりました」
ウェストはふんと鼻を鳴らして応じた。
ファルケは転がるように走り出した。
いや、本当に転がった。
お陰で、二度目に自分へ向けて打ち出された銃弾は頭の上を飛び過ぎていった。
自分のあまりの無様さに腹が立った。
だが、足を止めてはならない。
断じて、無駄にしてはならない。
「退けぇっ! お前ら、退け!! 撤退だ!!」
ファルケたちよりも後ろに控えていた兵に向かい、大声を上げた。
「中隊長殿のご命令だ!! 大隊長の下まで、死ぬ気で走れぇっ!!」
悪魔よりも恐ろしい彼の咆哮に、兵たちが猟犬に追われる羊のように駆け出した。
ファルケたちが走り去るまで、その盾になるように立っていたウェストは、ぶるぶると振るえる両腕をどうにか言い聞かせて、小銃を持ち上げた。
何が起こるか分からない任務であったため、既に装填はしてあった。
振り返り、再度の装填を終えようとしている〈帝国〉親衛隊の射列へ向けて、ウェストは素人のように銃を構えて引き金を絞った。
銃口が跳ね上がり、ウェストの手から小銃が飛び上がった。
吐き出された銃弾はとんでもない方向へ走っていった。
すぐさま、〈帝国〉親衛隊の応射が行われた。
しかし、一体どういう奇跡か。
襲い来る銃弾は全て、ウェストを無視するように夜の闇へと消えていった。
だからと言って、何が変わるわけでも無かった。
ただ、この世へ別れを告げる数寸だけが、彼に最後に与えられた。
糸が切れたように、ウェストの身体が草むらへと沈んだ。
ああ。
済まない。
薄れゆく命の最期に、彼は妻へ詫びていた。
続きは、多分、2日後。
校正が追いついていないのでもしかしたら延期する可能性が・・・遅れたら、申し訳ありません。




