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ヴィルハルト・シュルツ少佐率いる〈王国〉軍独立捜索第41大隊が、レシュゲンの町へと到着したのは、あの川辺での戦闘から三日後の事であった。
独立銃兵第11旅団隷下の銃兵第17連隊が駐屯しているこの小さな町には現在、〈王国〉東部方面軍が〈帝国〉軍を迎え撃つべく構築した四つの防衛線、その第一線の司令部が設置されていた。
ヴィルハルトは町に着くなり、エルヴィン・ライカ中尉に対して兵たちに屋根のある寝床を用意するように命じると、その足で防衛線司令部へと向かった。
任務完了と、新たな命令を受ける為であった。
防衛線司令部は、レシュゲンの町のそれなりに大きな邸宅を借り上げたものだった。
入り口を見張っている衛兵当番の将校に誰何を受け、官姓名を名乗ったヴィルハルトはすぐさま司令官の下へと通された。
司令官執務室として使われていたのは、家の持ち主が書斎として使っていたらしい部屋だった。
扉を叩き、名を告げると「入れ」と短い返事が返って来た。
「失礼いたします」
言って、踏み込んだ部屋の中には二人の人間が居た。
一人は、ヴィルハルトの大隊とともに遅滞戦闘任務に当たった独立銃兵第11旅団長、シュトライヒ少将であった。
ヴィルハルトは彼へ向けて、小さく目礼を送った。シュトライヒもまた、小さく頷きを返した。
そして。
「おお、噂をすれば何とやら。丁度良い所へ来たな、シュルツ大尉」
親しげな口調で、そう彼に呼びかけたのは初老をとうに過ぎただろう老人だった。
毛髪はすっかり真っ白に染まっているが、矍鑠たる体躯には微塵の衰えも感じられない彼こそが、〈王国〉東部方面軍司令官、アーバンス・ディックホルスト大将であった。
〈王国〉軍で唯一の、そして史上初の平民出身の大将である彼は軍人というよりも政治家と呼ばれた方がしっくりくる、知性と野心の浮かぶ顔をしていた。
事実、彼は今の立場を得る為に数多の政争に打ち勝ってきていた。
「お久しぶりです、閣下。シュトライヒ少将閣下も、御無事であったようで何よりです」
ヴィルハルトはディックホルストとシュトライヒに対して、丁寧に腰を折りつつ言った。
そこから、顔だけを上げてディックホルストを見るとにやりと笑った。
「ところで、司令官閣下はご存知かどうか。自分の今の階級は少佐であります」
ヴィルハルトの言ったその言葉にひとしきり笑った後で、ディックホルストは案ずるような顔つきになった。
「あの貴族どもに随分、面倒と迷惑を押し付けられたようだな。よもや、実験部隊である貴官の大隊に後衛戦闘を命じるとは、わしでも想像につかなんだ」
「いえ。まぁ、面倒であったのは否定しがたいですが、半分は自分で引き寄せたようなものなので」
ヴィルハルトは素直にそう答えた。
そして、あの時の光景を反芻しつつ、彼は胸の中で決意している。
この次は。奴らに言論を弄ぶ時間など与えるものか。
「国境守備隊司令官であったロズヴァルド中将及び、第3師団長のトゥムラー中将には四次防衛線の指揮に当たらせている。当分は大人しくしとるだろう」
「四次線というと、最終防衛線では無いですか」
大丈夫なのか、という響きを込めてヴィルハルトは言った。
「正面に置いておくよりは安心できる」
ディックホルストは身も蓋も無い返答を返した。
迫りくる〈帝国〉軍の侵攻を迎え撃つべく、〈王国〉東部方面軍が採用したのは縦深防御という戦術であった。
縦深防御の大まかな概要を説明するならば、こうなる。
まず敵の侵攻経路上に何重かにわたる防衛線を構築し、各防衛線は敵へそれなりの損害を与えた段階で後退。
それを数度繰り返し、度重なる抵抗によって消耗した敵を陣深くへと誘い込んだ後に包囲、若しくは総力を挙げた反撃によって殲滅する。
つまりは、敵を疲れさせるだけ疲れさせた後で止めを刺すと言った作戦である。
現在の〈王国〉軍は、防衛線を四段階に分けていた。
各防衛線は、なだらかな丘陵地帯である〈王国〉領東部の無数の丘を線で結ぶように、掩体壕や砲座を備えた特火点が構築され、その背後に布陣した砲兵部隊と共同して火力網を編み上げている。
当然、その中間には銃兵や騎兵といった運動部隊が配置されており、折を見て無理のない戦果拡張を図り、機を見て後退、次線へと合流。
これを四度繰り返し、〈帝国〉軍が損耗し尽くしたところで、温存し続けた戦力をもって一気に逆襲する計画であった。
これだけ大規模な防衛線の構築をたったの12日で完成させる事が出来た事は、ある意味で奇跡と呼んでよかった。
だが、もちろんそれは奇跡などでは無い。
元々、〈王国〉東部には、丘や主要な街道のそこかしこに、小型の要塞として機能する構造物や、掩体壕が作られていたからだ。
ディックホルストが東部方面軍の司令官に着任したその日から、〈帝国〉軍が責めて来た時はそれ以外に取りうる手が無いと営々と準備を進めていたからであった。
そして、もちろん問題が無いわけでは無い。
否、むしろ問題だらけであった。
部隊の展開こそ間に合ったが、やはり兵の練度が足らない。
分かっていた事ではあった。
だからこそ、ディックホルストは縦深防御という戦術を採用せざるを得なかったのだ。
予備役を根こそぎかき集めて頭数だけを揃えたところで、訓練から遠ざかって久しい者たちに現役のような戦いぶりを期待するのはあまりにも虚しい。
そして、縦深防御とは敵の侵攻を止める為の戦術では無く、あくまでも敵の侵攻を遅らせる為の戦術である事も問題であった。
この作戦は犠牲が、つまり〈帝国〉軍の占領地が、順次拡大する事が念頭に置かれた計画なのだった。
犠牲となるのは無論、そこに住まう人々の土地と家、そして或いは、命そのものだった。
「それに貴官は完璧に、いや、正直言って我々の期待以上の結果をもって任務を完遂した」
ディックホルストは、場の空気を変えるように言った。
ここまでは予定されていた問題に過ぎない。
今さらあれこれ悩んだところで、仕方のない事だった。
「いえ」
ディックホルストからの称賛を、しかしヴィルハルトは首を振って応じた。
「いささか、兵を死なせすぎました」
悔いるように言った彼の言葉に、ディックホルストとシュトライヒは絶句した。
そして、彼の顔に浮かぶものが本物の後悔だと気付き、呆れかえった。
ヴィルハルトの到着を待たずして、彼の優秀な部下が送った戦闘報告を彼らは目にしていた。
そこに記されていた内容はもちろんだが、何よりもその損害に目を見張った。
記されていたのは、戦死37名、負傷72名。
とてもではないが、三倍の敵を相手取った部隊の損害数では無い。
西側に布陣していたシュトライヒの指揮する独立銃兵第11旅団など、数にして二個連隊分と、実に半数近い損害を出している。
確かに、ヴィルハルトの独立捜索第41大隊と比べるまでも無く相手取った敵軍の数(一個師団だった)も、受け持った防御範囲も大きかったとはいえ、決して少なくはない。
理由についてはどうにも分からないが、〈帝国〉軍の攻め手に欠ける攻勢のお陰でどうにか戦い抜く事が出来たというのが現実であった。
であるからこそ、二人の将官は目の前に居る少佐の浮かべる後悔を傲慢だと受け取った。
損害をもっと少なく出来たと言わんばかりの、その態度に。
しかし、彼らはどちらともなく気付いた。
ヴィルハルト・シュルツは、本当に心の底からそう信じているのだという事を。
だからこそ、彼は今こうして、顔を歪めるほどに苦悩しているのだ。
ディックホルストとシュトライヒは、そっと視線を交錯させた。
目の前に立つ、野戦昇進を果たしたばかりの一人の少佐を前に、何と評したら良いのかが分からないのだった。
「まぁ、実際、諸君らは良くやってくれた。〈帝国〉軍が未だドライ川を渡れていないのは、紛れもなく貴官らのお陰なのだから」
沈黙を打ち切るように、ディックホルストが口を開いた。
ヴィルハルトの示した、底知れぬ何かについて悩む暇は無い。
彼らの眼前には、さらに現実的な、そして最大の問題が横たわっているからだった。
「しかし、それも今や意味のあった事かどうか」
ディックホルストの言葉に、シュトライヒが堪え切れぬように小さく嘆息した。
彼は感情を失くしたように、床を見つめている。
「どういう事でしょうか」
流石にヴィルハルトも顔を真面目なものへと切り替えると、尋ねた。
答えたのは、ディックホルストだった。
「長距離斥候に出ていた部隊から報せが戻った。昨晩の事だ」
ディックホルストは机の上に置かれた一枚の紙を取り上げると、そこに書かれた文面を一読し、諦観に似た笑みを浮かべた。
「〈帝国〉軍の本隊が遂に到着した。敵の総兵力は、今や少なく見積もっても20万だ」
「20万」
ヴィルハルトは乾いた声を出した。
途方もないその数を想像するように、凶悪な目つきが虚空を捉えている。
「対して、我が〈王国〉東部方面軍は予備役から何からかき集めてようやく七万。単純に考えても1:3の戦力差だ。いや、装備や士気による戦力倍増要素を合わせれば、それ以上だろう」
ディックホルストは開き直ったように言うと、詰め物がややくたびれ始めている椅子へと音を立てて座った。
ヴィルハルトは顔を上げると、何事かを口にしようとして、それからすぐに思い止まったように開きかけた口を閉じた。
「もちろん、中央軍や西部方面軍に増援を求めてはいるが、間に合うかどうか。兎にも角にも、今はわしらだけで戦うより他にない。この、圧倒的な敵軍とな」
ヴィルハルトが何を言おうとしたのか。
それを知っているという表情で、ディックホルストは報告書を指で弾いた。
「敵の指揮官は誰か分かりますか?」
「不明だ」
せめてもの慰めにと尋ねたヴィルハルトだったが、返答は残酷だった。
「我が国の情報部は何をしておったのですか」
罵るようにシュトライヒが尋ねた。
「〈帝国〉内へと忍ばせていた間諜とは連絡が途絶しておるらしい。同様に交易第三課も」
ディックホルストは諦めたような声音で答えた。
交易第三課とは、〈王国〉において対外諜報を主任務とする為に設立されている機関であり、同様の事柄を任務とする〈王国〉軍参謀本部情報部と対を成す諜報機関であった。
もっとも、表向きは〈王国〉内で行われる他国の商会との商取引を監督、統括する王立交易局の外局として、諸外国の経済情報を収集、分析するための部署だという事になっているが。
「聞きしに勝る〈帝国〉統制総務局のお手並みは見事だと評す他ない」
深々と息を吐き出しつつ、ディックホルストが名を出したのは〈帝国〉国内の不穏分子を見張るために皇帝の勅令をもって設立された〈帝国〉の対内諜報機関であった。
〈帝国〉には対外諜報機関である〈帝国〉外務総局第四課もまた存在するが、何故ここでディックホルストの口から統制総務局の名が出たかと言えば、外務総局第四課は純粋な外国諜報を専門とするのに対し、統制総務局は防諜もまた任務としているからであった。
その悪名は大陸中に轟いている。
彼らが皇帝の名の下、〈帝国〉の統制を保つために行ったのは思想弾圧から始まり、異文化の徹底的な排除、法に則り国の改革を推し進めようとした哀れな者たちの拷問、暗殺、そして果ては民族浄化。
そんな彼らが外国の諜報員に対して慈悲の心を示すなど、微塵も想像できない。
ちなみにだが、〈帝国〉がわざわざ対外、対内で専門の諜報機関を設けている理由は、あらゆる国家を併呑しつつ、ここまで肥大した〈帝国〉には内外問わず、その滅亡を望む者が多いからであった。
「つまり分かっている事はただ一つ。ここで戦う限り、誰も生きて故郷へ帰れんという事だ。いや、或いは死んだ後でも」
この世の何もかもを受け入れた求道者のような口ぶりで、ディックホルストは淡々と決めつけた。
続きは2日後。
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