52
相も変わらず、長くなっております。
申し訳ありません。
「こんなところに居られたのですか」
レシュゲンの町、その入り口に立つ二対の石柱の傍に立っていた〈王国〉東部方面軍司令官、アーバンス・ディックホルスト大将の背に少年のような、少女のような声が掛けられた。
カレン・スピラ中尉だった。
ディックホルストが17年前、贖罪のような焦燥とともに引き取り、心血を注いで育て上げたその少女の翡翠の瞳は細かく震えていた。
「戦闘が始まったようです」
カレンがそう告げた。
「分かっておる。見えている」
ディックホルストはぞんざいに応じた。
彼らが立つ場所から見える地平線からは、何本もの煙が立ち昇っているのが見えた。
魔人のいびきにも似た砲声の轟きが、そこまで響いている。
「この国で、またこのような光景を目にする事になるとは、思っても居ませんでした」
カレンがぽつりと漏らした。
ディックホルストはちらりと、養女の横顔に目を移した。
カレンは目を見開いて、どこか遠くを見ていた。
翡翠の双眸には、ぼんやりとした翳りが浮かんでいる。
恐らく、見ているのだろう。17年前を。
今まで生きて来た何もかもから焼け出され、涙すら枯れた十にも満たぬ小さな少女の姿は、ディックホルストの脳髄に未だ焼き付いて褪せる事が無い。
如何にか口にできた両親の名を聞いて、養子として引き取った後も姓だけは変えなかった。
しかし実の両親以上に愛情を注いだつもりだった。
だから、彼と妻は子をつくらなかった。
「お前は、王都へ戻ってもいいのだぞ」
ディックホルストは努めて感情を表に出さぬように言った。
本心では、今すぐにでも彼女を馬車へ押し込み王都に構えた彼の屋敷、そこで待つ、少年だった自分とともに幾年もの年月を重ねた老女の下へと送り返したくて仕方が無い。
だが、今は互いの立場がある。
今や、彼の養女は軍将校であった。
例え血縁関係があったとしても、軍制度から見れば彼とカレンはただの上官と部下に過ぎない。
そして今や一軍の司令官たる彼には、娘に対する愛情を理由に、彼女を王都へと送り返す事は出来なかった。
「お前は女性士官なのだから、後方勤務を望めば軍は受け入れるはずだ。それに、お前の才能は戦闘に関してよりも事務方に向いておるし……」
ディックホルストは己の卑怯を自覚しながらも、事実だけを述べた。
カレンが東部方面軍司令官の副官として任じられたのは決して、ディックホルストの過保護でも無ければ身内びいきでも無い。
一度見聞きしたことを決して忘れる事の無い、誰もが認める聡明な頭脳を持つが故だ。
「父様」
囁いたカレンの声は、縋るようだった。
「いいえ、私はここに。閣下のお手伝いをさせてください」
その言葉に、ディックホルストは観念したように喉を鳴らした。
まさか、この状況で娘から上官としての扱いを受けるとは。
何ともまったく。子供というものは。
時に目の覚めるような事を言ってのけるわ。
「父親とは、情けないものだな」
「いいえ、父様。私は貴方に、貴方がたに育てられて幸せでした。ですから、少しでも恩返しをしたくて……」
「もうよい」
これ以上、カレンからの言葉を聞く事に耐えられず、ディックホルストは話を打ち切った。
「それで、どうした。何か報告があったのではないか、副官」
「はい。閣下」
彼の問いに、カレンは姿勢を正した。
声が震えぬよう努めて硬い声を出している事が、ディックホルストには手に取るように分かった。
だが、彼は何も言わなかった。
「戦闘はまずまず、順調に推移している模様です。これまでのところ、損害も大した数ではありません」
「ふん。今はな」
ディックホルストは鼻を鳴らして応じた。
そして放り投げるような口調で言った。
「すぐに酷い事になる」
彼が口にしたのは、ただの事実だった。
第一線の指揮を任せているシュトライヒ少将の力量を疑っているわけでは無い。
むしろ、この東部方面軍で旅団以上の部隊を指揮させて彼の右に出る者はいないだろう。
ただ、相手は〈帝国〉軍だった。
100年近くを戦争から遠ざかってきた〈王国〉と、その間飽きもせずに周辺諸国との殺し合いを続けてきた〈帝国〉では、兵も指揮官も、その経験の差は歴然としている。
「つまり、わしらの希望はただ一つ」
ディックホルストは唯一の慰めを口にするため、カレンに向けて頬をわずかに緩めた。
「あの戦場の何処かを彷徨う、たった一人の少佐と500名足らずの大隊のみと言うわけだ」
「さてさて」
遠くで轟く砲声の余波が木々の梢を震わせている森の中。
両軍が激突している前線から6リーグ程南へ行ったそこで口を開いた〈王国〉軍独立捜索第41大隊大隊長、ヴィルハルト・シュルツ少佐のその声は、何処か歌うような軽やかさだった。
「ついに、我が〈王国〉の興廃を賭けた戦争、その一戦の開幕という訳だ」
彼は目の前に集めた者たちの顔を見回した。
オスカー・ウェスト大尉、アレクシア・カロリング大尉、エルヴィン・ライカ中尉、エルンスト・ユンカース中尉、デーニッツ中尉、ヴェルナー曹長、ウォーレンを始めとする他三名の少尉たち。
誰も彼もの顔に、緊張と不安、或いは恐怖を見て取ることが出来た。
それにヴィルハルトは、ゆったりとした動きで頷いて見せる。
「うん。よろしい。では、作戦内容についての最終確認を行う。ウェスト大尉」
後半になるにつれて無味乾燥な口調、つまりいつも通りの言葉遣いに戻った彼に呼ばれ、ウェストはことさらにむっつりとした表情を浮かべつつも、口を開いた。
「行動開始は日没後。幸いにも、今夜は満月だ。明かりが無くとも、それなりの視界は得られるだろう。各隊長は部下全員の顔と銃剣に炭を塗り、月明かりの反射を抑えさせること。また、足音を殺すため軍靴には布を巻く。必要以外に口を開く事も禁ずる旨、兵には徹底しておけ」
彼は一度言葉を切ると、大隊長であるヴィルハルトよりもよほど尊厳に満ちた顔で周囲を睨んだ。
誰からも意見が上がらない事を確認した後で、再び説明を始めた。
「移動の際、各中隊は分隊毎に分かれて行動する。ただし、各部隊間の距離は半リーグ以下を保ち、何時如何なる時でも即座に大隊長の下へ大隊全力が集結できるよう、大隊本部を中心とした陣形を取る。中隊長は常に部隊の位置を把握しておけ」
ウェスト以外の中隊長、アレクシアとユンカースは首肯で応じた。
「常に全周を警戒し、目標以外との戦闘は避けられぬ場合を除き、これを禁止する。どうしてもという場合には、大隊長の裁可を仰げ。目標は」
「敵総司令官」
ウェストは最後の言葉をヴィルハルトに奪われた。
森の中にあからさまな舌打ちが響く。
「どうせなら、敵総司令部を殲滅してしまえば良いではないか。そうすれば、司令官を失った以上に敵の指揮系統は崩壊する」
ウェストが面白くもなさそうに、意見を口にした。
それにヴィルハルトは遊びの無い表情を浮かべると、首を横に振った。
「兵力が足らなすぎる。敵司令部にはどれだけ少なく見積もっても二個大隊以上、或いは同数の連隊が警護の為に張り付いているはずだ、それだけの数が相手では、一時的な突破は叶っても戦闘で打ち勝つことは不可能だ」
彼のその言葉に、ウェストはせせら笑うように答えた。
「つまり、作戦の最終段階はこういう事か。敵司令部を発見次第、全員で遮二無二突っ込んで敵司令官を討ち取る。その後、一人残らず玉砕」
ヴィルハルトは無表情で応じた。
「前半は正解だ。だが、後半が違う」
まるで下手くそな冗談を口にするように、彼は言った。
「敵司令官を抹殺後、我々は全力で尻尾を巻いて逃げる」
下唇を突き出したウェストは、数寸の間考え込んだ。
やがて、ふんと息を吐き出す。
「どの道、生還の見込みが薄いな」
「この森へ逃げ込めばどうにかなる。三年間散々駆け回ったのだから、今さら迷う事も無いだろう。何より、これしか思い付かなかったのだから仕方が無い。他に手があるのなら、さっさと言え」
「敵司令官を捕捉後、人質に取る。追ってくる〈帝国〉軍を脅しつつ、逃げ延びた先で殺す」
「それでは軍隊というよりも、まるで野盗だ」
口を挟んだのはアレクシアだった。
ヴィルハルトたちは彼女の呟きを無視した。
騎士道などというお題目に付き合っているほど、今は暇では無い。
「それも考えた。だが、駄目だ。生け捕りにするには手間が掛かりすぎる。抵抗されている間に、俺たちが皆殺しになる。運が良ければ数人は捕虜になれるかも知れないが、少なくとも俺たちは駄目だな。それが将校というものだ」
そして、それが責任を取るという事だ。
ヴィルハルトは内心でそう付け加えた。
ウェストは暫く黙り込んだ。長々とした息とともに、言葉を吐き出す。
「良く考え込まれた自殺計画だ、これは」
「まさに」
ヴィルハルトは残酷な表情で、それに頷いた。
その通りだった。
たとえ、目的を達成したところで。
たとえ、その結果として〈王国〉が救われたところで。
20万の敵勢の真っ只中に殴り込んで、その司令官を殺害した者たちを、〈帝国〉軍がただで済ますはずがない。
未来の彼らにどれほどの称賛が贈られる事になったとしても、その最期は実に無残なものになるだろう。
「だが、付き合ってもらうぞ」
ヴィルハルトは表情を変えぬまま、酷薄そのものの声で言った。
脳裏で、自分の最期の瞬間が明確に想像できているにも関わらず。
それがどうしたのだと、彼は思っていた。
「俺たちは軍人だ。そして、将校なのだ。兵とは違う。少なくとも、この場に居る全員は自ら望んでここへ来た。違うか」
ヴィルハルトはその凶悪な目つきで、場に居並ぶ将校たちを見回した。
誰も何も答えなかった。
真実であるからだった。
徴募された兵とは違い、将校である彼らは自ら望んで、しかもその為の努力までして、士官学校へと入校し、軍へ入った。
例え如何なる個人の事情があろうとも、それだけは否定できない。
事ここに至り、今さらの言い訳は通用しない。
命令には服従あるのみ。文句があるのならば、生き残った後で言えば良い。
では、誰も生き残らなかったら?
彼らはその事について疑問を抱いていなかった。
考えても仕方がない。
将校とはそのように教育されるからだった。
ただ、別の疑問はあった。
「何故、そこまでして」
エルヴィンだった。
「先輩」
彼はようやく、この士官学校の先輩が心の内に抱えている何かに手が届くのではないかという期待を込めて、その凶悪な目つきの男にそう尋ねた。
だが、聞かれた方は気の抜けたような表情をしていた。
「何故? ……ライカ中尉、質問の意味が分からない」
意図では無く、意味が分からないと彼は答えた。
「逆に聞くが、君たちこそ何故、ここまで付いてきた?」
それが本当に分からないのだというように、ヴィルハルトは言った。
「祖国の為だ」
まず先に、アレクシアが答えた。
ヴィルハルトは喉から乾いた音を出した。
「愛するものの為に戦う事の、何が可笑しいのでしょうか」
彼女は目を吊り上げ、これだけは否定させないとばかりに言った。
「いや。別に。ただ、実に君らしい清廉潔白な面白味の欠片も無い答えだと思っただけだ」
「では、貴方には何もないというのですか」
アレクシアが噛みつくような声を出した。
「どうかな」
ヴィルハルトは曖昧に答えた。
本当にどうなのか、彼には分からなかった。
だが、傍目から見れば人を馬鹿にするようなその態度にアレクシアはこめかみに青い筋を浮かべる。
「貴方は……」
「王都に、妻が居る」
いよいよをもって沸点に到達しかけている彼らの会話の中に、ぼそりとした呟きが割って入った。
二人は動きを止めると、その声の主を見た。
呟いたのは、ウェストだった。
「俺の家は、元々男爵の爵位を与えられた木っ端貴族の家だった。もっとも、財産は父の代で取り返しのつかないほどに傾いていたから、俺がその恩恵を受ける事は無かったが。そんな俺を、妻は幼い頃から慕ってくれた。だが、妻の家は子爵家でな。何があっても、没落した男爵家の息子である俺との結婚を許してもらえる事など無かった。それをあいつは、勘当までされて、俺と一緒になってくれた」
恐らく、この場の誰もが初めて耳にするだろうウェストの身の上話に、誰もが驚きの表情を浮かべつつも無言で聞き入っていた。
「だからこそ、俺は今までの人生を全力で生きて来た。実家の伝手で士官学校へ入校し、任官した後も、将校としての才能と能力を伸ばす事に全身全霊を掛けて来た。妻から受け取った恩に報いる為に。俺はあいつが王都で、あと一日でも長く平穏に暮らせるならば。この戦争に勝っても負けても、あいつの一生がそれなりに満足の行く待遇で過ごせるのならば。〈帝国〉軍を相手に、それを勝ち取れるのならば」
それまで恥じるように独白を続けていたウェストが、唐突に顔を上げた。
「それが、俺がここにいる理由だ」
それは決意に満ち溢れた表情だった。
「だから、俺はお前が嫌いだ。シュルツ。それだけの才能を士官学校での三年間ひた隠しにしてきたお前が」
三年間、目立たず騒がず、面倒事からは身を引いて。
中の下という、全く目立たない位置の成績も今思えば、ヴィルハルトの演技だったに違いない。
まるで、自ら目立つ事を拒否するような態度。
そのせいで教官からは嫌われ、同級生からは馬鹿にされ続けた。
だが、そのヴィルハルト・シュルツが最後に見せた、士官学校卒業生が行う小隊対抗演習での、あの戦闘指揮。
優秀と称して何ら恥じる事の無かった並み居る生徒たちをいとも容易く撃ち破った、圧倒的なまでのその才能。
あの時、オスカー・ウェストは遂にヴィルハルト・シュルツの本性を知った。
だからこそ、嫌った。
人生全てを真摯に受け止め、己が全知全能を掛けて生きて来たウェストにとり、才能と実力がありながらそれをひた隠しにするヴィルハルトの生き方は、決して受け入れられるものでは無かったから。
だが、今、ようやく。ヴィルハルトはそれを止めた。
実を言えば、この戦争が始まってからのヴィルハルトについて、ウェストはそれほど嫌っているわけでは無かった。
だからこそ、今まで打ち明ける事の無かった自分の身上を話したのだった。
「貴様はどうだ、シュルツ。本当に、貴様には何もないのか。誰も居ないのか」
ウェストは尋ねた。何かあるはずだ。必ず。
こいつが自分の命を賭けるに足るものが、この国の何処かに。誰かに。
或いは、自身がそうあって欲しいと縋る願いのような問いであった。
それに。
「弟が一人いる」
ヴィルハルトから告げられた一言に、ウェストは驚いたように彼に顔を向けた。
当然だった。ウェストが彼について知っているのは士官学校での姿と、軍務に就いている時の態度だけなのだから。
孤児の出だという風の噂程度の話は知っていたが、家族がいるとまでは知らなかった。
しかし、ヴィルハルトの顔を見てすぐに、彼のその驚きは別の衝撃によって塗り替えられた。
ヴィルハルトの瞳に、今までこの男からは感じられた事の無い光があったからだった。
それは紛れもない憧憬、隠そうともしない羨望であった。
“国”などという曖昧なものの存在に対して確たる思いを抱いていないどころか、他人に対する共感にさえ不足していることこの上ないヴィルハルトにとって、それがたとえどれほど矮小であったとしても、何か大切なもののため、愛する者の為、本気で命を賭ける事の出来る人間が確かに実在することを、ようやく知った。
そんなウェストが、彼には何よりも眩しく見えていた。
畜生。
畜生。やはり。
やはり人間は素晴らしい。
なのに、どうして俺はこうなのだ。
次回から、怒涛の急展開!
と、次回予告をうってみる。
続きは2日後。




