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交易街ハンザは、〈王国〉東部国境より北に18リーグの地点に位置している、国境付近では最も大きな街である。
大陸世界の各地で使用される、この“リーグ”と言う距離単位は、正確さを求めれば各国、地域ごとによって多少のばらつきはあるものの、基本的に人が一刻を歩いて進む距離だとされている。
つまり、18リーグと言う距離は人が歩くのに18刻掛かる距離だと考えれば良い。
大陸世界では一日を24刻で刻んでいるから、単純に計算すれば一日掛からない距離だ。
もちろん、これは人がただ歩いて掛かる時間であり、走った場合や馬を使った場合はこれよりさらに早くなる。
特に馬に乗った場合、人の足のおおよそ三倍の速度であると考えて良いから、18リーグを進むために必要な時間は6刻となる。
ただし、以上のような計算はあくまでも理論上の話。
人や馬の疲労、夜の闇など、足を遅らせる原因を全て無視した場合での速度である。
18刻も歩き続ける事が出来る人間は限られているし、走るとなればなおさらだ。
人の三倍の速さで進む馬であっても、6刻もの間を全力疾走する事など出来ない。
馬車を曳いているならば、走らせていなくて1刻か2刻ごとに休ませなければ潰れてしまう。
人馬の足を止めるのは疲労だけでは無い。
夜、雲が星を隠してしまえば角などすぐに見失う。
そもそも、当時の大陸世界では、余程の事が無ければ足元すらおぼつかない夜に行動しようとする人間は少なかった。
そのような理由から、一日に稼げる距離は人なら6から8リーグ、馬ならば10から12リーグ辺りが限界とされていた。
以上の事から、交易街ハンザから国境までは徒歩ならば3,4日、馬ならば二日ほどの距離が離れている事になる。
交易街ハンザはその名が示すように、〈王国〉における〈帝国〉との交易の拠点であった。
それが国境よりもやや離れた位置に置かれている理由は明白と言ってもよい。
商人や商会同士がお互いに抱く信用や信頼と、国家間のそれは大きく異なるからであった。
だが、国境へ至るまでの道は商人たちによって大規模な街道が整備されている為、距離に反して苦労は少ない。
その街並みは、大きさこそ東部最大の都市であるレーヴェンザールや王都とは比べるべくもないが、区画ごとに見事に整備されている。
交易の中心地だけありほとんどの物は揃える事が出来る上、活発な商取引が行われているだけあって税収も豊かであるからだった。
地方の一行政区のものだとは思えない豪華な市庁舎は、それ故に与えられた恩恵だった。
細部まで手入れの行き届いている中庭を囲む、白い練石造りの市庁舎の別館に、〈王国〉東部方面軍国境守備隊司令部は置かれていた。
東部国境守備隊司令官であるレイク・ロズヴァルド中将は貴族である。
国民皆兵を国是とする〈王国〉にあって、国民の規範たるべき貴族の全員が軍籍に在るように、彼もまた軍人だった。
伯爵家の出自を示すように、39歳で中将に任じられていた。
その日も、彼はすべての〈王国〉軍将校がかくあるべしとされるように、髭を剃り、香油で髪を撫でつけ、一糸乱れの無い制服に身を包んで自らの職務机に向かっていた。
しかし、いつもとは違う点もある。
彼は、普段ならば副官にでもやらせておくような、書類に目を通して署名すると言った雑務をこなしていた。
最後の一通にさらさらと一筆走らせた彼は、見事な装飾の施された革張りの椅子に深く全身を預け、従卒に淹れさせたばかりの珈琲の香りを楽しんだ。
その顔には優越にも、解放感にも満ちた笑みが浮かんでいる。
東部国境守備隊は、国境配備の部隊を纏めて編成されたもので、方面軍総司令部からは独立した指揮権が与えられていた。
方面軍が指揮権を二分している理由は単純だった。
総司令部の置かれている東部最大の都市であるレーヴェンザールは王都と国境を結ぶ大街道の丁度中間に位置しており、国境で何か起こった際、その遥か後方80リーグから命令を出していたら、どうしても伝達が遅れてしまうと考えられたからだった。
分かりやすく言ってしまえば、総司令部が本営、守備隊司令部が前線指揮所のようなものである。
しかし、意味合いが前線指揮所とはいえ、東部国境守備隊には方面軍の兵力の内、実に三分の一に近い、二万名余りの兵力が割かれている。
この平時では過剰とも思えるほど集中された兵力は、突然の侵攻を受けた際でも独力である程度の対処が可能だと見積もられた、最低戦力であった。
これほどの大軍を指揮下に収める者は〈王国〉軍にある中央軍、西部方面軍、東部方面軍の三軍の司令官以外には存在しなかった。
だが、ロズヴァルドが今、浮かべている笑みの意味は、自身に与えられている権限の大きさ故でも、一仕事終わらせた充実感でも無い。
そもそも、彼が種類仕事などと言う雑務に自らの手を煩わせても良いと思ったほど上機嫌な理由はまったく別の所に在った。
それはひとえに、東部方面軍総司令官が新女王の即位式典に招かれて不在である、という一点であった。
無論、普段からこの守備隊司令部に総司令官が詰めているわけでは無いし、彼が不在だからと言って守備隊司令というロズヴァルドの地位が上下するわけでも無い。
ロズヴァルドは守備隊に対して独立した指揮権を与えられているとはいえ、所詮は方面軍の一部に過ぎず、最高指揮権は方面軍総司令部にある。
隷下部隊の運用に対して、それなりに自由な裁量を与えられてはいるが、連隊長以上の人事や防衛計画の実行については、すべて総司令部からの裁可を得なければならない。
そして、それらは総司令官が不在であったとしても変わる事の無い事実だ。
だとしても、それでもロズヴァルドの心中は軽やかだった。
何故ならば。
少なくとも、現在において東部方面軍の最高指揮権を直接握っているのが、あの平民出身の、貴族でも何でもない、ただ実戦経験があるというだけの老人では無いからだった。
短くても、あと七日は自分に命令を送ってくる相手が平民では無いというだけで鼻歌を歌いそうになる。
同時に、何故、ロズヴァルド伯爵家の嫡男である自分が女王の即位式典に呼ばれなかったのかという疑問もあった。
当主である父は王都に居るから、当然招かれているだろうが、自分はその跡取りである。
年若い女王と長く付き合う事になるのは、間違いなく自分であるはずなのに。
そんな事を一晩、夢うつつに考え抜いた末、平民などに大将という地位をくれてやるような前王の一人娘の即位を祝う気にもなれないから、これで良いのだと結論した。
傍から見れば、卑屈そのものと言った満足を珈琲とともに味わっていたロズヴァルドの下へ凶報が齎されたのは、その直後であった。
ロズヴァルドが珈琲を楽しんでいた昼下がりから数刻後、東部国境守備隊司令部の大きな円卓が置かれた会議室に、守備隊の参謀たちが集められていた。
最後の一人、平時でも何かと忙しい兵站参謀、が入室して、定位置に腰を下ろす。
壮年の大佐が一同を見回して促すと、景気の悪い顔をした中佐が立ち上がった。
彼は守備隊の情報参謀であった。
「まず、現在から4刻前に〈帝国〉領より侵入した気球船団についてご報告を申し上げます。五隻の気球船団は、ドライゼ山脈を越えて我が〈王国〉領へと侵入。その後、国境より北に8リーグ、ここハンザよりは南東に12リーグの地点へと降り立ちました。気球には〈帝国〉の国章である三色の盾、剣に絡む双頭の龍が描かれており……」
「あれが〈帝国〉のものだというのは分かり切っている。重要なのは、その、気球船とやらに何が乗っていたのかだ」
作戦参謀が苛立たしげに、情報参謀の報告を遮った。
気球船というのは、最初に〈帝国〉国章を掲げた気球に吊るされる船を発見した変わり者の伍長による命名だった。
情報参謀はむっとした表情になったが、何も言い返さない。
階級はともに中佐であったが、彼は男爵家出身。作戦参謀は子爵家の出だった。
下らない事この上ないが、〈王国〉軍では階級よりも家柄が問われる事の方が多い。
最もこれは、大陸世界各国の軍でも同様であったが。
「……船内からは、〈帝国〉西方領軍の軍服を着た者たちが降り立った模様。兵科は銃兵……恐らく、〈帝国〉軍で呼ぶところの猟兵だと思われます。規模はおよそ一個大隊。以上は、第82連絡塔よりの通信で齎された情報であります」
「猟兵一個大隊か」
情報参謀が言い終えると、作戦参謀は苛々と円卓を小突いた。
何かに焦っているような態度だった。
「その後、敵の動きは?」
初老の大佐、守備隊参謀長であるロデリック・マイザー大佐が、横に座る司令官の様子を確認しつつ尋ねた。
ロズヴァルドは報告を聞いている内に頭を下げ続け、今や円卓へと頭を埋め込まんばかりだった。
「兵を下ろした後、気球船は焼き払われたそうです。恐らく、簡単に浮いたり飛んだりは出来ないのでしょう。敵に鹵獲されるくらいならと火を点けたのでは。その後、〈帝国〉兵と思われる一団はその場で野営の準備を始めたと」
「野営?」
マイザーは顔を顰めた。
「意図が読めんな。あれほど大々的に領内へ侵入しておきながら、その場から動かないとは」
作戦幕僚もマイザーと同じような顔になっていた。
顔を連ねる他の参謀たちも同様だった。
「まぁ、良い。とにかく、我が〈王国〉領内に、〈帝国〉軍の猟兵一個大隊が侵入していたという事だけは事実だ」
敵の行動についてあれこれと考えても仕方が無いと、マイザー大佐がそう纏めた。
そして、ちらと隣に座る司令官へと目を向ける。
「司令官閣下。どうなさいますか」
顔を突っ伏したままのロズヴァルドへ、マイザーが恐る恐る声を掛ける。
「……ありえん」
ロズヴァルドの口から、虚ろな声が漏れた。
「ありえん。ありえん。ありえん、こんな事は」
何度も同じ言葉を繰り返すその声は、次第に大きくなっていった。
「空から兵を敵地へ侵入させる? 空からだと? ありえん。こんな事は、あってはならない! 軍事の常識から、許されるはずが無い!」
マイザーの顔に、深い憂いの皺が刻まれる。
この若くして司令官の地位へ登り詰めた事を自分の力量だと信じて疑わない上官は、時に自分の想像の範疇を超える事態に突き当たった時、こうして塞ぎこむ癖がある事を彼は知っていた。
しかし、何時までもこのままで居られては困る。
彼は司令官なのだ。
「しかし、領内へ侵攻したのは所詮、たったの一個大隊です。対して我が守備隊の兵力は二万余り。脅威にはなり得ません」
マイザーの声には励ますような、懇願するような響きが在った。
まるで、自分自身にそう言い聞かせるような。
ロズヴァルドの肩が揺れた。
ようやく、顔が上がる。
「そう。……そうだ、よし、よし。その通りだ」
何度もそう頷き、彼はようやくまともな事を口にし始めた。
「方面軍総司令部への報告は?」
「既に」
「隷下部隊の現在地は」
「主力の殆どは、このハンザからそう遠くない位置に。主力である第3師団は騎兵第6連隊とともにハンザ駐屯地内に、独立砲兵第7旅団はここより南に3リーグ、モワク駐屯地にて待機中。後は、国境配置の独立銃兵第12旅団と〈帝国〉軍の大規模演習終了までの間、一時増援として派遣されてきた独立銃兵第11旅団がハンザ北2リーグの地点で宿営中です」
情報参謀が答えた。
「あの気球船、大規模演習中に風に流されてきただけという可能性は?」
作戦参謀がふいに思いついたと言った口調で呟いた。
そうであったら、という顔をしている。
「それは無いでしょう。たまたま風に流されて、ドライゼ山脈の唯一の裂け目とも言える箇所を通ったと?」
情報参謀は景気の悪い顔を顰めて答えた。
声には復讐するような響きがあった。
再び、円卓の一同が沈黙した。
「敵から最も近いのは」
ロズヴァルドがそれを破った。
「国境配置の第12旅団です」
マイザーがさっと答えた。
「よし、第12旅団より一個連隊規模の兵力を抽出し、領内へと入り込んだ〈帝国〉兵の下へ向かわせろ。騎兵第3連隊からも一個大隊を出してもらう」
「迎撃するのですか?」
作戦参謀が身を乗り出すようにして尋ねた。
ロズヴァルドは曖昧に首を振ってから答えた。
「先ほど貴官が言ったように、敵も意図せずして侵入した可能性もある。だからこそ、即座に行動に移らず野営をしているのかもしれない。向かう者たちには、その点を徹底させよ。不用意に攻撃はするなと」
「敵が攻撃してきた場合は」
「その際は」
ロズヴァルドは決意を固める為、振り上げた手のひらを円卓へと打ち付けた。
「断固として抗戦する。敵はたかが一個大隊だ。包囲し、撃滅せよ!」
司令部でのやり取りから二刻後。
命令を受け取った騎兵第3連隊は行動を開始。隷下、第2大隊を国境へ向けて前進させた。
それより遅れること三刻後に命令を受け取った独立銃兵第12旅団は行動準備に若干の時間が掛かり、翌日早朝、隷下第3連隊を領内へ向けて行軍させた。
動揺を隠し切れぬ兵士たちを引きつれた、彼らと同じく実戦を知らない指揮官たちによる〈王国〉100年ぶりの戦争が、その幕を開けた瞬間だった。