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ぱたりと扉が閉められ、部屋の中にはディックホルストとシュトライヒ、そしてカレンが残された。
何かを堪えるように唇を引き結んでいたディックホルストが、それを内から抉じ開けるように大きく息を吐き出し、言った。
「見たか、ライナー。あの様を」
彼はシュトライヒを先の名で呼びながら、さらに盛大な溜息を洩らした。
「ご息女の事ですかな。確かに、まぁ、誰彼構わず愛想を振りまき過ぎな気もいたしますな」
シュトライヒは、その往年の友人である上官に対して、部下としての態度のままで答えた。
「あの、本人を前に、そのような評価を口にするのは止めて頂けないでしょうか」
カレンがむっとした表情になり、言った。
ディックホルストの養女として育てられた彼女にとっても、養父の友人であるシュトライヒに対して、理解のある親戚の叔父という存在に近い感情を抱いていた。
であるからか、彼ら三人は時折こうして公私の境が曖昧な会話を交わす事が多々あった。
「違う。そうでは無い。あの男の事だ」
しかし、ディックホルストは彼らの軽口に取り合わなかった。
「あの男というと、シュルツ少佐の事でありますか?」
自分の育てた娘に関する与太話にしては、余りにも深い憂慮の皺が刻まれている彼の額を見て、シュトライヒもまた真面目な表情を浮かべて尋ねた。
「そうだ。わしはかつて、何度か、ああいう目をした男を見た事がある。初めて見たのは17年前。その後、軍務で西方諸王国各国の軍に視察に出た際にも何度か」
「はぁ、まぁ、目つきは悪いですな……」
上官の言葉の真意を読み切れず、シュトライヒはヴィルハルト・シュルツの凶悪な目つきを思い返しながら答えた。
カレンにも視線を送るが、彼女のまた育ての親であるディックホルストが何を言わんとしているのか計りかねているようであった。
「あの、一体、どういうお話でしょうか。閣下?」
読めぬ話の先を確かめる為にも、カレンが尋ねた。
ディックホルストは、注いだ愛情は実父にも劣らぬだろう娘の言葉を無視すると、シュトライヒへ虚ろな顔を向けた。
「気付かなかったか、ライナー。あの男が、己の構想を語っている時の表情に」
言われて、シュトライヒは身体を揺すった。
ヴィルハルトが示した傲慢さを思い出したのだった。
しかし、上官に対するにはあまりなその態度こそ思い出せても、表情については何も思い出せなかった。
「いえ、自分は」
首を振って答えたシュトライヒの言葉が終わるのを待たずに、ディックホルストは口を開いた。
「あの男は嗤っていた。まるで、今のこの現実が、この状況が、楽しくて堪らないとでも言うように」
その声に、怖気のような震えを走らせつつ、彼は言った。
「いや、事実、楽しくて仕方が無いのだ、奴は。戦争が。わしが見た、ああいう目をしているどの男もそうだった。自分と他人の命をやり取りする為に己の全知全能を傾ける事を、まるで少年たちが興じる何かの遊戯であるかのように思っているのだ」
最後の言葉は、半ば吐き捨てるような勢いで発せられた。
「閣下は、シュルツ少佐の事をお嫌いなのですか」
その態度に、カレンがそっと呟くように尋ねた。ディックホルストは首を振った。
「いいや。好きだ嫌いだのという、思春期の少年少女が抱く幻想で表せるようなものではない。そのような事はどうでも良い」
「ならば、何を」
言いたいのですかというカレンの言葉は掻き消された。
「何とも恐ろしく、何とも悍ましく、そして何よりも哀れであるが、今の我が軍にはあのような男が必要だ」
ディックホルストはそう、ヴィルハルト・シュルツを評価した。
「閣下はご存じだったのですか。あの、ヴィルハルト・シュルツという男が、そうした人物である事を」
「いいや、知らぬさ。知っていたら、部下になどしなかった」
冷や汗を浮かべたシュトライヒからの問いに、ディックホルストは何かを投げ捨てるように手を振って答えた。
「わしがあの男を下に付けたのはな、あの男が提唱した新戦術に注目したからなどでは無い。それについてはそもそも、使い物になるかどうかも分からなかったからな」
深く椅子に背中を押し付け、葉巻に火を点けながらディックホルストは回想するように呟いた。
「ただ一つ、あの男を目にした瞬間に確信した事があった」
薄暗く、埃とカビの臭いに満ちた資料室で、安い珈琲の香りだけを頼りに、ヴィルハルトと会話を交わしたあの光景が脳裏で再生された。
軍人というよりも、墓守だと言われた方がまだ納得の出来る彼の見た目、ディックホルストが提案を口にした瞬間、彼の顔に浮かんだ、いじけたような表情。
その時に、ディックホルストはヴィルハルト・シュルツに対して確かな確信を抱いた。
「何でしょうか」
その確信については、どこかで分かっているような気がしつつ、シュトライヒは尋ねた。
ディックホルストはこの世の何処かには、楽園が必ず存在すると信じている男のような顔で答えた。
「何が起ころうとも、奴は逃げないだろうという事だ。戦争が始まろうと、何か面倒に巻き込まれようと、少なくとも奴は己に与えられた責務と役割から目を背けはしないだろうと。あっけなく死んでしまうかもしれないが、部下にするのにそれ以上納得のゆく理由は無いのではないかね、少将」
ディックホルストのその言葉を、シュトライヒは唸るように肯定した。
そう。それだけは確かだ。
あの国境守備隊の司令部で、後衛戦闘を命じられた時。
彼は内心の不満を悉く飲み干して、それに従った。
理由などは考えるまでも無い。
命令を達せられたならば、軍人は拒む事を許されていないから。
彼は命じられた。
そして、彼は軍人だった。
ただ、ディックホルストが語ったようなヴィルハルト・シュルツの人物像については本当にそうだろうかと、シュトライヒの中には疑問が残っていた。
あの後衛戦闘を命じられた後、司令部から追い出された彼と交わした会話を思い出していた。
戦闘部隊の指揮官として当然の、増援などについてあれこれ確認した後で、ヴィルハルトがまず要求したのは、戦闘に参加する部下たちの手当てについてだった。
それだけで良いのかと尋ねたシュトライヒに、彼は恥じるような小声で答えた。
そして、とても簡単なとある願いを口にしていた。
「これは、極めて個人的なお願いになるのですが」
酷く恥じ入った様子で、ヴィルハルトは言った。
「何だ、大佐にでもなりたいのか」
それをからかうように、シュトライヒは軽口をたたいた。
いえ、そうではありませんと首を振った後で、ヴィルハルトはその願いを口にした。
「自分が死んだ場合の事です。その場合、自分の財産、まぁ、これは大した額でも無いのですが、それから自分が貰うはずの年金を、王都に居る弟へ相続させてやりたいのですが」
彼の口にした言葉に、何だそんな事かとシュトライヒは拍子抜けした。
そもそも、遺族に対して財産や年金を贈答するなどという事は、わざわざ望む必要すらない。
戦死者の遺族たち、特にその後の生活を擁護する事など、この時代の大陸世界の各軍隊でも当たり前に行われていた。
そうでもしなければ、誰も国の為に命など賭けない。
それは長きに渡って戦争から遠退いてきた〈王国〉軍であっても同様である。
シュトライヒがその事を口にすると、だが、ヴィルハルトはもう一度首を振った。
「いえ、その、閣下はご存じないかも知れませんが、自分と弟は孤児の出なのです。それで、その、弟は養子に出ていまして……今でも、シュルツの姓を名乗ってはいるらしいのですが」
「そうか。貴官は確か、17年前の」
〈帝国〉軍の襲撃を受けた南部の生き残りだったかと、シュトライヒは今更に彼の経歴を思い出した。
近しい者に同様の過去を持つ少女が居たため、彼はそこらの将校よりも遥かに孤児の境遇については詳しかった。
成程。確かに養子に出ているのならば、それなりの手続きは必要だった。
「養育者の名は分かるか」
「バルゲンディート男爵です」
ヴィルハルトの口から飛び出したバルゲンディートという名前に、シュトライヒは目を見開いた。
「おいおい、バルゲンディート男爵家と言えば、現当主は次期内務大臣と噂される名家では無いか」
爵位こそ下級貴族に過ぎない男爵であるが、確かな実力を持って〈王国〉宮中でのし上がった傑物だった。
前王とは親しい立場にあったらしく、〈王国〉議会を二分する勢力の一つ、平民の地位向上を図る急先鋒としてその名を知らぬ者はいない。
同時に王都では、大変な慈善家としても名が通っている。
「ええ。しかし、世継ぎには恵まれなかったらしく」
シュトライヒはそれに頷いた。
男爵夫人は決して薄弱な女性では無いが、どういう訳か子宝を授かる事だけが出来ないというのは王都でも有名な噂の一つであった。
「それで男爵は弟を養子として引き取られました。男爵の援助のお陰で、弟は王立大学院に通う事が出来ています」
「王立大学院。随分と優秀な弟だな」
シュトライヒは、バルゲンディートの名が出た時以上に驚きを露わにした。
しかし、同時に男爵がヴィルハルトの弟を養子として迎えた理由についても納得した。
王立大学院と言えばその名の通り、この〈王国〉でも一握りの碩学のみが集まる、この国の最高学府である。
入学の際には相手が貴族だろうと、平民だろうと、容赦なくその頭脳を計る事で有名だった。
しかし、一度入ってしまえば、あとはこの国の要職に就くという未来が待っている。
成程。世継ぎに困った男爵家にとってはまさに、天からの贈り物だったという訳だ。
「ええ、優秀なのです。とても」
シュトライヒの言葉にそう返したヴィルハルトの顔は、普段のこの男からは想像もつかないほど明るい表情をしていた。
再び、シュトライヒは言葉を呑んだ。
「あ、いや」
彼の視線を受けて、ヴィルハルトは即座に表情を消し、あらぬ方向へと目を彷徨わせた。
そして、まるで今までの言葉は失言だったと言わんばかりに、彼は事務的な声を出した。
「つまりはまぁ、そう言う次第なのです。出来る事ならば、兄としても何か弟の足しになるものを残してやりたいと考えたのです」
シュトライヒは、ふっと鼻から息を吐き出した。
「貴官の事情は理解していると思う。何、その程度の事は任せておけ。貴官がどれだけ嫌われていたとしても、それぐらいの要望を聞き入れないほど我が〈王国〉軍は腐ってなどいないだろう」
そう、彼は鷹揚に頷いた。
ありがとうございますと、ヴィルハルトはやはり恥ずかしそうに、小さく礼を言った。
その時の光景を思い返しながら、シュトライヒは思った。
ディックホルストは、ヴィルハルト・シュルツが戦争に狂じていると言った。
それは確かに、間違いではないだろう。
それだけの狂気を纏って、彼は帰って来た。
だが、恐らく。
恐らく、彼はそれでも、何処までも人間であろうとしているように思えた。
生まれか、育ちか。
彼がこの17年間をどのように過ごしてきたのかは知らないが、ともかくシュトライヒにはそう感じられた。
それがきっと、彼が誰とも目を合わせようとしない理由なのだろう。
シュトライヒは自分の考えをそう纏めた後で、小さく嘆息した。
やはり、哀れな事には違いないからだった。
続きは2日後。
評価と感想くれた方のおかげであと一月は生きていけます。
本当にありがとうございました。




